第二十筆「澪標」

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芦雪(ろせつ)!? 何故、君が……」 「良いから! 今は黙ってろ!」  藤仁はひどく狼狽していた。手にした絵巻の端を握り、己を守る芦雪(ろせつ)の背に疑問と焦燥をぶつけている。  だが、今の状況を藤仁に説明している時間はない。  茜音はひとりで二匹の四魂を相手にしている。彼の力を頼るには、あまりに距離と無理があった。 (万事休すか……!)  ぎりぎり、と唐獅子にかざした刀刃と鋭い爪が噛み合う。目の前で爛々と輝く獰猛な黄金の瞳が、邪魔だと言わんばかりに睨みつけている。  我慢の限界に達した獣は、くぱりと口を開けて、芦雪(ろせつ)に牙を振りかざした。  ──その時のことだった。    「あらあら。随分と無粋な(いぬ)ねぇ。……(しつけ)が必要かしら」  月光を背に、ひらりと白が舞う。  葉から滴る露を宿したような、透明感のある女人の声。  それは唐獅子の背後に……川面の上に降り立つと、手にした一枝(ひとえ)の菊花に赤錆のもやをまとわせ、瞬時に細身の刀へと変化させる。    その後、何の迷いもなく。己に背を向けた唐獅子に白銀を振り下ろした。  ギャウ! と、犬のような鳴き声が虚空を打つ。切られた背中には真一文字が刻まれ、黒々とした傷口が現れた。  本来であれば流れるはずの赤い血潮はない。ただ、掠れたもやが表出しているだけだ。  目の前の存在は、やはり血の通わぬ異形でしかなかった。    芦雪(ろせつ)は構えていた刀を再び鞘に戻し、追撃が繰り出せるよう、居合の体勢に身をかがめる。  けれど、獅子はその場に倒れ込み、小刻みに身体を震わせるだけだ。顔を背後の女人に向け、微動だにしない。  芦雪(ろせつ)のことなど、とうに忘れているかのようだ。    女人は白の面布(かおぎぬ)で顔を隠し、口元でしかその表情を窺い知ることはできない。  紅を乗せた唇は三日月の形を宿し、微笑んでいる。彼女は目の前の状況を愉しんでいるようだった。 「お前の相手は私よ。そう言ったのに、どうして先刻は私の前から逃げてしまったの?」   湿り気を含んだ空気の中、女人の声音だけが凛と冴えている。  彼女は手にした刀を獅子の首元に突きつけ、くいと顔を上げさせた。 「本当にいけない子。私の愛しい(あるじ)御子(おこ)……藤仁様を手に掛けようだなんて」  獅子に刻まれた傷口は豊かな毛並みに隠され、さわさわと乾いた音をたてている。  傷を塞ごうとしているのかと思いきや、真一文字に変わりはない。変化を見せているのは、その奥。    毛並みの隙間から覗いた、小さな白。傷口の中で、まるで膿のように何かが蠢いている。 (あれは……菊の蕾と葉々……?)  芦雪の疑問を置いて、真白き命は獅子の身体を宿主として次々に花開いていく。その度に女人は笑みを深め、呻き声をあげる獅子の頭を撫でていた。 「(しつけ)ても分からないのなら──お前は消してしまおうね」   女人の胸元が一瞬、薄紅に強く輝いて。  獅子の黄金の瞳が見開かれた瞬間、獣の身は呆気なく弾け飛んだ。  墨と血の匂いが染みついた、大小の塊が降り注ぐ。呆然と立ち尽くす芦雪(ろせつ)の前には、季節外れの菊花の花々が、女人の微笑を彩るように咲き誇っていた。
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