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一
黒い背景に「しばらくお待ちください」とだけ表示されていた画面が切り替わって、明るくなった。上品な和室に、将棋盤を前にして、スーツを着たふたりの男性が、真剣な顔をして向かい合っている。右側に座っているのは、眼鏡をかけた中年の男性。左側には、少し太り気味な20代の男性。真正面には記録係の若い男の子が正座をして、退屈そうに顔を下に向けていた。
「みなさま、おはようございます。この時間は、東京千駄ヶ谷の将棋協会”霧の間”から、明王戦本選第三局、羽田与志雄二冠対里田広志六段の対局をお届けいたします」と女性の柔らかい声が聞こえてきた。
羽田二冠が扇子を広げて口元を押さえ、「んんっ!」と大きな咳払いをした。
女性の声が続く。
「本日の解説は藤本毅九段、聞き手はわたくし女流棋士の升田が務めさせていただきます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」と藤本九段が言った。
「先生、戦型予想はいかがでしょう」
「そうですね。振り駒で羽田さんが先手を取ったので、ちょっと予想できないですね。羽田さんは振り飛車相手には相振りにすることが多いんですが、後手の里田さんも居飛車、振り飛車、どっちも指せるんで、相手の出方を見ながら戦型を決めるっていう方針になるんじゃないかなあ」
「だとすると、序盤から目が離せない展開になりそうですね」
「ええ。楽しみです」
午前十時ちょうど、記録係が顔を上げた。
「それでは、時間になりましたので、羽田二冠の先手で指していただきます。持ち時間は各1時間、時間を使い切りますと、1手1分以内です。それではよろしくお願いします」
「お願いします」両対局者は将棋盤に額を付けるかのように深く頭を下げた。
「始まりましたね」と升田女流の声が聞こえた。
顔を上げた羽田二冠は右手の指先で駒を掴むと、ぴしゃり、という高い音を立てて、初手を打った。7六歩で角道を開ける。1秒を惜しむかのように後手も即座に二手目を指す。二手目は3四歩で、同じく角道を開いた。
画面が切り替わって、藤本九段と升田女流が座っている解説室を映し出した。解説室は障子が背景になっていて、正面の小高い台に聞き手と解説者が並んで座っている。ふたりの手もとには、タッチパネル式の小さなディスプレイが見やすい角度に傾けられて置いてある。
「改めまして、よろしくお願いします」
「お願いします」解説室のふたりは軽く頭を下げた。
ぴしゃり、という音がまた響いた。画面右下に、対局者の盤の画面がワイプで映っている。
「あ、3手目は5六歩ですね」
「あら、意外だな」と藤本九段があごに手を当てて言った。
「これは、中飛車に振るということでしょうか」
「いや、それはまだわからないですね。この形から矢倉に行ったり、後手から角換わりしたりすることもあるから。でも、この形から後手が飛車を振ったら、中飛車にしますよ、というメッセージというか、合図なんじゃないかな」
また画面が切り替わり、ゲームのような、簡易なコンピュータグラフィックの将棋盤と駒が映し出された。駒の配置は、現在の対局と同じになっている。
「えー、ここで明王盤について少し説明させていただきます」と升田女流。
「明王盤っていうのは、今画面に映っているやつのことね」
「ええ、そのとおりです。これは両対局者の駒の動きをほぼリアルタイムで再現して、駒をこの明王盤の上で、私たちの手もとにあるタッチパネルで操作して対局を検討することができます。また、将棋ソフトも内蔵されていて、最善手をコンピュータがどのように予想しているか表示できたり、現在の局面の形成判断を点数で評価したりできます。本日、使用する将棋ソフトは、今年の将棋ソフトトーナメントで優勝した”利巧”となっております」
「へえ。そんなこともできるの」
「はい、ちょっとやってみましょうか。今の形成判断を……」
升田女流がタッチパネルを触ると、棋譜の記録している画面の右半分の部分だけが切り替わって、
先手 +12 後手 -12
という表示と共に、棒グラフが先手が有利だということを表示している。
「まだ3手目ですから、当たり前と言えば当たり前ですが、ほとんど差はついてませんね」
「まあ、そうだよね。こんなところで優勢劣勢が決まってちゃ、やってられないよ」と藤本九段が冗談めかして言った。
ぴしゃり、という音がして、後手の里田六段が4手目、3三に角を上がった。明王盤のCGも角が動く。すると、将棋ソフト”利巧”の評価も若干変化して、
先手 +28 後手 -28
となった。
それを見た藤本九段が、
「あ、変わった」と少し驚いた様子で言う。
「3三角は、向かい飛車にするということでしょうか」
「そうだね。こうなると後手は向かい飛車にするしかないけど、後手の点数下がっちゃったね」
「ええ。どうもコンピュータは、振り飛車は少し不利というふうに判断するクセみたいなのがあるみたいです」
「へえ。そうなんだ」
「藤本九段は振り飛車党ですが、いかがですか?」
「まあ、飛車が横に1手余計に動いてるぶん、居飛車に比べたら不利と言えば不利なんだろうけど、でも十分に戦えるよ。升田さんは?」
「私は基本的には居飛車ですけど、たまに相手によっては飛車を振りますかね。たぶん10局に1局くらいですけど」
「まあね。あんまり同じ戦型ばっかりだと、飽きちゃう……、”飽きちゃう”なんて言い方するとアレだけど、たまにはほかのやってみようかなって、思うときがあるよね」
先手羽田二冠は飛車を5八に動かした。ほぼノータームで、後手里田六段は飛車を2二に振った。
「相振り飛車になりましたね」
「うん。そうなんだけど……。えっと、このタッチパネルで明王盤の駒、動かせるのかな?」
「あ、できます。どうぞ」
「えっと、次は、先手が玉をどっちに持っていくかっていうのが課題で、昔は飛車を振ったら玉を右に持って行って囲うのが定跡だったんだけど、最近、こういう手が流行ってきてね……」
藤本九段がタッチパネルを操作すると、明王盤の上で先手の玉が4八ではなく6八の方向に動いた。
「ふつうの振り飛車と逆ですね」
「そう。”左穴熊”っていう名前が付いている戦型なんだけど、これだと飛車は振ってはいるものの、感覚としては完全に居飛車だね」
「だとすると、後手はどのように囲うんでしょうか」
「たぶん、後手も同じように穴熊にすると思うよ。こうやって、これからの動きをちょっとやってみますね」
藤本九段はCGの駒を動かしていく。後手6二玉、先手7八玉、後手2二玉、先手7七角、後手8二玉、先手8八玉、後手1二香、先手9二香、後手1一玉、先手9九玉、後手2二銀、先手8八銀、後手7一金。
そこまで動かしたところで手を止めて、
「こんなふうに進行するんじゃないかな。後手のほうはこれで問題ないんだけど、先手としては、右側の金をどっちに持っていくかっていうのが難しいところだね。できれば玉の守りを固めたいところだけど、将来的に角交換が起こった後に、桂馬と香車を守ろうと思ったら、右のほうに展開していったほうがいいかもしれない」
「ということは、まだまだ課題が多い局面ということですか?」
「そうだね」
画面が変わって、両対局者の様子を映し出した。後手の里田六段は首を横に向けて目を閉じている。
「先生は里田六段にはどのような印象をお持ちですか?」
「うん。新進気鋭の若手棋士っていう感じだね。まだ若いのに、20歳くらいだっけ?」
「21歳ですね」
「序盤、中盤、終盤、スキがないというか、とにかく何をやっても上手いよね。将来の棋界を担う有望な人材の一人といったところかな」
「里田六段は、藤本九段のお弟子さんの田島四段とよく研究会を開いてらっしゃるようですが」
「うん。田島くんのほうが確か少し先輩だったと思うけど、歳が近いから気が合うみたいだね」
「先手の羽田二冠のほうについては、いかがですか。藤本九段は羽田二冠と何度も公式戦で対局されていると思いますが……」
「羽田さんの将棋は、本当に不思議、としか言いようがない。僕もたぶん30局くらいは対戦して、7割くらいは負けてるんだけど、気付いたらいつの間にか僕のほうが劣勢になってるんだよ。終盤は詰みがあったらぜったい逃さないし、本当に天才だね」
「羽田さんは、普段はどのような方ですか?」
「普段ですか? 普段は……、ふつうだね。けっこう冗談も言うし、気さくで付き合いやすい感じですかね。あと、甘い食べ物が大好きで、よく食べてますね」
「甘い物と言いますと、ケーキとかですか?」
「ケーキに限らず、和菓子もよく食べてるよ。とにかく、持ち時間が長い将棋だったらおやつに必ず甘いものを注文してるね」
解説室のふたりがしゃべっているあいだに、局面はさっき藤本九段が動かしていたとおりに進んだ。後手7一金まで進んだのを確認してから、藤本九段はまたタッチパネルを操作した。
「ここまではもう、ほとんど定跡と言ってもいいね。で、さっきも言ったとおり、金をどっちに動かすかっていうのが悩みどころなんだけど、たとえば、こういう感じで」
明王盤の上で先手の右側の金が、4八と飛車のすぐ隣に動いた。
「それじゃ、この場合の”利巧”の形成判断を見てみましょうか」
升田女流がタッチパネルに振れると、
先手 -221 後手 +221
となった。
「えー!? これで先手が不利になっちゃうんだ。トントンくらいかと思ってたけど」藤本九段が唸り声を上げた。
そして明王盤の駒の配置を、現在の対局者のものと同じに戻した。
「意外ですか?」
「意外っていうか、ちょっと残念な気がするね。先手側でもじゅうぶん指せると思ってたから」
藤本九段はまるで自分が対局しているかのように難しい顔をして目を閉じた。そして、「あー、そうか」というような独り言を何度かつぶやいて、まぶたを開いた。
「先生は、研究や対局の検討などで将棋ソフトをお使いになられることはありますか?」
「うーん。自分が指した将棋の終盤の確認には使うこともあるけど、序盤の研究にはあまり使うことはないかな。やっぱり、コンピュータのほうが終盤が正確だから」
「どのソフトをお使いになってます?」
「えっと、ほら。何年か前に、初めてプロ棋士に勝った、コナンザっていうやつ。あれをうちのパソコンに入れてます」
「自宅でコンピュータを対戦されることって、ありますか?」
「あるよ。コナンザとは、まあ勝率で言ったら8割くらいは勝てるけど、最新のはもっと強くなってるんでしょう。たぶん、ぜんぜん敵わないね」
「先生からご覧になって、将棋ソフトの強さって、何がその秘訣なんでしょう」
「やっぱり、コンピュータは疲れないから。人間はどうしても、何時間も盤の前に座ってると、いつかは変な手を指しちゃう。特に終盤の、疲れに疲れ切ってるときが、いちばん重要な局面だから」
「もし仮に、ぜんぜん疲れない棋士がいたとしたら、将棋ソフトに全勝できますか?」
「いや、それは無理だと思う」藤本九段はあっさり言った。
後手が駒を動かすと、明王盤の形成評価が、
先手+190 後手-190
に変化した。
「人間がコンピュータに負けるのは時間の問題だったわけで、それが今やって来たっていうだけのことだよ。もう実際には、プロ棋士が束になって掛かって行っても勝てないくらい強いでしょ。……たまに、人間がコンピュータに負けたのに、弱い人間が将棋を続けることに意味はあるのかって言う意見もあるみたいだけど、コンピュータはあくまでも道具だから、この道具をどのように上手に使って将棋という日本の伝統文化を後世に遺していくかっていうことを考えなきゃね」
「そうですね」
「コンピュータのほうが強いから人間がやることに意味がないって言うなら、そのうち人間なんか地球上にいらなくなるなんてことになっちゃう」
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