最終章:「みえない僕と、きこえない君と」

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 「仕事を、っ………辞める!!!?」  広い病室内に僕の声が木霊する。  何がどうして、そんな話になるのか…… まったくわからなかった。第一、咲さんと いう可愛い彼女が出来て、これから益々 頑張らなければいけない時に、なぜ、そんな 話になるのだろう?  その疑問をそのまま本人にぶつけると、 町田さんは膝の上で両手を組み、少し目を 伏せた。その表情が、いつかの日、二人で カレーを食べに行った時に見たものと、 重なる。  「本当はさ、あいつが死んだ時からずっと 考えていたんだよね。俺はこの世に生きてる のに、あいつの為に出来ることは何にもない のか、って。あいつの、弟の夢は教授になる ことだったんだわ。だから、羽柴クンと同じ 大学目指してたのよ。結局、夢を追いかけた ままで、弟の人生は終わっちゃったんだ けど……」  目を伏せたままの町田さんの声はやはり、 どこか寂しげだった。一見、飄々と生きて いるように見える町田さんの心の内は、 こんなにも繊細で温かいものだったのだと、 改めて知らされる。  僕は彼が言わんとしていることを悟り、 穏やかな声で訊いた。  「もしかして、仕事を辞めて弟さんの 代わりを生きるつもりですか?」  その問いに町田さんは顔を上げ、笑みで 答えた。  「何かさ、ひたむきに生きる二人の姿を 見てたら、“やっぱり俺も”って、決心出来 ちゃったんだよね。二人の生きざまに感化 されちゃった、って言うの?この年で受験 とか、馬鹿げてるって思うだろうけど、 こう見えて俺、模試の成績は意外に良かっ たんだよね」  シシシ、と、白い歯を見せて笑うその顔は いつものもので、僕は隣で微笑んでいる咲さん に目を向ける。  「咲さんは、いいんですか?彼氏が無職の 上に、受験生とか」  年が明ければ、町田さんは三十だ。  二人の将来を考えるなら、町田さんの選択 は、かなり遠回りをすることになってしまう。  「そんなの、ぜんぜん大丈夫よ。わたし、 まだ二十四歳だし、腕っぷしあるからいざ となれば孝クン養うくらい出来ちゃうし。 それよりも、生きたいように生きることの 方が大事なんじゃないかな?人生って、 思ったより短いから、ここで決心しなかっ たら、きっと、いまと違う人生を生きるこ となんか出来ないと思うんだ。それに、 羽柴さんがついててくれれば、きっと一発 で受かると思うの。ねぇ、孝クン♪」  ふふっ、と、町田さんと笑い合って、 咲さんが僕の顔を覗く。  つまり、僕は町田さんの“専任講師”として、 すでに白羽の矢が立っているわけだ。  僕は自分を指差し、一瞬、きょとん、と してしまったが、すぐに苦笑いを浮かべた。
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