最終章:「みえない僕と、きこえない君と」

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 父親の口から聞かされた話は、初めて聞く ことばかりで、僕は弥凪のいままでの人生を 何も知らなかったことに、気付く。  確かに、途中から障がいを背負った僕に 比べれば、弥凪の苦労は計り知れないだろう。  けれど、だからと言って僕たちの未来まで 悲観的に捉える必要があるだろうか? ――どんな人生にだって、苦労はある。  それは障がいがあっても、なくても、 その分量は変わらないのではないだろうか?  人生は幸せなことも、辛いことも、どちら もあるからこそ、深みを増してゆくものなの だから。  僕は小さく息を吐くと、背筋を伸ばした。  父親の想いをしっかりと受け止めた上で、 伝えたいことがある。  「将来、もしかしたら、お父さんの案じて いることが、現実に起こってしまうかも知れ ません。でも、それは障がいのない夫婦でも 同じことなのではないでしょうか。どんな命 を授かっても、守ってゆく。その覚悟はある つもりです。僕も弥凪さんも、小さくはない 障がいを背負っていますが、いま、“生きてい て幸せだ”と、胸を張って言えると思います。 だからどうか、僕たち二人を、見守っていた だけないでしょうか。弥凪さんはきっと、 お父さんに、一番幸せな姿を見せたいんだ と思います」  遥か向こうの水平線を見ながら、父親への 想いを語った彼女を思う。  あの時、僕は「幸せにする」とも、 「幸せになろう」とも、言えなかったけれど。  その理由がいまになって、やっとわかった 気がする。 ――僕たちは、すでに“幸せ”なのだ。  だから、彼女に伝えるべき言葉はたった ひとつ。 ――“ずっと幸せでいよう”。  そのひと言なのだろう。  「たとえ、目が見えなくなっても、耳が 聞こえなくなっても、君は弥凪を手放した りしないんだろう?だったらもう、わたし に出来ることは決まっているじゃないか。 生きたいように、生きなさい」  瞬きもせずに、ずっと僕を見つめていた 瞳が、ふっ、と緩んだ。肩の力を抜くよう に息を吐き、微笑を浮かべる。  許されたのだと……。  理解するまでに数秒を要した。そうして、 その言葉の意味を理解した瞬間に、僕は 破願する。  「ありがとうございます!!」  涙が零れてしまいそうだった。  笑んでいるのに、視界が涙で歪んでしまう。  あの日の朝、弥凪の腕の中で大泣きして から、僕の涙腺はずっと緩みっぱなしだった。  ひとしきり頭を下げたのち、さりげなく 指先で涙を拭い、頭を上げる。  「僕も、お茶いただきます」  照れ隠しからそう言ってペットボトルに 手を伸ばした。が、伸ばした手は少しずれ ていて、すぐそばにあった飲みかけのペット ボトルを倒してしまった。  「!!!」  どきりとして、息を呑んだ僕の目の前で、 父親がぱっ、とそのペットボトルを受け 止める。  「すみません。ありがとうございます」  ほっ、と胸を撫でおろしながらそう言う と、父親は目尻に皺を寄せて言った。  「まったく。手のかかる“息子”が増え そうだな」  その言葉はやさしく、温かく、僕の胸に 残り続けたのだった。
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