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僕の愛おしき存在
外はまだ洞窟のように薄暗い。太陽はずっと東の方にあるけれど、遅々と昇り始めている。そこから届く幽かな光が、公園にある池を上から照らしつけて、ぎらぎらと水面は輝き、揺れていた。
街はまだ静けさを保ったままだ。大多数はそれぞれの居場所において、穏やかに眠っているだろう。
昨日は雪が降っていた。今日は幸い、雪は降っていないが、それでも何も纏っていない僕は、まるで南極にいる気分だ。身体が悴んでまともに動けない。
僕は神秘的な池を眺めながら、かつての思い出に浸っていた。あれは──僕がまだ大人には一歩届かないモラトリアムにいた時。
丁度今から1年ほど前の、ある日の朝、僕はお腹が空かなくて、かといって家族も全員寝ているし、何もすることがないものだから、適当に辺りを彷徨っていた。皆が起き始めた頃、戻ればいいかなと思って。
そしたら、偶然見かけてしまった。この公園……この池の前に立つ彼女を。
僕と同じように、何もすることがなくてぶらぶらと歩いている風に見えた。
でも、僕よりも年齢は高くて、すっかり大人だろうなと思った。とても垢抜けていて、どこか妖艶で、僕が今まで見てきた中で1番綺麗だった。大人の色気ってやつなのかなと、変なことを考えた。
「何をしているんですか?」と声をかけようかと思ったけれど、こんなに歳の離れた子どもの会話に付き合ってくれる訳がないと思ったし、そもそも彼女の散歩を邪魔するのは嫌だったので、やめた。
僕は、大した予定もないのに家を出て、路地裏で欠伸をかみ殺している猫のように、凄く呑気で落ち着いた印象を抱いた。あたかも、ここが彼女の家のようだった。
よく観察してみると──観察と言ってしまうと、ストーカーのような変態さを一気に帯びてしまうが、決してそういう意味では見ていなくて──純粋な気持ちで彼女を見つめていると、やはり彼女の美貌は際立って僕の目に焼きついた。
ガラスのように透明な瞳を持っていた。確かに色的には真っ黒な目ではあるのだけれど、その奥には、扇形のように朝の光が射し込んでいて、目の上に出来たハイライトが、その美しさをさらに強調していた。
加えて、雪のように白い身体。華奢ではあるものの、どこか育児に専念する母親のような強さを感じる。バレリーナの如きしなやかな曲線を描いた彼女の身体から、目を離せなかった。僕も、色白な方ではあるけれど、痣やシミがあって、とても彼女のようにきめ細やかな肌とは言えなかった。
僕はこの幸福すぎる数分間に満足して、のほほんと浮かれながら家に帰った。
次の日も、その次の日も、彼女は池の前にいた。どうやら本当にそこが大好きなようだった。
彼女に一方的な出会いをしてから1週間ほど経った時のことだ。しばらく魅入っていると、突然彼女はこちらを向いた。物凄いものを見てしまったというように目を大きく見開いて、次の瞬間、僕に勢いよく突進してきた。
僕は「ひっ」と叫んで左に避けようとした。
「動かないでください!」
「えっ……?」と呟いた次の瞬間、彼女は僕の真横をすり抜けて行った。
振り返ると、草むらにいた蝮が僕に襲いかかろうとしていた。
彼女が「やめなさい!」と威嚇すると、僕よりも一回り大きい彼女に驚いて、蝮は草むらの奥へするすると逃げ去った。
「大丈夫でしたか?」
「えっ? あっ、はい……ありがとうございました……」
透き通る瞳に射抜かれ、あまりの艶めかしさにぶっ倒れてしまいそうだった。全身を、「美」というものを纏った矢で貫かれた。僕の心臓に見事クリーンヒットした。彼女のくりくりとした目、柔らかそうな肢体に酔いしれそうだった。
「あなた、ここなら安全だと思って、気を抜いていたでしょう? 池の前だからって」
「あっ、そう、です」
それも勿論あった。だが、根本的な要因……「一番の原因は、あなたに見蕩れていて周りが見えていなかったことです」なんて、口が裂けても言えなかったので、訂正はしなかった。
「気をつけないとだめでしょう? 案外この辺りは危ないのよ。親御さんはどこにいるの?」
「えっと……1人で来ています」
「あらそう。私よりまだ全然若そうなんだから、こんなところで死なないで、もっと長くしぶとく生きてくださいね」
彼女はにっこりと微笑み、遠くへ行ってしまった。僕は、頭が沸騰しそうだった。
それ以来、彼女が公園に来ることはなかった。どこへ飛び去ってしまったのか、分からない。望みをかけて毎日訪れたけど、結局あれが最初で最後の会話になってしまった。
ああ、懐かしいなと、彼女は今は何をしているのだろうと、物思いに耽っていた時だった。
二足歩行の、僕よりも遥かに背の高い生き物がすたすたと歩いてきて、話しかけられた。
「こんなところで何をしているんだい? アヒルは水の中が気持ちいいんじゃないのか?」
「ここは思い出の陸なんだよ。口出しするんじゃない」
その巨大な奴は変なものを見るように顔を歪ませた。
「なんだ思い出って」
「白鳥さんだ。僕を助けてくれた、今となっては記憶の中で愛おしき存在になった、白鳥さん」
見上げながら教えてあげると、体から4本の棒が突き出たそいつは、やっぱりよく分からないという表情をして、池と僕に背を向けた。一体なんなんだ。
さあ、そろそろ帰るか。家族が待ってる。
僕は池の中へと飛び込んだ。
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