僕を呼ぶ声、私の叫ぶ声

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 緑樹のトンネルを抜けると、そこは赤茶けた荒地だった。砂礫だらけで草一本見当たらない。日の出から間もないというのに、とんでもなく暑かった。焼け付く日差しに炙られた未舗装路から陽炎が立ち上っている。前日まで記録的な大雨が降っていたにもかかわらず地面が乾いているので、車のフロントガラスが土埃で薄汚れた。ウォッシャー液のスイッチを回したけど何も出てこない。もう一度スイッチを回してもウォッシャー液は出なかった。さらに不運が続き、スイッチがもげる。僕は小声で悪態を吐く。なんつーボロ車だ、このバカたれ! 助手席の男は、その呟きを聞き逃さなかった。 「お前、今、何か言ったよな?」  僕は首を横に振った。 「言ってませんよ」  相手の男は疑り深かった。 「バカって聞こえたぞ」 「気のせいですよ」 「本当か? 本当に言わなかったんだろうな?」 「ええ」 「もしも嘘だったら、ただじゃおかないぞ」  男はズボンの裾を捲り上げ、足に止められていた革のホルダーからナイフを取り出した。その刃先をベロベロ舐めながら語る。 「俺はバカと言われるのが嫌いだ。俺をバカ呼ばわりした奴らは全員、喉を切り裂いて殺している。お前もそうなりたいか?」  返事をするのはバカらしかったので僕は黙ってハンドルを握り続けた。その沈黙を、助手席の男は屈服と受け止めたようだった。満足そうに笑う。 「そうだ、それでいい。ククク、ナイフのキレ味を試したい気分だったが、それは次の機会にするよ」  道に段差があって、僕らの乗るダンプカーが大きく上下に揺れた。その弾みで、助手席の男のナイフが持ち主の鼻にザックリ刺さった。ぼたぼたっと流血し、男は「ひゃあっ」と気の抜けた悲鳴を上げてナイフを落とした。僕は男に気を遣った。 「大丈夫ですか? 急ぐので車を停められないんですけど、勘弁してください。あ、それからシート、汚すと怒られるかもしれませんよ。会社の車だからといって粗末に扱うの、大嫌いな人がいるんで。血痕で汚れたところを見つかる前に掃除した方が良いです」  助手席の男は鼻を抑えて止血を始めた。反対の手で床に落としたナイフを拾い上げようとするが、上手くいかない。ナイフを見つけようと頭を下げたとき、前のダンプカーが急停車したので、僕は急ブレーキを掛けた。弾みで助手席の男はダッシュボードに頭をぶつけた。 「大丈夫ですか?」  返事の代わりに男は呻き声を挙げた。大丈夫を意味するのかと思ったら、違った。隣から悲痛な声が流れてくる。 「頭を酷く打った。骨が折れたかもしれない。折れてなくても、頭の骨がズレたかも」  助手席の男が言うには、頭の骨は幾つかの部分に分かれているそうで、頭に強い刺激を受けると、それがズレる、とのこと。何だかよく分からないが大事らしいので、僕は訊いた。 「ズレるとどうなるんです? 血が出るんですか? ナプキン当てときますか?」  狂人を相手に精一杯の優しさを示してやったつもりだが、僕の厚意は逆効果だった。 「ふざけるな! そんなもん頭に当ててどうすんだよ! 人のことをバカにするのも大概にしろってんだ」  ナイフを持った狂人がブチ切れたら、そらもうえらいことでっせ! と関西の落語家なら言い出しかねないが、僕も標準語で同じことを考えていた。刺されたらかなわないのでサッサと車を降りる。先に停まっているダンプの運転席からも人が出てきた。急に霧が出てきたから分からなかったけどボスだった。  僕は周囲を見回した。高地なので天候が急変するとは聞いていたけど、こんなになるとは思わなかった。運転しているとき、進行方向の右側に深い谷が見えて、その縁で停車したのだけれども、もう谷底は霧に隠れて見えない。  ボスが僕の方へ歩いてきた。 「この谷に落とす。準備しろ」  ライオンは我が子を千尋の谷に突き落とし、這い上がってきた子だけを育てるという。僕たちが谷に落とすのは不法投棄の産業廃棄物なので、這い上がって来られると困る。  ボスも辺りの様子を窺った。霧で何も視界が遮られていることにご満足の体である。それでも警戒は緩めなかった。産業廃棄物の不法投棄は犯罪なのだ。 「パトロールの連中に見つかりたくない、匕首(あいくち)に見張りをさせろ」  匕首とは鍔の無い短刀で、この場合は助手席の男の呼び名だ。あの男を、ボスは本名で呼ばず、そう呼ぶ。某刑事ドラマの影響を受けているのだ。もしかしたら、本名を知らないのかもしれない。僕も知らない。あいつが何者か知らないけれど、危ない奴というのは分かる。それでも、ボスの命令を伝えなきゃならない。あのバカが車から降りたら、こんな手間をしなくてもいいのに……と思いつつ助手席側へ回ってドアを開けたら、頭の上からバカが落ちてきた。受け止める、なんて出来やしない。驚いて飛び退くのがやっとだ。どさっと落ちた助手席の男は意識が無かった。僕はボスを呼んだ。駆けつけてきたボスが男を調べた。 「息はしている。何にせよ、ここじゃ何もできない。しばらく寝かせておけ」  とはいえ、そこら辺に寝かしておくわけにもいかない。ダンプカーを方向転換するとき踏み潰してしまったら厄介だ。ボスはさっさと行ってしまったので、匕首の体を一人で路肩へ動かそうと四苦八苦していると、専務の乗ったダンプカーが道の後方に停まった。  僕は不思議に思った。専務のダンプは僕の前を走っていたはずだ。いつの間に追い越したのだろう。ここに来るまでの山道は一本道だったし、途中に車を停める場所なんて無かった。  専務が車から降り、こちらへ歩いてきた。僕と倒れている男を見て訊いてきた。 「何があった?」 「自分で車から降りて来なくて、僕がドアを開けたらどさっと落ちてきました」  専務は倒れている男の顔を眺めた。 「顔から落ちて、鼻から血が出たのか?」  僕は事情を説明した。シートが血で汚れたかもしれないけれど、それは僕の責任ではないことをアピールする。そうしないと、僕が専務に怒られるかもしれないからだ。専務は不法投棄をする悪徳業者の人間のくせに愛社精神がふんだんにあって、会社の備品を持ち帰ったり、社の車を粗末にする奴を見ると激怒する。反社の悪党なのに妙なところで潔癖症なのだ。 「会社に戻ったら掃除させますし、僕も手伝いますよ」  正直、手伝う気なんて毛頭ない。でも、専務を前にすると、そう言いたくなってしまう。経営者のボスは性格に穏やかな部分があるけど、その右腕の専務は鬼軍曹タイプだ。こちらに対しては必要以上に媚びてしまう。 「お前らに任せた」  そう言うと専務はボスの方へ向かった。いつもよりかなりあっさりしている。普段なら、お説教があるパターンなのに。媚びた甲斐があったのか、どうなのか……と僕は今後のためもあって、専務に対する受け答えの正しいやり方について、その背中を目で追いながら、じっくり考えた。専務はボスの近くに立った。ボスは煙草を吸う手を止めて専務の方へ向いた。ボスは禁煙を止めたらしい。二人は話し始めた。やがてボスが大声を出した。 「バカなことは言わないでくれ! 何を考えているんだ!」  二人が口論を始めるなんて、初めて見る光景だ。僕は耳をそばだてた。でも、聞き耳を立てるまでもなかった。専務ははっきりした声で言った。 「ここに捨てるのは止めましょう」 「おいおい、勘弁してくれ。真夜中に出て、朝に仕事を済ませ、昼には戻っている。その予定を立てたのは、他でもない、あんただろう」  ボスは半ば驚き、半ば呆れた表情だった。僕も信じられない思いで専務を眺めた。そんなことを言うような人間ではないのだ。専務は心なしか青ざめていた。何処か体調が悪いのかもしれない。何だか声もおかしい。ちょっと震えている。 「ここに廃棄を計画したのは、確かに自分です。ですが、それが誤りだったと思うのです」 「何がどう誤りだったと言うんだ」  専務は唾をごくりと飲み込んだ。 「この場所は変です。怪我人がこれ以上出る前に立ち去りましょう」  ボスはポカンとした。 「ドアから転がり落ちた奴はいるが、そんな大事ではなさそうだぞ」  顔を歪めて専務が言った。 「ええと、この場所は……その……何と申しますか、呪いとか、祟りとか、そんなものがあると思うのです」  そういうことを言って壺を売りつけようとする宗教団体に元奥さんが入信したせいで一家が崩壊したとかいう噂のあるボスは、心底から嫌そうな顔をした。 「お前もか」  専務は唇を噛み、断固否定した。 「そういうのじゃないんです。どうかわかって下さい」  哀願といっても外れではない、そんな口調だった。僕は背筋がゾワゾワぞわぞわして、思わず背後を振り返った。岩だらけの山肌が霧の向こうにあるはずだが、何も見えない。呪いも祟りも信じない僕だけど、ここにいるのが嫌になってきた。  人里離れた山中に絶好のゴミ捨て場がある、という話を聞きつけたのは専務だった。産業廃棄物の処分費用を抑えたいボスが、その話に乗った。従業員にすぎない僕に意見を求められるはずがなく、さっきから意識を失っているバカも僕と同様の立場ってことで今、皆でここにいる。  まあ確かに、ここは何か変、という気がしなくもなかった。出た頃は良かったんだ。深夜から早朝にかけて廃材満載で走るダンプカーを見たら不法投棄を疑われること間違いなし。だから僕らは誰も通らない間道やら林道を通って来たのだけれど、その時までは普通の間隔だった。それなのに緑のアーチに覆われたトンネルをくぐった時から、違和感が湧き上がってきた。ほとんど人が通らない道だと聞いていたけど、その割に整備されているように思えたのだ。ほぼ廃道じゃないのかよ、ってね。それだけじゃない。荒地だと聞いていたけど、それにしたって雑草が一本も生えていないのは妙だった。生物に有害な物質、有毒物質がある土地かも、と思う。そう感じると、長居はしたくなくなる。  だけど呪いや祟りはないわ……と思う。  それはボスも同じみたいだ。 「分かった。さっさと用を済ませて帰ろう。それでいいだろう?」  違うとは言わせない雰囲気を漂わせているので、専務は不承不承頷いた。ボスは火の消えた煙草を捨て、僕の方を向いた。 「聞いての通りだ。さっさと始めよう」  僕は自分の運転してきたダンプカーに戻りかけて、気付いた。匕首、助手席の男、ナイフのバカ。呼び方は何でもいいけど、あいつの姿が見えない。霧の中に入って見えなくなってしまったのだろうか? いや、そんなはずはない。さっきまで、この辺りに寝転がっていたはずだ。何処にいやがるんだ、あのバカは! 「ここにゴミを捨てるな!」  そんな叫び声がする方を見上げれば、荷台に山積みされた瓦礫の上に、僕に探されている男が仁王立ちしている。ボスが叫んだ。 「何を言ってんだ! とっとと降りてこい!」  ボスの命令が耳に届いていないようだ。戯言が続く。 「命が惜しければ、さっさと立ち去れ!」 「黙れってんだ!」 「ゴミを捨てる人間どもに呪いと祟りあれ!」 「もういいよ、そういうの」  神様にでもなったつもりなのだろうか、あのバカの物凄く偉そうな口調にボスが辟易しているのがありありと分かる。一方、専務は別の行動を取った。ダンプカーの脇の梯子をするする登り、荷台に上がるや演説中の男を蹴り落したのだ。専務の先程の発言からして、あのバカの主張に同調するかと思いきや、意外だった。 「おい、早く押さえつけろ!」  ボスの命令で僕は蹴り落された男に飛びついた。暴れるかと思ったけど無抵抗だった。顔を見たら白目を剥いている。死んだのかと思ったけど、仰向けにしたら胸が上下に動いていたので呼吸はしていることが分かった。専務も男の様子を確認した。その手に瓦礫が握られている。もしもの場合、それで何とかするつもりだったのだろうか? ボスが車から養生テープを持って来た。無抵抗な男の手足をテープでグルグル巻きにする。それから僕に、こいつを見張っているよう命じた。そして専務と二人で不法投棄を開始する。ダンプの後方を崖に向け、荷台を上げて積載された廃棄物を谷底へ落とす。ガラガラドシャーンと雷鳴みたいな轟音が谷間に響いた。その音量でグルグル巻き男が目覚めた。手足を縛られて寝転ばされているから、何もできない。それでも口は動くので、また変なことを言うかと思ったら、違った。 「何の音だ?」  僕は男の顔を覗き込んだ。 「大丈夫ですか?」 「体中が痛い。待て、俺はどうして手足を縛られているんだよ」 「ボスの命令で」 「ボスの命令? 何だそりゃ! 解けよ!」 「ボスの命令ですから、ボスの許可が無いと無理です」 「ふざけんな!」  いきり立つイキリ野郎のいきりが続いていたけど、僕は別のことに気を取られていた。霧の中から何者かがこちらを見ている感じがしてならないのだ。僕は周囲の様子を窺った。何も見えない。でも、何かがいる。  そのとき地鳴りが聞こえた。地震か! と思って中腰になったら、ぎっくり腰になりかけの時に感じる、名状し難い不快感が腰と背中に走った。もしかして、これが呪いとか祟りなんですか~と心の中で嘆く。腰痛になってダンプに乗れないと、商売上がったりなのだ。そんなことを考えてながらダンプカーを見たら、後輪付近の崖にひび割れが出来ている。僕は思わず「危ないっ」と叫んだ。次の瞬間、ひび割れが大きく拡大し、路肩が崩壊、そのまま地滑りが起こった。ダンプは地滑りに巻き込まれ、後輪から谷に落ちていく。さっきとは比べ物にならない轟音だった。ここも危ないかも、と思って逃げようとしたら、手足を縛られた格好で転がされているバカが怒鳴った。 「おい、どうしたんだよ!」  バカに関わり合って死んだら、こっちがバカを見る。僕は振り返らずに走って逃げた。後ろで轟音が鳴り響いている。足元の地面が波打って、思うように走れない。それでも必死に走り、霧の中へ突っ込む。霧の中にいる何者かが変な音を立てた。発しているのは人間でも動物でもない、何だか分からない生き物が出す何とも不思議な声で、それは僕を招く呼び声にようにも聞こえる。土砂崩れの轟きと、変な周波数の音波が、僕の全身を揺さぶった。ここにとどまるのも怖い。そして霧の中の奥深くへ入って行くのも命がけという感じだったが、立ち止まったら間違いなく死ぬとしたら、選択肢は一つしかない。  崖崩れの爆音と、霧の中から僕を呼ぶ声が、いつしか一緒になった。その音は今も、まるで鼓膜に刻み付いたかのように聞こえ続けている……そんな気が、しなくもない。
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