最終章:「みえない僕と、きこえない君と」

6/13

97人が本棚に入れています
本棚に追加
/112ページ
 咲さんには、弥凪と共に手話を伝授して もらっているし、町田さんの頼みとあれば 僕が断れるはずもない。不意に、つんつん、 と弥凪が僕の腕を突いた。その合図に隣 を向けば、彼女は(頑張って)と、手話で 言って笑いかけている。僕は力強く頷いた。  「そうと決まれば、いつまでも休んでいら れませんね。高校時代の参考書とってあるん で、退院したらすぐに始めましょう。僕は厳 しいですよ?いいんですか?」  「もちろん、そのつもりだからビシバシ 頼むわ。これから職場では会えなくなるけど、 羽柴クンちが俺の予備校になるからな。見返 りは咲の“手話教室”ってことで」  町田さんがそう言うと、咲さんは誇らしげ に僕にピースサインを送った。 ――手話に点字に、町田さんの受験勉強。    考えただけで、僕らの日常はとても多忙で、 すごく楽しいものになりそうだ。  それから、僕たちは陽が暮れるまで取り とめのない話で盛り上がった。もし、ここ が一般病棟だったら、こんなにも楽しい 入院生活を送ることは出来なかっただろう。  一泊の宿泊料を考えると、弥凪の父親に は申し訳ない限りだけれど……このお礼は、 いつか必ず僕の口から伝えよう。そう心に 誓った僕は、帰り際、  「万事がうまくいくといいな」  と、囁いた町田さんに淡く笑んだのだった。  「じゃあ、荷物の整理が出来たらナース ステーションに声をかけてくださいね。退院 の手続きは十一時までに入退院センターで お願いします。次回の診察予約は、さっき 伝えましたっけ?」  夕食後、退院証明書や請求書を手に やってきた看護婦さんが、僕の顔を覗く。  「はい。一週間後の十時半ですよね。 診察を終えたら、そのままリハビリに来る ようにと……」  看護婦さんの質問にきっちりそう答える と、彼女はにこりと笑って頷いた。  「場所は総合診療棟の三階です。ちょっと、 わかりにくい場所なので、エレベーター乗る 時、間違えないように気を付けてくださいね」  「わかりました」  それじゃ、と、ベッド横に備え付けられて いる細長いテーブルに書類を置いて、部屋を 出ていく。僕はドアの向こうに白い背中が 消えるのを見届けると、応接セットの椅子 から立ち上がり、窓の外を眺めた。  紺青の空の下に、ぽつぽつと街灯りが見え る。地上十二階建ての病棟の最上階から見る 夜景は美しく、ここが病室だということも 忘れてしまいそうになる。  あの夜から二週間以上続いた入院生活も、 今日で終わりだ。だから、この夜景もこれで 見納めとなる。僕は夜空の中に淡く浮かび 上がる自分を見つめると、小さく息を吐いた。
/112ページ

最初のコメントを投稿しよう!

97人が本棚に入れています
本棚に追加