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廃墟
いつものように寺の門をくぐり、ちょうど姿を見せたカズトに、ゴクウ禅師が話しかけたところから、事件は始まった。
「やあカズト君、いいところに来たね。この人から大事な相談があるそうだから、君も加わるといい」
「うん」
部屋の中へと入りながら、カズトはその男を眺めた。
まだ若く、30歳にはなっていない。
髪は短く刈られて快活そうだが、目の光がいやに鋭いのが気になる。
それ以外には、特に目立つことのない男だ。
どういう職業なのか、といったことを思わせる特徴もない。
ゴクウ禅師が口を開いた。
「田中さん、あなたは自動車に乗り、アメリカ西部を走っていたのでしたな」
田中はうなずいた。
「そうです。一人旅の気ままなドライブでした。ところがいつの間にか、私は道に迷っていたのです。気がつくと、何もない岩ばかりの砂漠の真ん中にいました。引き返そうと、私はアクセルをゆるめたのです。廃墟が目に入ったのは、そのときでした」
「廃墟ですと?」
「かなり大規模なもので、家の一軒や二軒ではなく、町一つがそっくり無人で捨てられていたのです。道路や歩道もちゃんとあり、ポストや電信柱まで立っていました。しかし車を止めても人っ子ひとりおらず、ただ風と砂ぼこりが吹き抜けるだけでした。まったく、町が丸ごと廃墟になっている不気味な眺めだったのです」
「ほう」
「でも禅師、驚きはそれだけではありませんでした。なんとこの廃墟は、建物の形といい配置といい、日本の町にそっくりだったのです」
「アメリカでの出来事なのでしょう?」
「アリゾナ州で経験したことです。だから意味がわからなくて、私も困っているのです」
「本当に日本式の町だったのですか?」
「黒い瀬戸物の屋根瓦があり、白い土壁があり、一軒の例外もなく日本式の建築でした。私も日本人ですから、見間違うわけがありません」
「それからどうしました?」
「車を離れ、私は少し歩いてみたのです。あちこちにある看板も文字も、すべて日本語でした。食料品店や銀行、郵便局だけでなく、ついには警察署まで見つけることができましたよ」
「それは不思議なことですな。写真は撮らなかったのですか?」
「運悪くフィルムを切らして、一枚も撮影できませんでした」
「では写真は無理としても、他に何か手がかりはありませんか?」
ポケットに手を入れ、田中は折りたたんだ紙を取り出した。
カズトは思わず目をこらしたが、それは手書きの地図で、田中は机の上に広げたのだ。
「禅師、見てください。その廃墟の町にいた間に、私がざっと描いたものです。おわかりですか? ここに道路があって、両側に家々が並んでいます。ここが交差点ですね。警察署はここ。銀行はここ」
「ははあ、なるほど」
カズトが声を上げた。
「地図のここに赤で書いてあるX印は何?」
田中は首を横に振った。
「それが私にもわからないのだよ。現地で見たとおりを書いたのさ。ある屋敷の庭だったが、地面はコンクリートで分厚く固められ、その中央に赤ペンキで大きくX印が書いてあった。近寄ってみたが、何も変わったところはなかった。普通のコンクリートと赤ペンキにしか見えなかったな」
ゴクウ禅師が顔を上げた。
「赤いペンキですと?」
「はい禅師、長い年月で風化しかかっていましたが、色はまだはっきりと残っていました。見間違いではありません」
「ふうむ。手がかりはそれだけですかな?」
「いいえ、もう一つあるのです。この地図にもあるラーメン屋ですが、そこの看板は特に文字がよく残っていましてね。電話番号を読み取ることができたのです」
「ほほう」
「それが不思議なのですよ。局番は7055と書かれていたのです」
「するとつまり?」
「禅師、局番7055とは、あなたやカズト君が住んでいるこの○○市のことではありませんか」
「おや…。するとその廃墟は、この町の町並みをマネて作られたものだとおっしゃるので?」
「そうとしか考えられないでしょう?」
「それはそうだが…。それで田中さん、この話を聞かせて、わしにどうしろとおっしゃる?」
「禅師はこの町に長く住んでおいでです。だからなんとか、あの廃墟が市内のどの場所をマネて作られたのか、調べていただきたいのです」
「なんと…」
「砂漠の真ん中にあんな町が作られた理由ももちろんですが、屋敷の庭の赤いX印が、私はどうも気になります。何か重大な秘密が隠されているような気がするのです」
話が終わり、田中が帰っていったあとも、カズトとゴクウ禅師の話題は決まっていた。
「ねえ禅師、何がどうなってるのかな? 僕にはさっぱりわからないや」
「そうかい?」
「田中さんが見た廃墟って、砂漠の蜃気楼だったのかい? それとも妖怪の作った幻?」
「アメリカの砂漠にも妖怪がいるのかな?」
「さあ? そうか、わかったぞ。きっと映画のセットだったんだ。撮影に使って、映画が完成した後は捨てられたんだ」
「いやいやカズト君、映画のセットなら、なにもそんな人里離れた場所でなくても、町に近い場所に作るほうがいろいろと便利だ。撮影の間は、スタッフや俳優たちが何日間も通い続けるわけだからね」
「じゃあ、どういうことさ?」
「それを考えてみようというのさ。そうだカズト君、餓鬼たちを呼び集めてくれるかね? とにかくこの町のどのあたりをモデルにしたのか、それがわかれば謎が解明できるかもしれない」
しかし餓鬼たちを町中に放ち、何日すぎても、成果は得られなかった。
何の進展もないまま、あっという間に1週間が過ぎたのである。
しかしついにゴクウ禅師から連絡があり、学校帰りなのでカバンを手にしたまま、カズトは現場へと向かったのだ。
ゴクウ禅師と並んで立ち止まり、カズトは見回したが、町並みに特徴があるとも思えず、意外な感じがした。
だがゴクウ禅師の視線には、断固とした鋭さが感じられるのだ。
「ねえ禅師、本当にここかい?」
「ここで間違いない。年月のうちに建物が建てかわることはあっても、郵便ポストの位置など、そうそう変わるものではない。交差点から少しずれたあの配置には見覚えがある。ほら、その真向かいがパン屋であることも地図と同じじゃないか」
「ああそうか、じゃあここで間違いないんだね」
「そうらしいよ」
「田中さんに連絡しなくていいのかな?」
「まだいいだろう。まず例の屋敷を確認しよう」
店の名や家の表札は、地図と一致しているものもあったが、年月の間に変わっているものも多い。
数軒の家が一度につぶされ、大きなマンションに建てかわっている場所もあった。
しかし目的の屋敷がとうとう見えてきたときには、カズトの胸もドキドキと高鳴ったのだ。
「ねえ禅師、ここまで一致しているんだから、あの屋敷がそれだね。あの屋敷の庭に重大な秘密が隠されているんだ」
門の前に立ち、2人は屋敷を見上げた。
誰も住んでおらず、何年も前に捨てられたようだ。
往時は立派な建物だったのだろう。
壁は石を積み、屋根には銅版が張られていた。
避雷針などは、いまだ一直線に天をさしているのである。
崩れかかった門を乗り越え、2人が足を踏み入れるのは簡単なことだった。
「ああ禅師、あれが例の庭だよ。すぐそこに見えてる」
カズトは駆け寄ろうとしたが、腕をつかみ、ゴクウ禅師がとめたのだ。
「カズト君、やめたまえ」
「どうして?」
「どうやら、わしたちはつけられたようだ」
「つけるって? 誰に?」
「田中さ」
「田中さん? その地図の持ち主の?」
「そうさ。振り返ってよくごらん、カズト君。そこの物陰に…。さああんた、かくれんぼはもうやめて、出てきたらどうかね?」
カズトが驚いたのは、まったくゴクウ禅師の言うとおりだったことだ。
何年も放置され、枝の長く伸びた庭木の陰から、田中が姿を現したのだ。
「あれ田中さん、どうして?」
「カズト君、うそつき相手に『さん』は不要だろう」
「禅師、どうして? 僕にはさっぱり意味がわからないや」
「よく見てごらんカズト君、この屋敷の庭には何がある?」
「あの地図で赤いX印がつけてあったはずのところ? ええっと、あっ、石塚がある」
石塚とは、いくつもの大岩を積み上げて作ったものである。
いまカズトたちの目の前にある石塚は数メートルの高さがあり、いかにも隠された由来がありそうである。
「カズト君、その石塚に文字は書いていないかい?」
「書いてあるけど、古くなって読みづらいや…。こ、『ここに妖怪を封ず』だって?」
「その通り…。さあ田中とやら、いや正体は、その石塚の下に封じられている妖怪の仲間かね?」
その言葉に、田中はニヤリと笑うのだ。
「なぜわかった、ゴクウ禅師?」
「もう大昔のことだが、わしの師匠にワイ禅師というのがいてな。地図を見ていて、書いた文字の特徴に気づいたのさ。ワイ禅師という人は、独特のクセ字を書く人だったからな」
「ほう、それでか」
「お前がなんという妖怪か知らぬが、この地図はワイ禅師の遺品の中から見つけたのであろう? わしと同じく、ワイ禅師も妖怪退治を仕事としておった。妖怪を封じた場所を記した地図を見つけたのはいいが、どこの町かわからず、おまえは一芝居打って、わしに探させたのであろう?」
カズトは目を丸くした。
「えっ、アメリカの砂漠の話は、みんなウソだったのかい?」
鋭い眼光で、田中はカズトに視線を向けた。
「もちろんウソさ…。さあゴクウ禅師、そこまでわかれば思い残すことはあるまい? 俺は石塚の下から兄を掘り出す。そしてよみがえらせるのだ」
意外な展開に、カズトは息もできない気分だった。
「何だって禅師? 僕たちの目の前で、悪い妖怪がよみがえるんじゃないよね?」
「いやいや、心配することはない、カズト君。そんな勝手をさせてたまるか」
だが田中は鼻で笑った。
「言うことだけは一人前だが、ゴクウ禅師。ではおまえが、ただの『年寄りの冷や水』ではないところを見せてもらおうか?」
「カズト君、気をつけるんだ。わしの見るところ、やつの正体は鬼の一種だ」
とゴクウ禅師の声が厳しく飛ぶ。
戦いはすでに始まっていたのだ。
だがその展開は、カズトが期待したものとはかなり違っていた。
「禅師、どうして鬼だとわかるんだい?」
「ワイ禅師から話を聞いたことがある。何十年も昔、この町がまだ小さな農村だった時代に、人食い鬼を一匹、石塚の下に封じ込めたとね」
「その農村が開発されて、今はこんな町になったのか」
「この石塚は、そのころからここにあるのだよ」
鬼の鼻息は荒い。すでに人間の姿を崩し、本来の姿になっているのだ。
頭上に2本の角を生やし、カズトにははじめて見る本物の鬼だ。
その恐ろしさに、目にするだけでカズトはひざが震えるが、ゴクウ禅師の声は普段と変わらない。
鬼に背中を向け、クルリとカズトを振り返ったのだ。
「カズト君、さっき渡した容邪(ようじゃ)の壷をちゃんと持っているだろうね?」
だがカズトは目を丸くするしかなかった。
「容邪の壷? 何それ?」
「カズト君、こんなときにふざけるものではない。わしが君に預け、君はさっき自分でカバンの中にしまったではないか」
カズトにはさっぱり心当たりがなかったが、鬼が会話を聞き逃すはずがなかった。
「容邪の壷だと? ゴクウ禅師め、あの伝説の武器をたずさえているのか。これは手強いぞ…。しかしどんなに強い武器も、使い方を知らぬ子供の手の中にあるのでは、何の役にも立たぬ…」
体の向きを変え、鬼はカズトを襲う気配を見せたのだ。
牙をむき出し、飛び掛る構えをとった。
「鬼め、カズト君には触らせぬぞ」
だがすでに遅く、鬼の体は空中にあった。
素早くジャンプし、クギのように長い両手のツメが、カズトに迫るのだ。
「ギャッ」
とカズトは悲鳴を上げるしかなかった。
せめてもの抵抗で、通学カバンを脇へと放り投げた。
鬼は目ざとく気づき、カバンの飛んだ方向へと向きを変える。
容邪の壷を破壊し、ゴクウ禅師に使わせないためだ。
しかしそれが一瞬の間ではあるが、鬼の注意をゴクウ禅師からそらす結果になった。
ゴクウ禅師は鬼の背後に回り、まるでタッチでもするかのように、相手の背中に触れたのだ。
手のひら全体で敵に触れ、もちろん同時に、口の中ではある呪文を唱えていた…。
「カズト君、あれは『妖眠』という呪文なのだよ」
と、すべてが終わったあとでゴクウ禅師は笑顔で説明したが、カズトの機嫌は直らなかった。
先ほどから仏頂面をしているのだ。
「禅師…、ひどいよ、ひどいよ…」
「何がひどいのだね、カズト君? ほれこのとおり鬼は、わしのかけた呪文で深く眠っておる。あとは人手を集め、あの石塚の下へ兄と同じように封じさえすればよい」
「だって僕、容邪の壷のことなんか何も知らないよ。禅師から預かってないよ」
「ふふふ、ああそのことか。わしは容邪の壷を、カズト君に預けてなどいないね。確かにその通りだ」
「じゃあ?」
「しかしカズト君、君がカバンの中に容邪の壷を隠し持っていると鬼は信じたのだから、それでいいではないか。ありもしない容邪の壷を鬼は追いかけ、その隙を突いて、わしが呪文を用いた。すべては丸く収まったよ」
カズトは大きな声で言い返した。
「丸くなんかあるもんか。僕はものすごく怖かった。死ぬかと…、鬼に殺されるかと思った…」
「だがカズト君、あのとっさの場合には、あれしか方法が…」
「知るもんか」
「カズト君、お待ち…」
だがカズトはプリプリと、もう歩き始めている。
カバンを拾い上げ、振り返りもしないのだ。
「僕、もう禅師とは絶交だからね」
「カズト君…」
カズトはそのまま歩いてゆき、屋敷の門を出てその姿は見えなくなった。
ため息をつき、幼児のように両目を閉じて地面に寝そべる鬼を見下ろしながら、ゴクウ禅師はつぶやいた。
「カズト君のことだ。明日になればきっと機嫌を直しているだろう…。そう、カズト君のことだから…。そう期待しよう。あの場合にはとっさで仕方がないとは言え、わしも少しやりすぎたな…」
昼間あんなことがあった直後なので、この夜のカズトはなかなか寝付けなかった。
やっとウトウトしたのが真夜中近くだったが、すぐにまた起こされたのだ。
体に妙な圧迫感を感じ、目を開くと、胸の上に餓鬼が一匹いるのだった。
小さな体で、子猿のようにチョンと乗っている。
「何だい、あんたは?」
とカズトの声が、驚きと気味の悪さでかすれたのも無理はない。
やせて皮膚が紙のように薄くなった顔で、餓鬼は笑った。
なんというか子供っぽいが皺だらけの顔で、口の中には長い牙がちょろちょろと見えているのである。
「おいカズト、ゴクウ禅師はどこにいるんだ?」
「僕知らないよ。寺へ帰ってないのかい?」
「寺にはおらん。ゴクウ禅師の行方をお前が知らぬはずがあるか」
「僕たち、絶交したんだ」
「絶交?」
「そうさ。もう会わないし、僕は寺へも絶対に行かないよ」
「おやおや、これは面倒なことだな」
「どうしてさ?」
「今も言ったろうが? ゴクウ禅師は行方不明で、どこへ行ったか誰も知らん。もちろん寺にもおらん…。よしカズト、今日はゴクウ禅師とどこで何をした? すべて話せ」
「話してもいいけど、その前に僕の胸から降りてよ。苦しくて、息もできないじゃないか」
カズトの口から話を聞き終えても、餓鬼の口調はすぐれなかった。
「おいカズト、これは相当にまずい事態だぞ」
「どうしてさ? 禅師のことだから、きっとどこかでお酒でも飲んで、酔いつぶれてるんだよ」
「いやカズト、めちゃくちゃにいい加減な坊主だということは俺もよく知っているが、それでもゴクウ禅師は酒は飲まん。あいつは下戸だ」
「じゃあ?」
「石塚の前でゴクウ禅師は妖眠の呪文を唱えたと言ったな? それも鬼の背中へ向かってだ」
「そうだよ。それがどうかしたのかい?」
「鬼の背中に当たって反射してはねかえり、裏返った呪文が石塚に降り注いだのかもしれんのだ」
「なんだって?」
「呪文の世界には、そういう不可思議な現象もあるのだ。お前はもっと勉強が必要だな」
「僕は妖怪退治なんか仕事にしないよ」
「そうかい? まあそれはいい。だがカズト、もしもゴクウ禅師がここへ来たら、すぐに寺へ戻るように伝えてくれ。姿が見えないことを、妖怪たちも多少は気にしているのでな」
「わかったよ…。だけど姿が見えないことを気づかってくれるのが、人ではなく妖怪たちばかりだとは、禅師も大したものだねえ。ぜんぜんうらやましくはないけどさ」
餓鬼が再びカズトの前に姿を見せたのは、翌日の夜のことだった。
「おいカズト、ゴクウ禅師の居場所がわかったぞ」
「そうかい? でも僕、全然興味ないや」
「いやいや、そうも言っていられない事態だぞ」
「どうしてさ?」
「ついさっきわかったことだ。ゴクウ禅師は地下世界にいて、なんとオークションに出ている」
「オークション?」
「勘違いするな。ゴクウ禅師は物を売買しようとしているのではなく、ゴクウ禅師本人が、オークションの商品として売りに出されているのだ。カゴに入れられ、まるで小鳥か家畜のようにしてな」
「禅師は売られちゃうのかい?」
「まあな。もしも欲しがるやつがいればだが…」
「じゃあ安心だ。あんな意地悪ジジイを欲しがるやつはいないよ」
「そうとも限らんぞ、カズト。妖怪の中には変人も多い。あのまずそうなゴクウ禅師でも、天ぷらにして食うやつがいるかもしれん」
「えっ、それじゃあ?」
「そうさカズト、俺たちはどうしてもゴクウ禅師を助けに行かねばならん。さあ、今すぐ着替えろ。無駄にする時間はないぞ」
家人に気づかれないように玄関のドアをそっと開け、人気のない真夜中の道を、餓鬼に連れられてカズトは歩き始めたのである。
餓鬼は非常に背が低く、体も小さい。
それがカズトの前をヒョコヒョコと歩くのだが、どうしてこれが早足だ。
カズトも気を抜かずに歩かなくてはならない。
「ねえ餓鬼、そのオークションはいつ始まるんだい?」
「もう始まっているさ。だから急がねばならん」
「ゴクウ禅師を助けに行くなんて、気が進まないなあ…。そもそもオークションなんだから、禅師を競り落とさなくちゃならないんだしね。お金は持ってる?」
「それは心配するな、カズト。ちょっとお前の財布を見せろ。中にいくら入っている?」
「うーん、1000円ぐらいかな?」
「ああ、それで足りるさ。地底世界では非常に物価が安い。ゴクウ禅師の値段もおそらくそのぐらいだろう。充分、釣りが来る」
「禅師の値段が1000円? うん、あの人の値打ちはそのぐらいだと僕も思うよ」
餓鬼に連れられ、カズトはいつの間にか地底世界へと足を踏み入れていた。
見覚えのあるあの真っ暗なトンネルなのだ。
「ねえ餓鬼、オークション会場はまだ遠いのかい? 僕は足が痛くなってきたよ」
「もうすぐそこさ。ほら、光が見えてきたぞ」
暗いトンネルを抜け、明るい広間が見えてきたのである。
だが2人の期待は裏切られた。
近寄ってみると、明かりはあるものの会場はもぬけの殻だったのだ。
餓鬼の目は、すぐに一人の鬼の姿をとらえ、話しかけた。
「おいあんた、今夜のオークションはもう済んだのかい?」
「ああ、ついさっき終わったところだ。何が欲しかったのか知らないが、一足違いだったな」
「…そうかい。それは残念だ。今夜の目玉商品は何だった?」
すると鬼は、表情を崩して笑ったのだ。
「ああ、あんたは本当におしいことをしたぜ。あれはなかなかの見ものだった。人間の坊主でな。上の世界から連れてこられていた」
「その坊主は落札されたのかい?」
「なかなかの競りになったぜ。値段がつり上がる、つり上がる」
「いくらになった? 最後には誰が競り落とした?」
「たしか985円だったな。でもあんた、落札者のところへ行って、金を積んでゆずってもらおうというのかい? 悪いことは言わない。やめておきな」
「なぜだい?」
「落札したのは、妖怪決闘場のオーナーだからさ」
鬼との会話が終わったあと、餓鬼がいやに黙ってしまったので、カズトは不思議に思った。
「ねえ餓鬼、どうかしたのかい?」
「ああカズト、ゴクウ禅師を落札した者が問題だ」
「どうして? お金を払っても、ゴクウ禅師を売ってくれないと思うのかい?」
「ああ、まず売ってはくれない。妖怪決闘場のオーナーだといったろ? 妖怪決闘場とは、地底世界の一角にある娯楽設備のことで、腕に覚えのある妖怪が集まり、リングの上で呪文による戦いが繰り広げられる」
「禅師は妖怪じゃないよ」
「だがゴクウ禅師は呪文が使えるじゃないか。オーナーはそこに目をつけ、ゴクウ禅師を落札したのだろう。リングにあげ、妖怪たちと決闘させるためさ」
「だけど…」
「まあ聞け、カズト。ゴクウ禅師のことだ。そうそう簡単に呪文合戦に破れるとは思えん。しかしリングから助け出し、地上の人間世界へ連れ戻るとなると、話は別だ。かなり困難な仕事になるぞ」
「仕方ないよ。ここまで来たらやるしかない。禅師を助け出そうよ」
「よし、話は決まった。まず作戦の準備をしよう…」
決闘場の雰囲気は、カズトの想像を超えていた。妖怪が何百匹と集まり、リングをぐるりと取り巻いているのだ。
事情があって、餓鬼は決闘場の外にとどまったので、会場に足を踏み入れたのはカズト一人だった。
「うわあ、これは大変なところに来ちゃったぞ…」
黒いケープで全身をすっぽり包んで隠してはいるが、中身はただの人間の子供に過ぎないことがいつバレるかと、カズトは気が気ではなく、いつの間にか手のひらにじっとりと汗をかいた。
手に汗握る接戦が行われているのだろう。
カズトになど誰も目を向けず、妖怪たちは夢中になってリングを眺めている。
リングの上からは、呪文を唱える声がいくつも聞こえる。
そこに雷撃音、何かの爆発音、ドスンと叩きつけられる音、ときどきは苦痛を受けた妖怪の悲鳴が混じるのだ。
「どうやら禅師はうまく戦っているらしいな…」
とカズトは考えたが、ゴクウ禅師の優勢もいつまで続くかわからない。
カズトは足を速めたが、最後にもう一回、ゴクウ禅師の呪文の声が聞こえ、リングの上はとうとう静かになった。
顔を上げたカズトの目には、リングの中央に倒れている妖怪の背中が見え、かたわらにはゴクウ禅師が立ち、ゼイゼイと肩で息をしている。
どうやら勝利したようである。
会場に大きな声が響いた。
「よくやったゴクウ禅師。今回もお前の勝ちと認めよう」
暗闇ゆえ相手の姿は見えないが、声が聞こえる方向をゴクウ禅師は振り返った。
「あんたが誰なのかは知らないが、もういい加減、勘弁してくれんかね? これで3匹目ではないか。いつまでわしを戦わせるつもりだね?」
「ふふふ、おまえが疲れ切るまでさ」
「あんたにそんな権利はなかろう?」
「あるさ。俺はお前をオークションで正式に買い取った所有者だからな」
「なんだとっ?」
相手の姿を飲み込んでいる暗闇をゴクウ禅師はにらみつけるが、声の主は気にする様子もない。
「さあて、4人目の挑戦者は誰かな? この人間の坊主を倒す自信のある者はおらぬか?」
新たな挑戦者として名乗りをあげるには、カズトのいる場所はまだリングから遠すぎた。
カズトは駆け出したが、そのとき別の声が会場に響いたのだ。
「よし、では私が挑戦しよう」
年を取ってしわがれた声だ。
やっとこのときカズトはリングのそばまでやってきたのだが、声の主はすでに階段に足をかけている。
階段の先がリングにつながっているのだ。
オーナーの声が会場に再び響いた。
「ほう、今度はお前さんが挑戦するのかね? その姿は…、おやおやなんと山姥(やまんば)であったか。本当にお前さんが、ゴクウ禅師に挑戦するのかね?」
「そうともさ。その坊主には恨みがある。私の娘が人間世界へ出かけたとき、こやつに退治されてしまった」
ゴクウ禅師は鼻を鳴らした。
「あれはお前の娘が悪事を働いたからだよ。でなければ、わしは退治などしなかった」
「何をぬかす。口ではなんとでも言えるわい。娘を失った悲しみ、おまえにはわかるまいて…」
「次から次へと妖怪が現われ、悪さを続けるのを止めねばならんわしの苦労も、あんたにはわかるまいて」
「もはや問答は無用。呪文にかけては私も多少の心得がある。ここで会ったが百年目さ、ゴクウ禅師」
「よしこい」
ゴクウ禅師の声にはまだ張りがあるが、すでに疲れの影が見えることに、カズトは気がついた。
妖怪との4回目の対戦をさせるわけにはいかない。
声を上げようとしたが、やはり恐ろしいのだ。
カズトは力のこもらない声しか出すことができなかった。
「あ、あのう…」
カズトの姿に気づいたのは、挑戦者の山姥だった。
カズトよりもゴクウ禅師よりも一回り背が低い。
着物の下に包まれるいかにもやせた体つきだが、意味ありげな長いつえをたずさえているのだ。
山姥はカズトに話しかけた。
「おや、何だねお前さんは?」
「ぼ、僕は…」
「もしやあんたも、ゴクウ禅師に挑戦したいのかね?… やれやれ、いくら呪文に自信があるのか知らないが、まだ10年早いよ。この坊主は、見かけよりもずっとしっかりした呪文の使い手だ」
「だけど…」
長いつえの先で、山姥はカズトの黒いケープを少し持ち上げた。
カズトの顔をのぞき込んだのだ。
ケープの下にいるのがただの人間の子であることは、一瞬で見て取れる。
この地下世界へ人間が足を踏み入れるなど、それだけで大事件であり、山姥は目を丸くした。
だがその頭の中をどういう考えがよぎったのか、こう口を開いたのだ。
「ふうむ、まあよかろうよ。あんたが先に挑戦してごらん。どういう結果になるか、ぜひとも見せてもらおうじゃないか…。おうい、決闘場のオーナーとやら、あんたも異存はなかろう?」
声だけで姿の見えないオーナーも、首を縦に振った。
「ああ山姥、おまえさえいいのなら、私は何も言わないぞ」
「そうかい? それはありがたい…。さあお前さん、リングにお入り、そしてゴクウ禅師を倒しておくれ」
意外な展開にキョロキョロしたが、カズトは階段に足をかけた。
そしてリングへと上がったのだ。
ケープ越しでも、ゴクウ禅師はすぐに正体に気づいた。
リング外には聞こえない小声を出した。
「おやカズト君、どうしてここに君がいるのだね?」
だが説明している暇は、もちろんカズトにはなかった。
「いいかい禅師、今から僕はある呪文を唱える。唱えたら、大急ぎで走って、この場から逃げるんだよ」
「何か策があるのかい?」
「まあね…。まだ疲れ切ってないよね。ちゃんと走れる?」
「なんとかやってみよう。だがカズト君、一体何の呪文を唱えるつもりかね…。まさか…、まさかあの呪文ではあるまいね?」
「ところが禅師、そのまさかなんだ」
ケープをはねのけて正体を現し、カズトは口から大きく息を吸い込んだ。
そして声を出したのだ。
ケープの下から現れたのが人間の子供であることに妖怪たちは驚き、色めきたったが、行動を起こすことはなかった。
カズトが唱えた呪文は短く、簡潔だった。
しかし効果は絶大だったのだ。
リングのロープをくぐり、カズトのあとを追って階段を駆け下りながら、ゴクウ禅師は声を上げた。
「カ、カズト君、本当にその呪文は?…」
「そうだよ禅師、これは『3分間の法』さ」
「だがそれは、一生にただ一度しか使えない呪文ではないか。それをこんな場面で使ってしまっては、君の後々の人生でどんな困った事態が…」
「…持ち上がるかもしれないというのかい? そのときに困るだろうって? でも仕方がないじゃないか。禅師を助けるためには、これしか方法はなかった。ほら見てよ…」
階段を駆け下り、カズトはすでに平らな床に達していたが、満足そうに見回したのだ。
「妖怪たちはみんな眠ってしまったよ。呪文が届く範囲にいた妖怪は全部だ。観客の妖怪たちも、あの山姥も、決闘場のオーナーまでも…。すごい効果じゃないか」
「しかしその眠りも3分間しか続かない。だから『3分間の法』という。ここからどこへ行くのだね? どこへ向かうのだね? たった3分間で遠くまで逃げられるとは思えん」
「会場の外に妖怪を待たせているんだ。それに乗って逃げるんだよ」
「妖怪に乗るだって? まさかカズト君…」
ゴクウ禅師は不安そうにしたが、その予想は当たっていた。
会場の外には半馬人がいたのだ。
いかにも待ち受けていた風情で、2人の姿を目にして、せわしなく尾を揺らしてみせた。
ゴクウ禅師は目を丸くした。
「カズト君、この半馬人は?…」
「禅師も覚えてるよね。以前知り合った雷丸だよ。餓鬼に頼んで、半馬人の城から呼んできてもらった」
だがさっそく、雷丸は不平を述べたのだ。
「なんだ? カズトのピンチだと聞いてやってきたのに、なぜゴクウ禅師までいる?」
カズトは大急ぎで事情を説明した。
だが雷丸の表情は晴れず、フンと鼻を鳴らしたのだ。
「そうかい? だがご期待に沿えなくて悪いな。私は一人乗りなのだ。カズト一人なら、私が乗せて逃げてやろう。しかしゴクウ禅師の面倒までは見れん…。ゴクウ禅師、お前は一人で、なんとか自分の足で逃げ延びるのだな」
「ああ、それでいいとも。わしは自分でなんとかしよう。では雷丸、約束してくれ。カズト君を必ず無事に地上世界まで連れ戻るとな」
「人間の分際で、そんなことを求める資格があるのかね? だがまあいい。カズトだけはなんとか、私が地上へ届けよう」
「本当だな雷丸? 信用してよいのだな?」
「私も武士だ。二言(にごん)はない」
「よしわかった。あんたを信用しよう…。おや?」
「どうした禅師?」
「おお、後ろを見たまえ。3分間の法がきかなかった妖怪がいるようだ。会場の出口から姿を見せるぞ」
ゴクウ禅師が見ているものと同じものを目に留め、雷丸もため息をついた。
「おやおや、あいつに3分間の法がきかぬのも当然だよ。あれは岩鬼ではないか」
ゴクウ禅師の助けを借りて雷丸の背中によじ登りながら、カズトが声を上げた。
「岩鬼ってなにさ?」
その質問にはゴクウ禅師が答えた。
「ああカズト君、岩鬼とは鬼の一種だが、聴覚を持たないのだよ。だから呪文も聞こえない。呪文の効果を受けて、眠り込んでしまうこともないのさ…。ではカズト君に雷丸、しばしの別れだ。もしも生きていれば、地上で会おう…」
こうして、カズトたちの逃亡が始まったのである。
雷丸はさっと駆け出し、ゴクウ禅師の姿は、背後の闇の中にあっという間に見えなくなった。
雷丸の背の上で、カズトはずっと振り返って眺めたのだ。
「ねえ雷丸、禅師は本当に大丈夫かなあ? もう3分立ったよねえ?」
「岩鬼のことか? 大丈夫さ。岩鬼はブルドーザーのように体が大きく、力も強いが、敏捷さに欠ける。雷鳴か爆発か、ゴクウ禅師が何か適当な呪文を唱えれば、いちころだ」
「ならいいけど…」
「そんなことよりもカズト、お前は自分の身を心配するのだな」
「どうしてさ?」
「わかっているのか? ここはお前が今まで一度も足を踏み入れていない地底世界の奥地なのだ。お前を守るようできるだけ努力するが、私の力にも限界がある」
「あれあれ、いつもと違って、えらく謙虚だね」
「地底世界の恐ろしさを知っていれば、謙虚にもなるさ。人間の子供がこのような奥地までやってくるなど前代未聞。お前を目当てに、この先、どんな妖怪が姿を見せるか」
「えっ、僕ってそんなに人気があるのかい? 妖怪たちが僕の顔を見に集まるんだよねえ? サインの練習でもしておこうかな?」
「何を馬鹿なことを言う…。妖怪たちはお前に会いたいのではない。お前を襲い、食うためにやってくるのだ」
「…ど、どうして?」
「人間の子供の肉はやわらかくて味がよいとは、妖怪仲間の常識なのだよ」
「だけど雷丸、あんたは僕を殺して食べたいとは思わないよね…? ねっ?…ねっ?…ねっ?」
全速力で駆けつづけながら、雷丸は笑った。
「心配するなカズト。私は半馬人。半分は妖怪だが、半分は人間なのだ。お前の肉の味になど、まったく興味はないさ」
フウと吐き出すカズトの安堵のため息に、雷丸はもう一度笑ったが、その声から緊張が消えたわけではない。
「…なあカズト、警告しておくが、私たちを追ってくる妖怪とは、おそらく妖狐(ようこ)だぞ」
「なにそれ?」
「妖狐とは1000年以上生きたキツネのことで、魔力の使える妖怪だ。ゴクウ禅師の師匠が何十年も前に退治し、石塚の下へ封じたのであろう?」
「あれっ、どうして知ってるんだい?」
「ゴクウ禅師が何ゆえオークションで売られるに至ったのか、餓鬼から事情を教えられたからさ。妖怪を封じた石塚が人間の町にあり、ゴクウ禅師はその前で不用意な呪文を唱えたのだろう?」
「そうらしいね。僕もそこまでは聞いた」
「田中という人間に化けていた弟分は倒したが、鏡のような呪文の副作用で、石塚の下にいた妖狐がよみがえったのだ」
「田中に化けた妖怪の兄貴分だね」
「そのとおり。妖狐とは、悪役妖怪の代表選手さ。1000年ばかり前にも、玉藻前(たまものまえ)という妖狐がいて、さかんに悪さをしたことがある」
「そいつはどうなったんだい?」
「安倍晴明という陰陽師がいてな。さすがの玉藻前もこれには破れ、栃木県の那須野で岩と化して果てた。だが大変な戦いだったらしい」
「へえ」
「カズト、気楽な返事をするでないぞ。逃げ切ることができればよいが、安倍晴明と同じ戦いをお前はすることになるかもしれん」
少しの間、二人とも口を閉じたので、暗闇の中、雷丸のひづめの音だけが響いた。
自分が持つ小さな懐中電灯の光以外、カズトの視力を助けるものは何もなかった。
「なあカズト、お前はまだ気づいておるまいが、先ほどから我々はつけられておるぞ」
「本当かい?」
「誰がウソをつくものか。キツネは足音など立てぬ…。振り向いてみるがいい。やつの牙がぼんやりと輝くのが見えよう?」
「あっ本当だ。やつの牙が鋭くとがり、かすかに光ってる…。ということは、口を閉じるとやつの姿は完全に見えなくなるわけか」
「お前の目には見えなくなる。私の目にはもちろん見えるがな…。人間には見えず、妖怪の目にだけ見える物も、世界にはたくさんあるのだよ」
「妖怪って便利だね」
「何が便利なものか。用があって地上世界へ出るたびに、ゴクウ禅師のように勘違いをした『正義派』に追い掛け回される。面倒なことだ」
「さっきの安倍晴明だけど、どうやって玉藻前を倒したんだい?」
「美しい女の姿に化けていたのを、経文の力で魔力を破り、白日の下にさらした。逃げ出した玉藻前を本当に倒したのは、武士の弓と刀だ」
「それは困ったな」
「どうした、カズト?」
「僕はお経なんて知らないし、弓矢も刀も使えないよ」
「ふん、そんなことは私は知らぬ。妖狐も気にせぬだろう。遠慮なくお前を引き裂くさ…。カズト、私の背には弓と矢がある。取ってくれ」
「弓ってこれ? うわあ、でかいや」
カズトの感嘆は事実だった。
大弓と呼ぶべき種類で、長さは2メートル近く、カズトの手には確実に余る。
「カズト、矢はいくつある?」
矢筒の中をカズトは数えた。
「5本しかないよ」
「さあ弓を渡せ…。矢筒の隣に小さな陶器の壷があろう?」
「うん」
「そのふたを取ると、中には薬が入っている。矢の先端にそれを塗りつけてから、一本ずつ私に渡せ」
「この薬はなんだい? ねっとりして、歯磨き粉みたいだ」
「それで歯を磨いてみろ、大変なことになるぞ」
「どうして? まあいいや。はい、一本目だよ」
雷丸の指示通りにし、カズトは矢を手渡した。
さっそく雷丸はそれを弓につがえたのだ。
こうして戦いが始まった。
まず雷丸は一本矢を放ったが、これは見事に外れた。
しかしカズトを驚かせたのは、妖狐をかすめて岩床に突き刺さった瞬間、矢の先端が燃え、明るい光を放ったことだ。
その光は写真のフラッシュのようにまばゆい。
「雷丸、あの矢じりは燃えるよ」
「それがあの薬の効果さ。リンが混ぜてある」
「リン? マッチに使う薬だね。ははあ…。だけど、矢が妖狐に刺さらないと意味がないよ」
「そうでもないさ。炎と光に、妖狐はおびえの色を見せている。追っては来るが、少し後ろへ下がったではないか」
「うん」
「こうやって時間を稼ぐのさ。矢はあと4本ある。使い切るころにはトンネルを抜け、地上世界へと達しているだろう」
「それからどうするのさ?」
全力で駆け続けながら、弓のはしを使い、雷丸はカズトの頭をチョンと叩いた。
「しっかりしろカズト。地上世界へ出た後どうするか、妖狐をどう退治するか、考えるのはお前の役目だ。知恵を絞れ」
「どうして?」
「私は地底世界の住人だ。お前は地上の住人。地上世界については、おまえのほうが詳しいはずだ」
「だけど…」
「ではカズト、一つヒントを与えよう。100年間にわたって、妖狐は石塚の下に閉じ込められていたのだ。その100年間に、人間世界は大きく変化したはずだぞ。妖狐が夢にも知らぬ物が、地上にはあふれているはずだ」
「たとえば?」
「甘えるな。それはお前が自分で考えろ」
「ちえっ…」
暗闇が終わり、カズトたちのまわりが薄明るくなったのは、ちょうど5本目の矢が光を発し、燃え尽きた瞬間のことだった。
突然、岩の天井がなくなって夜空が広がり、電気による明かりが遠くに点々と目に入る。
人間の世界へと戻ってきたのだ。
「さあカズト、ついにトンネルを抜け出たぞ。ここからどうするのだ?」
「待ってよ。まだ何も思いつかない」
「思いつかない? のんびりしたやつだな。敵はすぐ背後だぞ…。おや、あの目立つ背の高い大きな看板は何だ?」
「どこ? 何の看板?」
「目の前だ。あそこに見えている」
「あああれか…。ドライブスルーだよ。ハンバーガーを売る店だ」
「ハンバ?… うまいのか?」
「うん」
「カズト、金は持っているな?」
「少しならね」
「よしっ」
なんと雷丸は、ドライブスルーの店へと進路を変えてしまった。
夜遅くのことで他の客の姿はない。
本来は自動車用に設計された店だが、通路に駆け込み、半馬人でも問題なくオーダーはできた。
マイクロフォンを通して話せばよいだけで、小さなカメラもあるが、上半身だけ見れば、半馬人も人間と変わらない。
しかし注文が済み、商品を受け取る窓口まで進んだときが問題だった。
窓口係は、さすがに腰を抜かしそうになったのである。
「お客様、ご注文の…、…ケ、ケンタウロス? ひいっ…」
雷丸は文句を言った。
「ケンタウロスではない。和風に半馬人と呼んでくれ…。さあ金は払ったぞ。早く商品をくれ。早くしないと、我々の後を妖狐が着いてくるのだ」
手を伸ばし、商品の入った紙袋をカズトが受け取っても、驚きが強すぎて、窓口係は礼を述べることができなかった。
鼻を鳴らして再び駆け出しつつ、雷丸が言った。
「なんだ? 『ありがとうございます』もない。サービスの悪い店だな」
「それは仕方がないよ。人間世界では、誰も半馬人なんて見たことがないもん…。妖狐はどこかな?… あっ雷丸、あっちだ!」
「どうした、カズト?」
「あの方向へ向かってよ。あの先には電車の線路があるんだ」
「それがどうした? そろそろ妖狐が追いついてくるころだぞ…。ははあ、そういうことかカズト。悪いアイディアではないが、その前にゴクウ禅師を探し出すほうがいいぞ」
「禅師? どうして?」
「妖狐を岩の下に封じ込めるには、あの坊主の妖力が必要だからだ」
「妖力って、呪文のことかい? 禅師は妖怪じゃないよ…。あっ、妖狐の姿が見えた」
「どこだ?」
「ずっと後ろ。今あの建物の影に隠れるのが見えた」
「よしカズト、ゴクウ禅師を探すぞ。あいつの妖力がどうしても必要なのだ」
雷丸は再び駆け出しかけたが、かたわらの樹木の上から声が聞こえたのは、そのときのことだ。
とっさに立ち止まり、カズトと雷丸はキョロキョロしかけたが、すぐに気づいて見上げた。
そこには市が植えた街路樹があり、その枝に誰かが腰掛けているのだ。
「…雷丸や、どうせなら妖力ではなく、仏法の法力といってもらいたいね」
声の主の姿は、暗すぎてカズトの目には見えなかった。
しかし雷丸の視力には明らかだったのだ。
「おお、そこにいたか。妖力坊主のゴクウ禅師。岩鬼はどうやって倒した?」
「いや、何も特別なことはせぬ。岩鬼は足が遅い。走って振り切っただけのことよ」
「なんとまあ、おぬしらしい…」
「それはほめ言葉かね、雷丸? まあいい。あの妖狐をどう料理する気か?」
ここでカズトが口を開いた。
「妖狐は、100年間も岩の下にいたんだよ。線路が何のためのものなのか、夢にも知らないに違いないよ」
「なるほどカズト君、そういう作戦かい? よしわかった。わしはあそこの空き地で待機しよう。見えるかね? おあつらえ向きに、線路のすぐ脇の空き地だ」
「うん、わかった」
今度こそ駆け出しながら、雷丸は不満げな声を出した。
買ったばかりの料理を、迫る妖狐にむかって投げつけたのだ。
「ええい、食事をする暇もないのか。妖狐め、牛の肉を食らえ。ほれ、ポテトもあるぞ。割引券も入っているから、店へ行って食え…。もしもお前が、今夜を生き延びることができたらな」
カズトの作戦は、見事に成功した。
線路の中央に立ち、雷丸とカズトは妖狐を待ち受けたのだ。
地底世界とは違い、人間の世界は人工的な電気の光に満ちている。
まぶしそうな顔で目を細めつつ、妖狐は迫ってきた。
もうここでは、カズトの目にもその姿をはっきりと見ることができたのだ。
「うわあ、あの長い尾と牙は、誰かの悪夢からそのまま抜け出してきたかのようだ」
とカズトは感想を述べたが、雷丸の返事はいつもどおりそっけない。
「お前の悪夢の中から来たのでなければよいがな」
「まさかあ…」
「まさかであるものか。この世にはそういう話も珍しくないのだぞ…。さあカズト、覚悟を決めろ。例の時刻はもうすぐか?」
「うん、僕の腕時計が正しければ、もうすぐ特急が来るよ」
そうこうしている間に妖狐は決心を固め、2人に襲い掛かった。
だが、それがカズトの作戦だったのだ。
夜の線路は街灯もなく暗い。
そこへタイミングよく突然現われ、騒音を発しつつ近づいてくる電車に、妖狐は恐怖を感じた。
カズトたちに援軍が現れたと思い、脅威まで感じたのだ。
妖怪といっても、妖狐とは年を取り、何百年も生きただけのただの動物に過ぎない。
パニックにおちいった後の行動を予測するのは難しくないのだ。
電車のヘッドライトと警笛に追い立てられ、とっさのジャンプと共に、妖狐は線路を外れた。
そしてその先、着地場所が空き地であった。
しかしそこでは、地面に魔法陣を描いて、ゴクウ禅師が待ち構えていたのである。
まるで網にからめとられる魚のようにして、妖狐はその中央に落ちたのだ。
電車はやがて通り過ぎ、車輪の轟音は速やかに消え去ったが、その後を引き継ぐようにして、ゴクウ禅師の発する呪文があたりを圧したのだ。
その声は、大きく朗々と空気を振動させ、ちょっとしたオペラ歌手のようではある。
そのメロディ、歌詞に妖狐はおびえ、両耳をふさぎたい気持ちになったが、すでに遅く、呪文は効果を発しはじめてていた。
自分の体がこわばり、みるみる硬く変化するのを妖狐は呆然と感じるほかなかったのである。
息をはずませ、雷丸と共にカズトが空き地へと現れたときには、すでに勝負は終わっていた。
カズトはキョロキョロと見回した。
「あれあれ禅師、妖狐はどこへ行ったんだい?」
2人を迎え、ゴクウ禅師はニヤリと笑った。
つえの先で、地面を強く突き刺したのである。
「おやカズト君、やつの姿が見えないのかい?」
「うん、どこにもいないや。意地悪せずに教えてよ」
雷丸が鼻を鳴らした。
「カズトよく見ろ。そこにある岩が見えぬか?」
「岩? これのこと? ああそうか、こんな岩、さっきまではなかったよねえ。ここが、禅師が魔法陣を描いた場所だっけ?」
ゴクウ禅師はうなずいた。
「カズト君、その岩が、実は妖狐の成れの果て。呪文で封じられた姿なのさ」
カズトは感心して眺めた。
「へえ、これがねえ…。大きいけれど、僕の目にはただの黒い岩にしか見えないや」
「いやカズト君、よく見てごらん。ここが目、ここが鼻。これが長い尾の先端さ」
「ああ禅師、言われてみればそんな感じもする…」
「これで一件落着さ。しかし腹が減ったな。何か食べに行こう。カズト君、君も一緒に来たまえ。仲直りの印だ。少しごちそうしようよ」
雷丸がまた鼻を鳴らした。
「私はどうなるのだ、ゴクウ禅師? 私もお前を助けてやったのだぞ。食事をおごられる権利は平等にあろう?」
「なんだって? 先ほどカズト君に買わせたハンバーガーはどうした? 食わなかったのかね?」
「味わうどころか、一口もかじらぬうちに妖狐に投げつけてしまったぞ。さあ、私にもそのハンバーガーとやらを食わせろ。ハンバーガーだけではない。人間世界のうまい食い物をすべて私に差し出すのだ」
いかにも面倒くさそうな顔で、ゴクウ禅師はカズトを振り返った。
「カズト君、君の財布の中にはお金がいくらあるね?… おおそれだけか。ではわしの財布の中身と合わせても、3人分の食事はとても無理じゃな…。なら仕方がない」
「禅師、どうするのさ?」
「こうさ」
その言葉と共に、ゴクウ禅師はある呪文を唱えたのだ。
カズトの耳にはまったく耳慣れない呪文だったが、効果が見え始めたとたん、雷丸は顔色を変えた。
「おおっゴクウ禅師、この呪文は…!」
「そうさ雷丸。これはすべての妖怪を追い払い、地底世界へと押し戻す『押し返し』の呪文じゃ」
「く、くそっゴクウ禅師め、覚えておれ…」
目を丸くするカズトの前で雷丸は呪いの言葉を吐きつつ、それでも呪文の力には逆らえず、まるで水がしみこむようにして、地面の下へと姿を消していったのである。
あっという間に雷丸の姿は跡形もなく見えなくなり、後にはカズトとゴクウ禅師だけが残された。
カズトは不思議そうに口を開いた。
「ねえ禅師、そんなことをしたら雷丸が怒らない? きっと怒り狂うと思うよ」
「もう今頃は地底世界についておろう。雷丸が怒るだって? ああ、そうじゃろうな」
「それにさあ、そんなすごい呪文を知っているのなら、なぜ最初から使わなかったのさ? あの石塚の下から復活した妖狐に捕まり、禅師はオークションに売られたんだよね」
「『押し返し』の呪文は、相手の妖怪とある程度親しく、少なくとも言葉を交わすほど近しくないと効果はないのさ。これまで二度の出会いで、カズト君は雷丸と親しくなった。わしはカズト君と親しい。それゆえ…」
「…それゆえ、禅師と雷丸もある意味で親しいことになるのかい? へえ、知らなかった」
「うるさい雷丸が消え、これで事件は本当に一件落着さ。さあカズト君、ハンバーガーを食べに行こうじゃないか。今日は妖怪と対決したりオークションにかけられたり、決闘場で対戦したり、大変な一日だった。わしは腹ペコじゃよ」
「だけど禅師、坊主が肉なんか食べていいのかい? 戒律違反だよ」
「かまやしないさ。お釈迦様の目もここまでは届くまいよ…」
妖狐の事件が落着した数日後のこと。
「なんだって、カズト君? 君は駅の自動改札機に嫌われてしまった、と言うのかい?」
ゴクウ禅師が目を丸くしたのも無理はない。
カズトが相談した内容はそれほど奇妙だったのだ。
カズトは毎日、学校へ行くのに電車を利用していた。
定期券を持ち、一日に何回かは駅の自動改札機を通る。
「そのたびに毎回、僕は意地悪をされるんだ。今日だって、買ったばかりの新しい定期券なのに、『これは期限切れだ』とブザーを鳴らし、ゲートをバタンと閉じられてしまったよ」
「ほう」
「まわりのお客さんからじろじろ見られて、どれだけ格好が悪かったか」
「駅員はなんと言うんだね?」
「駅員も首をかしげるばかりで、定期券を新しく作り直してくれたけれど、自動改札機に入れると、またブザーがブーッ」
「自動改札機の故障ではないのかい?」
「止められるのは僕だけで、他のお客さんはみんなすいすい通り抜けていくんだよ」
「ふうむ」
「このあと何をやってもだめで、自動改札機はどうしても僕だけは通してくれない。これはもう、機械が僕を嫌っているとしか思えないよ」
「わしのところへ来たということはカズト君、君はこれを妖怪の仕業だと疑っているらしいが、では何の妖怪だと思うね?」
「うーん…、自動改札機のせいでリストラされた駅員の怨霊とか?」
「それはどうかな?… まあいい。ちょっと実験してみよう」
そういって、ゴクウ禅師はカズトにある知恵を授けたのだ。
とたんにカズトは目を丸くした。
「えっ禅師、定期券にワサビを塗りつけて、それを自動改札機に入れるのかい? 定期券は握りずしじゃないよ」
「もちろん、そんなことはわかっているさ」
「ワサビをつけたら、どうなるのさ?」
ゴクウ禅師はニヤリと笑った。
「それはカズト君、やってみればわかることだよ」
もちろんゴクウ禅師の指示に従い、カズトはもう一度、今度はワサビつきの定期券を自動改札機に差し込んだのだ。
するとどうだろう。
今度はブザーを鳴らす間もなく、自動改札機の様子が大きく変化したのだ。
ランプをしきりに点滅させ、ゲートをバタバタと激しく開閉するさまは、まるでのどをかきむしっている姿に見える。
次の瞬間、自動改札機が立ち上がるのを目の当たりにして、目を丸くするどころか、カズトは恐ろしさまで感じたのだ。
立ち上がるだけでなく、自動改札機はあっという間に鉄のボディーを脱ぎ捨て、その下からはついに妖怪が姿を現した…。
「は、半馬人だっ…」
ワサビまみれの定期券を口から吐き出し、半馬人は目を赤く光らせ、カズトをにらみつけたのだ。
その顔には見覚えがあるどころではない。
もちろん知っている妖怪だ。
雷丸なのだ。
逃げ出さなくてはならないが、カズトは足がすくんで動けない。
血走った雷丸の目つきは、それほどに恐ろしかった。
そこへ物陰から、ゴクウ禅師が飛び出した。
ゴクウ禅師の出現までは予想しておらず、雷丸も多少は目を丸くした。
駅構内にゴクウ禅師の声が響くのだ。
「雷丸、もうあきらめい。どういうつもりか知らんが、おまえの悪戯もそこまでじゃ」
だが雷丸は、そんなことでひるまなかった。
両腕を動かしたかと思うと、驚きのあまり体を動かすことができないカズトの首筋に刀を突きつけたのだ。
銀色に輝く鋭い刃先で、引き抜くさまは目にも留まらず速かった。
これにはゴクウ禅師も参った。
「待てっ、待て。早まるな、雷丸」
「ええいゴクウ禅師、私は、カズトが通るのをここで待っていたのだ。言いたいことが山ほどあってな」
「わかった。わかったよ雷丸。先日の『押し返し』の件は謝る。このとおりだ」
「ふん、頭を下げるなど誰でもできる。謝罪の気持ちがあるのなら、行動で示してもらわんとな」
「なんだと? どうしろというのかね?」
「私は、人間世界のうまい食い物が腹いっぱい食べたいのだ。今日からおまえの寺に居候するぞ。私にうまいものを食わせるのだ。でないと…」
「でないと、どうするのだね?」
「このままカズトの首をちょん切る」
「ま、待て。待ってくれ、雷丸」
そう迫られてしまうと、ゴクウ禅師には断ることは不可能だった。
2分後にはカズトは無事に開放されていたが、それはもちろん、雷丸が寺に居候するという条件と引き換えだった。
こういう事情で、半馬人の雷丸がゴクウ禅師の寺に居座ることになった。
これで雷丸は、人間世界の食い物を腹いっぱいに食べることができる。
めでたし、めでたし…
…ともかくも食い物の恨みとは、かように恐ろしいものである…。
(終)
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