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S高原へ
1.
終点のふたつ前の駅に着くと、乗客がごっそりと減った。
閑散とした車内に寂しさを感じ、志知(しち)七虹(ななこ)はそわりと手を動かし、無意識のうちにバッグのサイドポケットの中の携帯電話を探る。
真っ黒な液晶画面。そうだ。電源を切っていたのだ。
こんなに長く――といっても家を出た早朝から現在の午後一時半までの間だが――家族や友人と連絡を取らなかったのは初めてだ。いつもならメッセージアプリやSNSで、母親や親友たちと常時他愛ないやりとりをしているのに。
電源を入れようか、という考えが浮かぶ。
どこにいるのかと尋ねられたら適当に答えればいい。終点まであと三十分。それまでこのガランとした車内で一人で過ごさなくてはならないなんて、退屈で死ねる。
(……だめ。それじゃあ意味が無い)
ふるふると首を振ると、ボブにそろえた黒髪が揺れる。
七虹は携帯電話を鞄の隠しポケットの中に突っ込んだ。ファスナーをきっちりと閉める。
気を紛らわせようと、窓の外を見た。
夏の快晴の空は、都会とはまったく違う鮮やかさだった。連綿とつらなる木々も色が濃く、深緑の強い香りがする。蝉の声もより喧しく、熱風と共に車窓から入り込んでくる。
これまで幾度も旅行をしたけれど、こんなにゆっくり景色を観るのは初めてだ。これが一人旅の醍醐味か――などと、二十二歳、大学最後の夏休みで初めての一人旅を味わっていると、ごろん、と足元に何かが転がってきた。
拳より大きな、黄色い球型の……ボールかと思ったが、
(夏みかん……?)
その時、七虹の真横を誰かが通り過ぎた。
「あの、落としましたよ」
その人物が、通路を挟んだ向こう側の席に座る老女に話しかけた。両手に夏みかんを持って。
「あらやぁね、気づかなかったわ。ありがとう、お嬢さん」
老女が夏みかんと隣に置いてある紙袋を見比べて喫驚した。紙袋は倒れており、夏みかんはそこからこぼれたらしい。
七虹も立ち上がり、
「これも落ちましたよ」
と、夏みかんを老女に差し出した。
老女は笑って、七虹と、『お嬢さん』と呼ばれた女――というか少女に礼を言った。いえいえ、と二人して首を振る。
終点のひとつ前の駅に着いた。老女が去り際に、七虹と少女に夏みかんをひとつずつ渡す。二人が遠慮する素振りを見せると、「もらってちょうだい」とえびす顔に押されて、そのまま受け取ってしまった。
七虹と少女は顔を見合わせ、……くすりとお互い笑い合った。
「なんだか、逆に申し訳ないですね」
なんとなく向かい合って座る。少女が気安い調子で、けれど礼儀正しく話しかけてきた。
肩につかないくらいの長さの栗色の髪は、わたあめみたいにふわふわだ。両目は垂れ気味で、一見おとなしそうに見えるが、きらきらとしていて快活そうな子である。年の頃は十代半ばだろう。
「夏みかん、五つくらいしかなかったのにね」
笑い返すが、正直言って夏みかんは苦手だ。剥くのが大変だし、苦くて酸っぱい。
少女が両手で夏みかんを持ち、じぃっと見つめる。くんくんと匂いを嗅ぐと、おもむろに皮を剥き始める。ナイフなど無いので親指の爪で力任せに。爽やかな柑橘の香りが辺りに漂った。
手を汁気でベドベドにしながら、少女は薄皮ごと果肉を口に入れる。大胆な子だわ、と七虹は少し引いた。
強い酸味に少女が酸っぱい顔をする。けれどすぐに頬を緩ませ、
「酸っぱい。でもおいしいです」
実に幸せそうに夏みかんをもぐもぐ食べる。
その様子に、七虹は思わず吹き出した。
「どうかしましたか?」
少女がこちらを向いた。大きな瞳はまんまるく潤んでいて、髪型もあって子羊のようだ。
「ううん、何でもない。よかったら、あたしの分ももらって?」
「え、でも」
「いいの。あたし、夏みかん苦手だから。もらってくれると嬉しいな」
そう言うと少女は、七虹の差し出した夏みかんを受け取った。そして、今の季節に満開を迎える向日葵のように笑顔を咲かせた。
「ありがとうございますっ」
素直な反応に、七虹の心も明るくなる。一人旅の寂しさが癒えたような気がした。
「あなたも終点まで行くの?」
「はい。S高原まで」
汚れた手を拭きながら少女が答える。
珍しい、と思った。
終点のS高原は、H県の最北部に位置している山々に囲まれたリゾート地だ。
だが、この不況で開発が中断され、ほとんど整備されていない。ログハウスタイプの宿泊施設だけが森に囲まれた中にぽつんと存在し、それも管理人が常駐していないといった有様で、ネットでは『なりそこないリゾート』と揶揄されている。
こんな若い子が好んで、しかも一人で行くようなところではないーー七虹自身には明確な目的があるから、あえて棚上げしての意見だった。
「日帰り?」
「いえ、宿泊します」
少女の意外な答えに、七虹は声を上げそうになった。
「テントで野宿、とか?」
「ログリゾートSっていうところに泊まる予定です」
S高原唯一の宿泊施設の名前だ。
そこは今日七虹が――七虹たちが利用するはずだ。それなのに。
「あなた、高校生くらいよね?」
見ようによっては中学生にも見える少女に、七虹は上目遣いで尋ねた。
「……えっと……、今年で十七になります」
奇妙な答え方だが、やはり高校生――未成年だったか。
(これ、いいの……?)
口元に手を当て、妙な焦りを感じていると、少女が手をポンと叩いた。
「今更ですけど、わたし木瀬(きせ)椿(つばき)と言います。お姉さんのお名前、伺ってもだいじょぶですか?」
その無邪気な物言いに、仔犬のような人懐っこさに、思わず力が抜ける。
苦笑しながら、七虹は自己紹介を返した。
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