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「最後にもう一度、食べられてよかった」
水あめを食べ終えた夏穂は満足げに息をつくと颯太を見つめた。
「最後だなんて大げさだな」
「大げさなんかじゃないよ。だって、颯太は明日の朝には引っ越しちゃうんだから」
言葉のわりに晴れ晴れとした夏穂の声に颯太は唇を噛んだ。そんな颯太を見つめて夏穂くすりと微笑んだ。
「小学校にあがってすぐの頃、手をつないで学校に通ってたの、覚えてる?」
颯太は黙ってうなずいた。
新品のランドセルを背負った夏穂と二人並んで通学した記憶が薄っすらとだけど残っている。
「それを見た子たちが額を突き合わせて話してるのを聞いちゃったんだ。夏穂ちゃんはそうくんに色目を使ってる。夏穂ちゃんのお母さんもそうだった。島の男の人たちに色目を使ってた。お母さんたちがそう言ってた……って」
颯太は夏穂のやけに晴れやかな微笑みを呆然と見つめた。
夏穂と自分のことを学校の連中がそんな風に言っていたことも、夏穂の母親のことを島の人たちがそんな風に言っていたことも知らなかった。
「私が颯太と仲良くするとお母さんも颯太も悪く言われる。そう思ったらそれまでみたいに颯太と話すのが怖くなった。おはよう、また明日なって颯太は毎日言ってくれるのにどんな顔をして、どう答えたらいいのかわからなくなっちゃった」
夏穂がそんな風に思っていたことも全然、気が付かなかった。
「ずっとずっと素っ気ない態度を取って、無視して……颯太にいつか嫌われちゃうんじゃないかって怖かった」
颯太もいつか夏穂を嫌いになるんじゃないかと思っていた。
「だから、いっしょに夏祭りに行こうって声をかけられるとうれしかった。夏祭りのあとに颯太が水あめを持ってきてくれるとほっとした」
だけど結局、颯太は夏穂の部屋に水あめを持っていくのをやめることができなかった。
「これで全部」
呟いて、夏穂は颯太の左胸にそっと手のひらを押し付けた。それから、柔らかな唇も。
唇に広がった水あめの甘さに颯太は息を飲んだ。
「私のわがままも、この気持ちも」
ほんの一瞬で夏穂の唇も左胸に押し付けられた手のひらも離れていった。
なのに熱を帯びてじとりと汗ばんだ手のひらの形は胸に、焼け付くような水あめの甘さは唇に残り続けている。
「颯太といっしょに島の外に連れていって」
颯太の目をのぞきこんで夏穂はにひっと歯を見せて笑った。手をつないでいっしょに遊んでいた小さな頃と同じようで違う笑顔。
「全部、全部……颯太といっしょに連れてって」
そう言って笑って見せる夏穂の黒い目はゆらゆらと揺れて夜の海のようだと颯太は思った。
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