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釣書
いつものように、自宅から遠くもないゴクウ禅師の寺へやってきて、カズトはすぐに口を開いた。
学校から帰宅したあとの、毎日の日課なのである。
「あんな変なお坊さんと付き合うなんて…」
とカズトの両親はよい顔をしなかったが、まだ今のところ交際の禁止は申し渡されていない。
もっとも両親は、ゴクウ禅師が持つとされる法力と、その法力を用いた仕返しを恐れていただけかもしれないが。
ゴクウ禅師とは、そんな仕返しなどしそうにない人物であるが、カズトの両親は何も知らないのであろう。
「ねえ禅師、ややこしい話だから、気をつけて聞いてよ」
「どうしたね?」
「僕のお父さんが、古道具屋で古い古い郵便受けを買ったんだよ。お父さんはアンティークを買い集めるのが趣味で、お母さんはいつも機嫌が悪い」
「どうしてだね? いい趣味だと思うが?」
「趣味にも限度があるよ。うちの物置はガラクタでいっぱいなんだもん。先月なんか、江戸時代の入れ歯まで買ってきた」
「おや、それは病膏肓(やまいこうこう)に入っているね」
「えっ、山井高校って何? どこの学校? 誰が入学したの?」
「そうではなくて、病膏肓というのは…」
「ああ禅師、説明しなくていいよ。そんな古くさい言い回し、僕は興味ない…。それでね、こづかいと引き換えに、その古い郵便受けを掃除する仕事を僕が引き受けたのが、先週のことなんだ」
「…まさかカズト君、掃除をしていたら、その郵便受けの奥に数十年前の古い手紙が、誰にも気づかれないままで挟まっているのを見つけたのではなかろうね?」
「あれ禅師、どうしてわかったの?」
「ふふふ、わしだって、だてに年は取っておらんよ…。それでカズト君、見つかったのはどんな手紙だった?」
「それが釣書(つりがき)だった」
「釣書? 男女が見合いをするときに、相手方へ事前に送っておく自己紹介の書類だね」
「それだけじゃないよ。釣書には女の人の写真も添えられていた」
「ははあ、若い娘から、先方の若者へと送られたのか。どんな写真だい?」
「とても美人だよ。りんとした気品のある姿で、髪は優雅に高く結われ、カメラのレンズをまっすぐに見つめているんだ。胸から上の部分しか写ってないけど、肩や腕もほっそりして、首だってバラの茎のようにスラリと長い」
「ほう、君もなかなかの詩人だねえ…。だがカズト君、その釣書を、その後どうした?」
「郵便受けの中に引っかかっていた長年の風雨から、手紙のあて先はもう消えて読めなかった。だけど差出人の住所はまだ判読可能だった。だから僕は、その住所に手紙を出したんだよ」
「ほう」
「そうしたら今日、その返事が来たんだ。ほら…」
カズト様
驚きをもって、お手紙を拝見いたしました。それは亡き母の独身時代の釣書に間違いありません。事情があり、私は母の顔を知りません。あまりにも小さいころに亡くなったので、記憶がないのです。カズト様は母の写真をお持ちとのこと。ぜひともそれをお見せいただけないでしょうか。母の顔を知らぬ娘からのたっての願いです。
読み終わり、ゴクウ禅師はため息をついた。
「これは女らしいていねいな文字だね。張りのある筆使いが、いかにも若い娘を連想させる。紙と封筒の選択もセンスがある。パソコンのない時代、手紙とはこういう風情のある物だった。なつかしや、なつかしや…」
「あのね禅師、昭和の思い出にひたるのも結構だけど、その手紙は、それだけじゃないんだよ。末尾に追伸もあるんだ。終わりまでちゃんと読んでよ」
(追伸)
お手紙によれば、カズト様は幸いにもゴクウ禅師とお知り合いとのこと。ゴクウ禅師のお名前は私も存じております。ご親切な方との評判ですから、きっとカズト様と私の仲介役を引き受けてくださることでしょう。
カズトはにっこりと笑った。
「ねっ」
「だからわしに、この娘との仲介をしろというのだね? それはかまわないが…」
その日がやってきて、釣書と写真をカバンに入れ、カズトは再びゴクウ禅師の寺へと出かけた。
だが寺の雰囲気が奇妙なのだ。
カズトが姿を見せると、ゴクウ禅師は顔色を変えた。
しかしそれよりも早く、カズトは相手の姿に気づいたのだ。
手紙の返事をよこした娘本人ではなく、カズトの道案内をするために従者をよこすとは、あらかじめ連絡があった。
だからあれは従者に違いない。
従者も若い女だった。
物陰になって、最初カズトからは彼女の上半身しか見えなかったが、やがてカズトは立ち止まり、目を大きく見開いた。
物陰から全身を現した従者の姿が、彼にはそれほどの驚きだったのだ。
「あっ、あれは?」
従者の上半身は確かに女だったが、下半身は違った。
ほっそりとした上半身とは正反対に、下半身は馬そのもの。
しかもよく発達した巨大な馬身。
従者は人間ではなく、半馬人だったのだ。
カズトの姿を見て、半馬人の女はさっそく口を開いた。
彼女の声は低く、周囲によく響いた。
いかにも命令することに慣れている感じで、半馬人の国の軍人かと思われる。
「禅師、これがカブトという子供か? いやカブラ、あるいはカフカという名だったか?」
「カズト君だよ、半馬人さんや…。おや来たね、カズト君。だが楽しみにしていたのに気の毒だが、今日、この人についてゆくのは考え直したほうがよいのではないか」
しかし半馬人は気にも留めないのだ。
「私の名は雷丸というのだ…。いやカズト、考え直すことなどない。おまえに会うのを姫様は楽しみにお待ちだ。亡き母君の写真をおまえは持っているのだろう?」
カズトはやっと口を開くことができた。
「姫様って誰?」
「決まっておる。半馬人の国のお世継ぎではないか!」
「僕、お世継ぎのことなんか知らないよ」
「姫様は、それはそれはおきれいな方であるぞ。お優しくもあり、家来に対する気づかいもちゃんとされる」
「その人に欠点はないの?」
「欠点? 姫様にそんなものがあるわけなかろう? しいて言えば、甘いものに見境がないということぐらいだが…」
ここでゴクウ禅師が、カズトと雷丸の間に割って入った。
「姫のことは、どうでもいい。雷丸よ、あんたにはカズト君の身柄までは不要であろう? その写真だけ持って帰ればよい」
「そうはいかぬ。カズトの顔も見たいと姫様はおっしゃるのだ。おいいつけに逆らうわけにはいかぬ」
「何の権利があって、あんたはカズト君を地底へ連れてゆくのかね?」
「権利の話ではない。それが姫様のお望みであるからだ」
「そんな勝手はさせぬぞ」
だがそれには答えず、雷丸はただニヤリと笑った。
雷丸はサッと体を動かし、そのすばやさにはゴクウ禅師もどうすることもできなかった。
気がついたときには、カズトの腕には手錠がはめられていたのだ。
人間の世界で警察が用いるものとは形が違うが、金属でできたしっかりしたものであることは変わりない。
いったんはめられてしまえば、取り外しにはキーが必要であるのも同じ。
いつ、どこからこんなものを取り出したのか、本当に目にも留まらなかった。
「雷丸、僕に何をするのさ」
しかし雷丸は笑っているのだ。
「いやいや、あいすまん…。おや私としたことが、手錠のキーをお城に忘れてきたぞ。こうなれば、カズトには何が何でも城へ来てもらわねばならんな」
雷丸の強引さは、これだけではなかった。
腕を大きく動かしたかと思うとカズトの肩をつかみ、自分の背に無理やり乗せてしまったのだ。
強力なクレーンの下部にぶら下がり、カズトはブインと振り回されるようなあんばいである。
まるで荷物のような扱いでカズトは抗議しかけたが、そのときには遅く、すでに雷丸は全速力で駆け始めていた。
「待て雷丸。そう勝手はさせぬぞ」
ゴクウ禅師はその前に立ちふさがったが、雷丸も負けてはいない。
カズトを乗せたまま、オリンピックの馬術競技のようにジャンプし、ゴクウ禅師の頭上を簡単に飛び越えてしまったのだ。
寺の庭を横切り、門を蹴破って雷丸は外に飛び出したが、カズトはその背に強くしがみつくことしかできなかった。
もちろんゴクウ禅師も追ってきたが、人間と半馬人では競争にならない。
ゴクウ禅師の声はすぐに遠く、やがて聞こえなくなった。
カズトは声を上げた。
「ねえ止まってよ、雷丸」
「だめだ」
「じゃあせめて、少しスピードを落としてよ。スピード違反だ。知らないんだな。この町は市内全域が時速40キロに制限されているんだよ」
「うるさい。半馬人に速度計などない。しっかりつかまっていろ」
「僕が転げ落ちてケガをして、お姫様に怒られたらどうするんだい? もしかしたら、落馬のショックで僕は死んじゃうかもしれないぞう。あんたは姫様に怒られるぞう」
ここまで言って、やっと雷丸はほんの少しスピードを落とした。
だがカズトは落胆した。
もう手遅れだ。道はすでに人間の世界を外れ、地下世界へと入り込んでいた。
ある瞬間、雷丸のひづめが固い石の床に着地すると同時に、あたりは真っ暗になったのだ。
カズトはつぶやいた。
「真っ暗なトンネルだ」
「ああカズト、人間のお前が知らぬのも無理はないが、これが地底世界への入口なのだ」
「地底世界には電気がないのかい? まさか電気代を滞納して、止められたのかい?」
「よしカズト、ここまで来ればもうよいだろう。そら手錠を外してやる。それからお前…」
「何さ?」
「いつまで私の背に乗っているつもりだ? いい加減に降りて、自分の足で歩け。私はタクシーではないぞ」
「そうだよね。タクシーにしてはメーターがないもん…。運賃の支払いにクレジットカードは使えますか?」
「バカめ、地底世界にそんなものはない」
トンネルは長く続き、やがて前方にぼんやりした光が見えてきたのは、さらに何分か進んだ後のことだった。
「雷丸、あの光は何さ?」
「これで一息つけるぞ。あれはなカズト、茶屋なのだ」
「茶屋? お茶を飲むところ? 喫茶店?」
「そのようなものだが、クレジットカードは使えないぞ」
茶屋といっても屋台のような小さなものだったが、ベンチがあるので、カズトは少しうれしくなった。
いい加減、足がくたびれたのだ。
カズトが腰掛けると、すぐに茶屋の主人が姿を見せた。
「へい、いらっしゃいませ」
見慣れない姿にカズトは目を見張ったが、茶屋の主人は古めかしい着物を見につけ、ヒゲがぼうぼうに生えた顔を手ぬぐいで覆っている。
いかにも胡散臭い感じがするが、雷丸は気にしなかった。
「主人、茶を2つくれ」
「へい、ただいま」
背の低い姿は年寄りだが、茶屋の主人はキビキビと動き、カズトたちの前にはすぐに茶が置かれた。
だがそのとき、主人の目と自分の視線がピタリと合ったことに、もちろんカズトは敏感に気づいたのだ。
しかしカズトには、それ以上主人を観察する余裕はなかった。
雷丸が口を開いたのだ。
「おや主人、どうした? 今日はいつもの顔と違うな。あの男はどうした?」
「いえお客さん、わしの顔はいつもと同じでございますよ。兄がカゼをひきまして、今日はわしが代役を務めております。どうぞ、ごひいきに…。ところでお客さん、そこにいる人間の子供はお連れなので?」
「まあな…。よし、面白い話だから教えてやる。実はな…」
雷丸の話が済むと、主人はため息をついた。
「おやおや、お客さん、悪いことは言いません。このガキをお城へ連れていくのはおやめなさい。お客さんの名誉にかかわる悪い結果になることでしょう」
「どうしてだ?」
「お客さんはこのガキの正体をご存じないからですよ。こいつはこのあたりじゃ有名な手クセの悪さで、あちこちで盗みは働くは、ウソはつくは、人はだますはで、みんな迷惑しているんでさあ」
口をポカンと開け、雷丸がこちらを振り返るので、カズトは神妙そうに顔をふせた。
「このカズトがか? 主人、それは本当か?」
「カズト? そういえばそんな名でしたな。でもこのあたりでは、『盗みのカズト』というほうが、よほどよく通じます…、いやいや、それよりもお目にかけるほうが早い。こらカズト、動くんじゃないぞ。今からおまえの上着を調べるからな…」
「どうした主人? なぜカズトの身体検査などする?」
「いえいえ、すぐにわかりますよ…。ほらごらんなさい、お客さん。カズトのポケットの中に、こんなものがありましたよ。どなたのサイフですか?」
「おやなぜ? それは私のサイフではないか」
「こんなことで驚いてちゃいけませんよ。こらカズト、反対側のポケットも見せい…。おや、やはり思ったとおりだ」
続いて主人は、ベンチの上に数枚のコインを並べたのだ。
「主人、それは何だ?」
「これは人間世界の貨幣じゃありませんぜ。地底世界でしか使われないものですな」
「ああ、たしかにそうだ」
「このガキめ、さっきからワシの近くをいやにチョロチョロしやがると思ったら、案の定だ。人のふところばかり狙いやがって…。ねえお客さん、悪いことは言いません。こいつをお城へ連れていくのは、おやめになったほうがいい」
「こいつがお城の宝物に手を出し、盗んでまわるというのか?」
「半馬人のお城といえば、金銀財宝で有名ではありませんか。こやつの耳にもその噂が届いたのでしょう。泥棒をそこへ連れてゆくなんて、賢いことじゃありません。どうなるかは火を見るよりも明らかで、ポケットをいっぱいにして、こやつはホクホク顔で家路につくことでしょうな」
「だが私には、姫様のお言いつけがあるのだ」
「お母様の釣書と写真というやつですかい?」
「ああ」
「その釣書の話も本当なんですかね?」
「なんと、それもカズトの作り話だというのか?」
「釣書と写真の実物を、まだご覧になったわけじゃないのでしょう? すべてウソかもしれません」
カズトをにらみつけ、雷丸は今度こそ顔色を変えた。
「カズト、今すぐそのカバンを開けい。釣書と写真を出して見せろ」
雷丸はいきり立つが、そこを主人がなだめた。
「おやめなさい、お客さん。どんなに精巧に作ってあっても偽物は偽物。調べる値打ちもありゃしません」
雷丸はプリプリと怒り、ついにはカズトに向かって罵詈雑言を並べ立てた。
聞くにたえない言葉ばかりで、驚くというよりも、カズトはその語彙の豊富さに感心したほどだ。
罵詈雑言を言いたいだけ並べ、ついには、
「おい主人、勘定はここに置くぞ。そのガキは、煮るなと焼くなとお前の好きにせい」
と言い捨てて雷丸が駆け出し、あっという間に暗闇の中に姿を消したときには、カズトも目を丸くした。
「へい承知しました。まいどありい」
と主人は答え、雷丸の後ろ姿へ向かってペロリと舌を出したが、手ぬぐいと付けヒゲを外した後に現れた顔を見ても、カズトは驚かなかった。
「やれやれカズト君、半馬人とは驚くほど単純な種族だ」
「うん禅師、助かったよ、ありがとう」
「なんのなんの…。なあカズト君、昔わしは本当に手クセの悪いガキだったのじゃよ。スリといい盗みといい、決して自慢できる話ではないが、それがこんなところで役に立つとはね」
「だけど釣書と写真はどうするのだい?」
「半馬人の城へ届けるのはもう不可能さ。あんな目にあった後では、そんな義理もなかろう」
「そうかもね…。これからどうするのさ? 地上へ帰るんだよね?」
「少し待ってくれるかい? 茶屋の主人に頼んで席を外させ、わしがそのふりをしていたわけだが、その主人が戻ってこないことにはね…。店を無人にはできん」
カズトとゴクウ禅師は茶屋で待ち続けたが、主人はなかなか姿を見せなかった。
そのうちに何人かの旅人が通りかかったので茶を出し、思わぬ営業までする羽目になった。
「あのう、もしもし小僧さん…」
その何人目かの客だったが、暗闇の中から突然話しかけられ、カズトはひどく驚いたのだ。
「きゃっ、だれ?」
「私です。先ほどこのあたりを半馬人が通りませんでしたか? ちょうど小僧さんと同じ年頃の子供を連れていたはずです」
闇の中から声の主が姿を現したとき、カズトはため息をついた。
あの写真と同じように美しい娘がそこにいたからだ。
雷丸と同じような半馬人だが、雰囲気はまったく違う。
あちらが軍人なら、こちらはいかにも『姫』なのだ。
きらきらした髪飾りと、長いそでの着物が愛らしい。
そこへゴクウ禅師が顔を出した。
「おやおや、あなたが雷丸の主人でしたか」
「はい、あのう…雷丸の帰りが遅いので、いてもたってもいられず、ここまで迎えに来たのです」
さっそくゴクウ禅師は事情を説明したが、説明が進むにつれて姫は目を丸くし、驚き、最後には申し訳なさそうにした。
「それは本当に申し訳ありません。雷丸は決して悪い家来ではありませんが、短気で、いつも早合点する癖があるのです」
「それはもう、しっかりと拝見しました」
姫は赤くなり、
「まあ…、それでカズト様、母の写真は見せていただけるのでしょうか?」
美しく、はかなげな姫の物言いに、カズトの心は最初から決まっていた。
「ええ、もちろんいいですよ」
「まあ、うれしい」
写真と釣書に、姫は本当に喜んだ。
「私の母とは、こういう人だったのですね。書いた文字にも母の性格が現れているような気がします」
「そうですね、お姫様。ああそうだ。お饅頭を食べます? さっきつまみ食いしたんだけど、おいしいですよ」
茶屋だから、お茶うけにそういう菓子も用意されているのだ。
カズトは皿を差し出したが、その行動を彼自身が最も悔やむことになる。
派手な足音と共に、暗闇から不意に現れただけでなく、カズトを見下ろし、雷丸は大きく鼻を鳴らしたのだ。
「いやな予感がして戻ってきたら、このざまだ…。なあカズトよ、茶屋の主人とは、ゴクウ禅師が変装した姿だったのだろう?」
「なぜ知ってるのさ?」
カズトは視線を走らせたが、その先の地面にはゴクウ禅師が横たわり、完全に伸びているのだ。
姫のひづめにモロに蹴られたのだから無理もない。
「見ろカズト、頬かむりも付けヒゲもみんな取れているではないか」
ここで、やっとゴクウ禅師が目を覚ました。
「おやおや、わしの正体がバレてしまったようだね」
雷丸はあきれた顔をした。
「バレるとかバレないとか、そんなレベルではない。トラ猫の背中の模様のように明々白々だ」
「そうかい?… おやカズト君、ケガはなかったかい?」
「僕は禅師よりも運が良かった。姫のそでで、はたかれるだけですんだよ」
雷丸は、もう一度鼻を鳴らした。
「だから言ったであろう? 姫様は甘い物に見境がないと」
カズトは目を丸くした。
「あれって、『甘い物には目がない』という意味じゃなかったのかい?」
「とんでもない。『甘い物をひとかけらでも口に入れたら最後、姫様は我を忘れ、何もわからなくなる』という意味だ。そのときに何が起こるかは、今お前たちが経験したとおりだ。見ろ、踏みつぶされて、茶屋がメチャクチャではないか。修理代を相当取られるぞ…。だがその前に…」
「何さ?」
「お前たちが果たして、生きて地上へ帰れるかと思ってな」
「どうして?」
「一度ああなった姫様は、そう簡単には元に戻らないぞ。元に戻すためには、姫様に甘い物を与えた者の血が必要になる」
ゴクウ禅師の顔色が変わった。
「血とは?」
「文字通り血液という意味さ。甘い物を与えた者、つまりカズトの生き血をすすらぬ限り、姫様は元には戻らぬ」
「それではまるで吸血鬼ではないか」
「姫様は吸血鬼ではない、と私は一言も言わなかったぞ…。まあいい。まだ手がないわけではないさ」
「どうするのだね、雷丸?」
「血に飢えた衝動も、永遠に続くわけではない。1時間たてば、何もしなくても姫様は自然に元に戻るということさ。元のお優しく、はかなげな姫様にな」
「ならば簡単ではないか。その1時間の間だけ、カズト君の身の安全を確保すればいい」
「おやゴクウ禅師、そう簡単にいくとお思いかね?」
「なんと?」
「ほれ見ろ。もう姫様がお戻りだ」
その言葉と同時に、茶屋の残骸が大きく揺り動かされたのだ。
バリバリと音を立て、あたりに散らばった。
「カズト君、気をつけるんじゃぞ」
ギザギザに砕けた茶碗類を蹴飛ばし、木片をかき分けながら、姫が再び現れたのだ。
だがもう先ほどの愛らしさ、姫らしさはどこにも見ることができない。
そこにいたのは目を血走らせ、長い牙をむき出しにした吸血鬼でしかなかった。
カズトが悲鳴を上げたのも無理はない。
「禅師、姫が僕に気がついた。こっちへ来るよ」
「カズト君、逃げるんじゃ」
カズトは飛び上がって駆け出したが、もちろん半馬人の足にかなうはずがない。
ゴクウ禅師もしがみつき、姫の足を少しでも止めようとしたが何の役にも立たず、地面に叩きつけられるだけで終わった。
「くっ、来る…」
だがカズトは捕まることはなかった。
その直前にひょいと現れた強い手が、彼のエリをつかみ、サッと高く引き上げたのだ。
そのままドサリと置かれ、カズトは駆け出す気配まで感じた。
必死につかまり、見回したカズトはやっと気がついた。
彼は雷丸の背中にいたのだ。
「雷丸?…」
「しゃべるなカズト、舌をかむぞ」
「だって…」
駆け出した雷丸は、あっという間に姫を引き離してしまった。
姫の乱れたひづめの音が遠くなる。
「ああそうか、軍人である雷丸のほうが姫よりも速く走ることができるのは、当たり前のことだ」
とカズトは納得しかけたが、まだわからないことがある。
「ねえ雷丸、なぜ僕を助けてくれるんだい?」
ハッハツと規則正しい息と共に聞こえてきたのは、時ならぬ笑い声だった。
「お望みならカズト、姫の前でお前を降ろしてやってもいいのだぞ」
「姫はものすごい顔をして追って来るよ。僕を助けて、あんたが後で怒られない?」
「それは大丈夫だ。吸血鬼になっている間のことを、姫様は何ひとつ覚えてはいない」
「甘い物を食べると吸血鬼になるなんて、何かの呪いだね?」
「ああ、だがその呪いがどこから来るのかわからんのでは、対策の立てようがない。姫様はもう、3年も前からあのようなのだ」
「へえ」
「だがカズト、今はそんな話をする暇はない。まだ姫様は真後ろにいるか? いくらなんでも、私もそろそろ疲れてきたぞ」
「まだいる。それに姫は疲れ知らずだ。速度がにぶったようにも見えないよ」
「吸血鬼はタフなのさ。誰にもまねできない」
「あんたの足が疲れて、もしも姫に追いつかれたらどうなるの?」
「そりゃあカズト、おまえが血を吸われて終わりさ。他にどういう結末があるね?」
「僕、そんなの嫌だよ」
「ならカズト、私の言うことを聞け。疲れ知らずの姫様から1時間の間、逃げ続ける方法が、ただ一つだけあるのだ」
「うん僕、どんなことでもするよ。血を吸われないですむんなら」
「よし、それでこそ男の子だ」
「禅師はどうしたかな? 茶屋なんてもうはるか後ろで、明かり一つ見えないや」
「あんな年寄りのことはほっておけ。今はお前の命だ」
「うん…」
その間も雷丸は走り続けた。
そして偶然、ある樹木のそばを通りかかったのだ。
「よしカズト、あの木を使おう。近くまで行ったら、タイミングを見て枝に飛び移るのだ。そのあとは、姫が真下を通るのを待て。よいな?」
「いいも何も、やるしかないんだ。血を吸われて、カサカサのスルメみたいになるのは嫌だよ」
「そしてカズト、その間は絶対に一言も口をきくのではないぞ。わかったな。一言でもしゃべれば、それが命取りだ」
その瞬間にはカズトは体中の筋肉を使い、雷丸の背から、枝へ飛び移ることに成功した。
幹をつかんで体を安定させ、姫にむけて目を走らせる余裕まであったほどだ。
相変わらず疲れる気配すら見せず、姫は全速力で近づいてくる。
長いそでを振り回し、髪まで振り乱す恐ろしい吸血鬼の姿だ。
カズトはぞっとしたが、ここで縮こまるわけにはいかないのだ。
「カズトのやつめ、どこへ行った? どこまで逃げた? なんとしても生き血を吸わずにはおかぬぞ」
姫の口から漏れるつぶやきはカズトの心臓を凍りつかせるに充分だったが、もちろんここで終わりではない。
歯を食いしばり、体に力をこめ、カズトはもう一度ジャンプした。
木の枝を離れ、ついにカズトは、姫の背に飛び移ることに成功したのだ。
だが姫は何も気づかない。
両目を血走らせ、カズトの姿を求め、左右を見回すことに夢中なのだ。
息を殺し、カズトはつぶやいた。
「ここまではうまくいった。だけどここが地獄の1丁目。とにかく1時間の間、僕はここにしがみつき、身を隠していなくてはならない。ここだけが、姫から見えない唯一の安全な場所なんだ…」
姫の背の上で何分がすぎたのか、カズトには見当もつかなかった。
「まだ5分ぐらいかな? ううん、もしかしたらもう50分ぐらいすぎたかも…。よくわからないや」
雷丸の指示に従い、姫の長い後ろ髪をつかんで、カズトは自分の体を支えていた。
そうしないと、上下に激しく揺れる体から一瞬で振り落とされる。
しかしここで、カズトはある失敗をしたのだ。
「しまった。クシャミがしたくなったぞ…。どうして、こんなややこしいときに…」
できるだけおさえ、我慢をしたが、どうにもできるものではない。
カズトはとうとうクシャミをしてしまった。
「ハクション」
しまったと後悔したが、もう遅い。
姫の動きがピタリと止まったのだ。
「あわわ…、姫が…姫が…」
次の瞬間には、振り返った姫とカズトは視線を合わせていたのだ。
血走った姫の目は、普段の倍ほどにも大きく見え、赤い満月のようにカズトをにらみつけるのだ。
口の中から顔をのぞかせる牙の長いこと…。
「ギャッ」
自分でも思いがけない悲鳴を上げ、気がついたときには、カズトは姫の背から飛び降りていた。
地面は硬く、冷たいトンネルの岩床だ。
カズトは駆け出すが、もちろんそのあとをひづめが追ってくる。
トンネルは暗く、カズトの目には、ほんのかすかにしか見ることができない。
それでも走り続けたが、不意に何かに衝突したとき、カズトは心臓が止まるほど驚いたのだ。
しかも声まで聞こえた。
「カズト君」
「禅師、禅師かい?」
「ああそうさ。こっちへおいで」
ゴクウ禅師が自分の手をつかみ、脇へ引き寄せるのをカズトは感じた。
そして間一髪、ギリギリのところで姫をよけることができたのだ。
「ええいカズトめ、ちょこまかと逃げおる」
と姫の声が大きく響いたが、次に起こったことはカズトをもっと驚かせた。
ゴクウ禅師が言ったのだ。
「それ吸血鬼さん、血が欲しければ、わしのをやろう。そらおいで」
「禅師、何をするのさ?」
とカズトは目を丸くしたが、なんとゴクウ禅師は、自分の腕を姫の鼻先にかざしているのだ。
いまや姫は立ち止まり、振り返ってカズトとゴクウ禅師を見下ろしているが、半馬人の巨大さをカズトはまざまざと感じた。
「うわあ、今まで気がつかなかったけれど、馬って本当に大きな動物なんだ」
再びゴクウ禅師の声が響いた。
「さあ吸血鬼さん、わしの血はいらんかね?」
髪の毛一本ない頭を見下ろし、姫の口が動いた。
「いらぬ」
「どうしてだね? わしもカズト君も変わりない。同じ赤い血ではないかね?」
「ゴクウ禅師とやら、お前は自分を何様だと考えている? お前のような年寄りと若いカズトの血では、天と地ほどの…、いや月とスッポンほども値打ちが違うぞ」
「そういうが、世間ではスッポンの血は人気があるがね?」
「なら本物のスッポンをもってこい。ひからびたジジイの血ではなくな…。それ、ゆくぞ」
その言葉と同時に姫のすべての足が地面を蹴り、カズトに飛び掛るそぶりを見せたのだ。
「まっ、待て待て待て、吸血鬼さん。そういきり立ち、踏みつぶさんでくれ。わしはまだ命がおしい…。では仕方がないなカズト君、こうなったら君が、おとなしく姫に血を吸われなさい」
もちろんカズトは驚き、目を大きく見開いた。
「なんだって禅師?」
「いや残念だが、もうそれしか方法がないということさ、カズト君。なんなら姫が血を吸いやすいように、わしが腕を支えていてやろうかね?」
「えっえっえっ?」
もちろんカズトは逃げ出そうとしたが、すばやさはゴクウ禅師のほうが上だった。
あっという間に捕まえられ、カズトは身動きもできなくなったのだ。
「いやだよ禅師、やめてよ…」
しかし小柄な体でゴクウ禅師は力が強く、カズトは振りほどくことができなかった。
姫はさっそく目の色を変え、迫ってくる。
だがその瞬間、ゴクウ禅師の手がひょいと伸び、姫の髪から何かをつまみあげるのが見え、カズトは目を見張った。
それは銀色をし、きらきらと輝くものだ。
指先でつまめ、大きなものではない。
「禅師、それは何?」
自分の置かれている立場も忘れ、カズトはそうたずねようとした。
しかしそんな暇はなかったのだ。
ああっと悲鳴をあげ、姫は突然に気を失い、倒れてしまったのだ。
さっそく雷丸が駆け寄る。
「ゴクウ禅師、お前は姫に何をした?」
怒りに満ち、鋭い雷丸の目ににらまれても、ゴクウ禅師はいっこうに平気だった。
「雷丸、わしは姫の髪からただこれを引き抜いただけだよ」
「それは何?」
とカズトも顔を寄せた。
血を吸われそこなったことなど、きれいに忘れている。
「ああカズト君、これはカンザシさ」
「カンザシ?」
「日本髪の娘が髪を飾る道具だ。銀でできている」
「うん、きらきらきれいに光ってるね」
「姫は気を失っただけさ。今はほっておけばいい…。なあ雷丸や、このカンザシは誰かからのプレゼントだったのではないかね? 誰かから贈られて、姫は髪に飾っていたのだろう?」
雷丸は首を縦に振った。
「ああその通り。名は秘すが、ある若者からの贈り物であった」
「その若者は姫に結婚を申し込んだが、振られたのではないかね?」
「なんとゴクウ禅師、なぜそんなことまで知っている?」
「その通りなのかい?」
「ああそうだ。その若者から求婚されたが、姫様は断った。そのカンザシは、半馬人の国を去りぎわに、思い人の記念にと若者が残していった」
「ふふん、大したものを残していったものだ」
「どうしてだ、ゴクウ禅師?」
「このカンザシには呪いがかけてある」
「なんと?」
「その呪いの効果は、今お前さんも見たろう? 若者がカンザシを贈ったのが3年前。姫が呪いを受けるようになったのも、同じころではないかね?」
「おおゴクウ禅師、それですべて合点が行くぞ。しかしお前、なぜわかった?」
「それはまあ、わしも長く生きておるからな。カンザシを抜けば、もう呪いは消えたはず…。おや、姫が目を覚ましたぞ。起き上がるのに手をお貸しせい、雷丸よ」
もちろん雷丸はそうしたのだ。
目をはっきりと開け、まるで夢から覚めたように姫はまわりを見回すのだ。
「あら雷丸、私はどうしてここにいるの?」
「何もご記憶ではありませんか、姫様?」
「いいえ、茶屋でお饅頭を食べたところまでは覚えているのですよ…。あっ、まさかまたあの呪いが?…」
だが雷丸は微笑んだ。
「いいえ姫様、あの呪いは、ここにいるゴクウ禅師の手で破られました。もうご安心を」
そう言って、雷丸は事情を説明したのだ。
あまりのことに目を大きく開き、姫は言葉も見つからなかった。
釣書と写真を手渡し、礼の言葉を何度も何度も受け取って、カズトとゴクウ禅師が地底世界を離れたのは、それから程なくのことだった。
地上までの道案内を雷丸が買って出たが、ゴクウ禅師は断った。
「なあ雷丸よ、あんたに案内などされたら、また道中にトラブルが起こりそうな気がするよ」
「そうかい? なら私はいっこうに構わんが…。しかしゴクウ禅師、あの壊れた茶屋はどうするのだ? 持ち主は相当腹を立てていると思うが?」
だがそれも心配はなかったのだ。
呪いを解いてくれた礼にと、姫が修理費の肩代わりを表明してくれた。
トンネルの暗闇を進みながら、カズトが口を開いた。
「ねえ禅師、いろいろあったけれど、初めて来た地底世界、僕はなかなか面白かったよ。機会があったら、また来ようね」
しかしゴクウ禅師は首を横に振るのだ。
「勘弁してくれ、カズト君。飛んだり走ったり変装したり、大変すぎて、わしは10歳も年を取った気がするよ」
しかしゴクウ禅師は知らなかったのだ。
またいずれカズトと共にこの地底世界へ足を踏み入れる運命を、この男は背負っていたのである。
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