最終章:「みえない僕と、きこえない君と」

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 “今日は残業になってしまいそうだ”と、 弥凪からメールが届いたのは夕方ごろだっ た。午前中に来てくれた母も、昼過ぎには 不要な洗濯物を持って帰ってしまったから、 今日は少し時間を持て余している。 ――さて、どうするかな。  僕は運動がてら一階のコンビニを覗きに 行くか、同じ階にあるスカイラウンジで 温かいコーヒーでも飲むか……悩みながら、 備え付けの引き出しの奥にしまってある 財布に手を伸ばした。  その時、コンコンコン、とドアをノック する音がした。  「はい、どうぞ」  入り口に背を向けたままで、返事をする。  看護婦さんが戻って来たのだろうか?  いや、案外、弥凪かも知れない。残業に なると言っていたけれど、早めに仕事が 終わったのかも。  そんなことを思いながら顔を上げた僕は、 入り口を振り返った瞬間、思わず言葉を 失ってしまった。  そこに立っていたのは、看護婦さんでも、 弥凪でもなく、ビニール袋を手に窺うよう な視線をこちらに向けていた、弥凪の父親 だった。  「……いま、大丈夫かな?」  財布を手にしたまま突っ立っている僕に、 父親が訊ねる。僕は、ふっ、と意識が戻った ように何度も頷くと、「もちろんです!」と 返事をし、父親を応接セットへと促した。  そうして、いま手にしたばかりの財布を 引き出しに戻す。突然現れた父親に、心臓 は口から飛び出しそうなほど、バクバクと 鳴っている。  父親は、ぐるりと室内を見回しながら 部屋の奥へ進むと、ゆっくりとソファーに 腰を下ろした。僕は冷蔵庫から弥凪の母親 が置いていった緑茶を二本取り出すと、 おずおずとテーブルに近づいた。  「あの、これ、弥凪さんのお母さんが 置いていってくれたものですけど……」  「ああ、ありがとう。いただくよ。これ、 カレーが好きだと聞いたから。夜食にと思っ て買って来たんだけど……カレーコロッケ。 ここのは、旨いらしいよ」  テーブルにペットボトルを置いた僕に そう言って、ビニールを差し出す。  「ありがとうございます。いただきます」  僕はそれを受け取ると、向かいの席に腰か けた。ビニールの中を覗けば、紙袋に包まれ たカレーコロッケが二つ入っている。それは まだ出来立てのようで、ふわりと、揚げ物の 匂いが漂ってきた。  香ばしい匂いを嗅ぎ、ごくりと唾を飲む。  ちょうど小腹が空いたな、と、思っていた ところだった。  「よかったら、温かいうちに食べてくださ い。ソースはないけど、そのままでも十分 美味しいらしいから」  「はい。……じゃあ、さっそく」  父親が目を細め、そう言ってくれたので、 僕はまだ温かいコロッケをビニールから取り 出した。そうして大きな口を開け、パクリと かぶりつく。すると、すぐにコロッケの真ん 中からカレーのフィリングが顔を出した。  それはトロリと濃厚で、周囲を包むさっぱ り目のポテトによく合っている。僕はあっと いう間に一つ目のコロッケを食べ終え、満面 の笑みを浮かべた。
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