雨鬼

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雨鬼

 ゴクウ禅師の寺には、カズトは思ったよりも早く着くことができた。  いつもの部屋でゴクウ禅師は本を読んでいたが、その足元では猫が退屈そうにゴロンと横になっている。  こんな雨の夜にカズトの姿を見て、ゴクウ禅師は驚いて本を置いたのだ。 「おやカズト君、何か緊急の用かな?」  ポタポタと水をたらしながら、カズトは傘をたたみ、 「ついさっき、僕の家に電話があったんだよ…。ねえ禅師、いい加減この寺にも電話を引いてよ。禅師と話したい人が、いつもいつも僕の家に電話してくるんじゃたまらないよ」 「しかしカズト君、近頃は電話代もなかなか高くてね…。それで今日の伝言は誰からだい?」 「知らない人だよ」 「その人は名乗らなかったのかい?」 「女の声だけど、聞き覚えはなかった。その人が言うには、急いでゴクウ禅師に伝言したいって…」 「おやおや…」 「伝言はこうだよ。『光明寺の娘はとても容態が重く、今夜のうちにも死んでしまうだろう』って…。病気なのかな?」 「光明寺だって?」 「禅師は知ってるのかい?」 「知らぬ名ではない。しかし本当にあの光明寺家のことで、その娘が死にかけているのなら、これは大変なことだ。今すぐに出かけなくてはならん」 「どこへ?」 「もちろん光明寺の屋敷へさ。カズト君、この雨の中、わざわざ知らせに来てくれたことに感謝するよ。ご両親は引きとめなかったかい?」  とゴクウ禅師は、もう身じたくを始めている。 「もう夜遅いからと両親は反対したけど、おもしろそうだから強引に出てきた」 「そうだったのかい」  猫に留守番を頼み、カズトとゴクウ禅師は並んで寺を出た。  しかしこのとき、奇妙なことが起こったのだ。  寺のすぐわきには小川があり、この雨だから水が集まり、水かさを増していた。  しぶきの多い茶色い水面に何気なく視線を走らせると、とたんに表情を変え、カズトが口を開いたのである。 「あれれ禅師、今あの水中に何かが見えたよ。確かに一瞬、ウロコかヒレのようなものがきらめいた」 「ああ、わしも見たよカズト君…。季節外れにえらく強い雨だと思ったが、やはり雨鬼の仕業だったのか」 「雨鬼ってなにさ?」 「説明は後にしよう。まず大急ぎで電話をかけなくてはならん。そこの角を曲がったところに公衆電話があったね」 「誰に電話するんだい?」 「もちろんブタ8君さ」  とゴクウ禅師はもう駆け出している。 「ブタ8おじさん? どうして?」  すでにゴクウ禅師は公衆電話に取り付き、ダイヤルを回していた。  さいわいにもブタ8は、すぐに電話に出た。 「ああもしもし、ブタ8君かい? わしだよ、ゴクウだ。すまないが緊急の用を頼まれてくれないかね?… うん、こんな時間だということは分かっているし、この雨でもあるがね。うん…、うん。そうなんだ。すぐにカズト君の家へ行き、万一のことがないよう頼みたい…。そうそう、あの雨鬼の件さ。ああ、奴の姿はついさっきワシも目撃した。うん、じゃあよろしく頼むよ」  電話を切り、歩きはじめながら、ゴクウ禅師はカズトを振り返った。 「カズト君、気の毒だが君は、家へ帰ることができなくなった。わしと一緒に光明寺の屋敷へ来てもらうしかない」 「どうして?」 「君はある妖怪から目をつけられている。今夜は、家に帰るのはあきらめるのだね」 「じゃあ明日は学校を休める?」 「君は本当に学校が嫌いだねえ」 「だって明日は、大嫌いな古文の授業があるんだ。あの先生ったら、ものすごく臭いんだ。タバコを吸いすぎるだけじゃなくて、ポマードを毎日1ビン、髪に塗ってる。『髪につける』じゃなくて、『髪に塗る』だよ。パンの表面のバターみたいに、いつも光っている。僕たちの間では…」 「クラスの生徒の間で、何か噂があるのかい?」 「あの先生はもしかしたら、正体はゾンビじゃないのかって。体が腐りかけたその匂いを隠すための、あのタバコやポマードじゃないのかって」 「最近の子供はおかしなことを考えるものだねえ…。それはそうとカズト君、光明寺の娘は、名前をミドリというのだよ」 「年齢はいくつ?」 「君とちょうど同じくらいかな。光明寺家はかなりの金持ちで、それにふさわしい大きな屋敷を構えているが、全部ミドリの父親がたった一代で築いたものだ」 「へえ」 「しかしそれには裏があり、この人は穀物の仲買人なのだが、君は知っているかな? 穀物の値段とは、その年の天候によって大きく上下するんだ。天候が良く、しっかりと雨の降った年は豊作で、値段は下がる」 「うん」 「逆に雨の降らない年は不作になり、市場での値段はとんでもなく上昇する。光明寺氏はここに目をつけたのさ。豊作の年に穀物を大量に買い込んで倉庫で保管しておき、翌年は一転、雨の少ない不作の年だったらどうなるかな?」 「ええっと、去年安く買った穀物を高い値段で売って、大儲けになるね」 「光明寺氏が財をなしていった方法が、まさにそれなのだよ。雨鬼というのがいてね。文字通り雨を降らせたり、降らせなかったりすることができる妖怪なのだが、光明寺氏はこの雨鬼と契約をした。そうやって畑に降る雨量をコントロールして、大儲けをしたのさ」 「そんな妖怪が、よく協力してくれたもんだね」 「もちろん雨鬼だって、タダ働きをするはずはないさ。協力するにあたり雨鬼はなんと、『おまえの娘をオレの嫁によこせ』と光明寺氏に要求した」 「ミドリのこと?」 「そうさ、当時まだミドリは生まれたばかりの小さな赤ん坊だったが、欲に目のくらんだ光明寺氏は、首を縦に振ってしまった」 「まさか」 「それが、まさかではないから困るのさ。『世にバカ親の種はつきまじ』ってね」 「へえ」 「『13回目の誕生日を迎えたその日に、ミドリは雨鬼のもとへ嫁入りする』ことが取り決められた。それ以来、結婚式の日を楽しみに、雨鬼はせっせと仕事にはげんだ。光明寺氏の利益になるように、ひたすら雨雲を動かし続けたのさ」 「でも僕と同い年なら、ミドリはもう13歳の誕生日を迎えているはずだよ。どうして雨鬼のところにいないんだい?」 「いくら父親の決めたことでも、誰も妖怪に嫁入りなどしたくない。カズト君だって、いくら美人でも妖怪とは結婚したくないだろう?」 「そうかなあ…」 「そうなのさ。13歳の誕生日を迎える直前、ミドリはある人に助けを求めた。その人がミドリに知恵を授けたのさ。彼女にある呪文を教えた」 「どんな呪文?」 「『妖怪はじき』といって、非常に効き目が強く、一度唱えるだけで妖怪を24時間、自分のまわりから遠ざけておくことができる。この呪文を日に1度、忘れずに唱えれば、もう雨鬼もミドリに近寄ることができなかった」 「でも今、そのミドリが死にかけているんだよね?」  とカズトが言ったとき、二人は目的の屋敷に到着したのだ。  門をたたくと家政婦が現われ、小さな声でゴクウ禅師に何かを言った。  ゴクウ禅師もただうなずいているが、その表情は暗い。  家政婦がどこかへ行ってしまってから、やっとゴクウ禅師は口を開いた。 「カズト君、遅かったよ。ミドリはついさっき亡くなったそうだ」 「じゃあ僕、禅師がお経を読むのにつき合わされるのか? いやだなあ」 「いや、読経は必要ない。ミドリはクリスチャンだ。だがワシには別の仕事がある。手伝ってくれるかい?」 「何をするのさ?」 「奥の部屋では今、棺の準備が進んでいる。その間を利用して、君にもっと詳しい事情を説明しよう」  合図をし、部屋のすみのイスをゴクウ禅師は指さした。  カズトに異議のあるはずがなく、並んで腰かけ、ゴクウ禅師が言葉を続けるのを待ったのだ。 「カズト君、ミドリが最後に呪文を唱えてから、もうすぐ24時間がたつ。呪文の効き目はすでに薄れ、雨鬼がいつ姿を現しても不思議はない」 「ミドリは死んだのに、まだ雨鬼はやってくるのかい? どうして? 死んだら雨鬼と結婚できないよ」 「相手が生きていようが死んでいようが、妖怪は気にしないさ。花嫁衣裳を着せ、喜んで結婚式をあげるだろう。雨鬼は必ずやってくる。わしたちの仕事は、ミドリの棺を雨鬼の手の届かないところへ隠すことなんだ」 「どこへ?」 「雨鬼とは水の妖怪だが、不思議なことに塩水をとても嫌う。川や池の水はまったく平気だが、海水は、匂いをかぐことさえ嫌がる。実のところ、奴は海水には触れることができない」 「あっ…、じゃあさっき寺の前の小川で見たあれは、雨鬼だったんだね」 「その通りさ。呪文の効き目が弱まったことを感じ取ったのだろう。だから雨鬼は様子を見に来た。奴にとっては、わしも憎い敵の一人だからね。寺を偵察に来たというわけさ」 「ブタ8おじさんには何を頼んだんだい?」 「もしかしたら雨鬼はカズト君の家をすでに知っているのではないか、と心配になったからさ。家にはご両親がいるのだろう?」 「僕の家にも危険がおよぶ?」 「念のため、君の家にいてくれるようにブタ8君に頼んだのさ」  カズトは、ブタ8の顔を思い浮かべた。  体は大きいけれどただ太っているだけで、筋肉隆々とはとてもいえぬ。 「ブタ8おじさんなんて、役に立つのかなあ。この間だって、『家に大怪獣が出たあ。助けてくれ』と必死の声で電話してくるので駆けつけたら、イモムシが一匹歩いているだけだったよ。ブタ8おじさんは弱虫で、昆虫だって怖がるんだ」 「ああ見えて、ブタ8君の呪文はなかなか大したものだ。雨鬼を寄せ付けない程度のことなら、彼には朝飯前さ…。おや、どうやら棺の用意ができたようだ。ではカズト君、出かけようじゃないか」  再び家政婦が現れ、カズトとゴクウ禅師が雨ガッパを身につけるのを手伝った。  屋敷のすぐ裏手は川に面しており、そこに小さなボートがつながれているのを見つけ、カズトは目を丸くしたのだ。 「あっ禅師、あのボートには棺が積まれているよ…。あの中にはミドリの死体が入っているんだね」  棺を揺らさないように気をつけながら、二人はボートに乗り込んだ。  ロープをほどくと、ボートは流れの中へと乗り出していったのだ。 「禅師、これからどうするんだい?」 「簡単なことさ。川を下って、このまま海へ行き、棺を水中へ落とす」 「棺を海に捨てるの? 不法投棄にならない? それとも死体遺棄かな?」 「一種の水葬さ。ミドリがゆっくりと眠ることのできる場所は、もう海しかない。どこに埋めても雨鬼は見つけ出し、掘り出してしまうだろう。雨鬼と結婚式をあげると、ミドリは妖怪となってこの世によみがえる。それだけは絶対に嫌だというのが本人の意思だからね」 「ふうん…。もうだいぶ屋敷を離れたけれど、雨鬼はこのボートをつけていると思う?」 「もちろんだよ。もしかしたら、わしたちの真下にいるかもしれない」  カズトは背筋がゾクリとした。 「ねえ禅師、『妖怪はじき』の呪文を僕たちも使えないのかな? そうすれば雨鬼を遠ざけることができるよ」 「いやいや、そううまくはいかない。一度効果が途切れた以上、あの呪文はもう無効さ」 「じゃあどうするんだい?」 「それがわからないから困っているのさ。とにかく今は、雨鬼がどう手を出してくるか、待つしかない」  そして数分後、大きな水音と共に、ついに雨鬼が姿を見せたのだ。 「あっ禅師、来たっ」 「気をつけるんだカズト君。あの姿をごらん。大砲のように長く太い首をこちらへ向けているじゃないか」 「まるでネッシーみたいだ。それともナマズかな? 口のまわりに濃いヒゲが生えてる」 「あれが本当にナマズなら、天ぷらにしてやるさ。だが奴も必死じゃぞ」 「どうして?」 「もう海が近いからさ。このまま進めば水は塩水に変わる。やつはそれを恐れている」 「だからどうするのさ?」 「ここは辛抱して、少しやつのお相手をしてやろうじゃないか。奴の注意を引き付け、あっと気がついたときには、やつは塩水の中を泳いでいるというわけさ」 「だけど…」 「カズト君、心配は要らないよ。ほら、もう潮の香りがしないかね?」  ところが奇妙なのは、カズトとゴクウ禅師を見下ろすばかりで、いつまでたっても雨鬼が手出しをしてこないことだった。 「ねえ禅師、ちょっとおかしいよ。あの大きな体で、雨鬼にはボートをひっくり返すなんて簡単なことだよ。だけど僕たちを見つめているだけだ」 「ううむ、どうもこれは本当に様子がおかしいね」  思いついて、水につけた指先をカズトはなめた。  そして目を丸くしたのだ。 「禅師、水はもう塩辛いよ。雨鬼って、塩水には触れることができないんじゃなかった?」 「そうだねカズト君。ごらん。雨鬼はウロコの間から血を流し始めている。だのに、わしたちを攻撃する気配もない」  カズトが顔を上げると、本当にゴクウ禅師の言うとおりだった。  海水に含まれる塩分が雨鬼をむしばみ、肌に無数の傷を作っているのだ。  まるで赤い水をかぶったように全身から出血している。 「禅師、これは一体どうなっているのだろうね?」 「わしにもさっぱりわからんよ。だがとにかく、何かわしたちの知らない事情があるようだ」 「どうして?」 「たかが嫁取りごときに、これほど執着する者はおるまい?…。カズト君、すまないがそこのオールを取ってくれないか。ボートをこいで、真水の場所まで戻るとしよう。雨鬼のあの様子は、とても見ていられない」  ボートを川上までバックさせると、雨鬼の出血は止まった。  あの大きな体で、雨鬼はおとなしくボートの後を着いてくるのだ。  しかし依然、雨鬼は口をきく気配もない。  ゴクウ禅師は首をかしげた。 「カズト君、これは君とわしの二人でなんとか考えるしかないね」 「何を考えるのさ?」 「そうさなあ。この棺の中に入っているのは本当にミドリなのか、というのはどうだい?」 「まさか別人だと思うのかい?」 「考えてみればカズト君もわしも、棺の中をまだ一度もあらためていないからね」 「僕はミドリの顔も知らないよ」 「おやおや、恥ずかしながらカズト君、それはわしも同じだよ」 「どうして?」 「そもそもは光明寺家の家政婦が寺へやってきて、わしに相談を持ちかけたことから始まった。わしはすべて信用し、ミドリに直接面会することさえ思いつかなかった。考えてみれば、わしほどだまされやすい人間はいないな」 「でも棺の中に誰が入っているにしろ、それをわざわざ禅師に頼んで海へ捨てさせるなんて、どういうことなんだろうね。一体何の得があるっていうのさ?」 「いやカズト君、そもそも棺の中身が人ではなく、物だったらどうするね?」 「物って? 物を棺に入れて埋葬するのかい?」 「棺のふたを開いてみればわかることさ」 「えっ禅師、僕は嫌だよ。本当に人が入ってたらどうするのさ?」 「すべてわしがするから、君はただ見ているだけでいいさ」 「ならいいよ。僕は何にも手伝わないからね。呪いを受けるときは、禅師一人で全部引き受けてよね」 「いいとも」  気楽そうに、ゴクウ禅師は棺に手をかけたのだ。  フタを開く瞬間には思わず目を閉じてしまい、その後もカズトはなかなか目をむけることができなかった。  そこへゴクウ禅師の声が聞こえたのだ。 「おやおやカズト君、これは意外だ。まるでチョコレートの箱を開けたら、中に石ころが入っていたようなものだよ。ちょっと見てごらん…」  翌日の昼過ぎ、ゴクウ禅師に連れられ、カズトは再び光明寺の屋敷を訪れていた。  奥まった広い部屋に通され、屋敷の女主人と面会していたのだ。  女主人は背が高く、高価な着物に身を包んでいる。  いかにも金持ちという感じだけでなく、威厳まで感じる姿だ。  鼻は高く、 『もしもクレオパトラの鼻が、もう少し…』  という古い言葉を思い出させる。  カズトの隣にはゴクウ禅師がいて、まず深くお辞儀をした。 「奥様、昨夜はご依頼どおり、ボートを海へ届けてまいりました」 「それはご苦労なことでした。これでミドリも、雨鬼におびやかされることなく眠れるのですね。禅師の隣におられるのは、たしかカズトさんといいましたか? あなたにも深く感謝します。ミドリもさぞかし喜んでいることでしょう」  もはや若くはないが、それでも絵のように美しい女主人に声をかけられ、カズトはポウッとなったが、ゴクウ禅師の様子はどこか奇妙だった。  斜に構え、どこか嬉しそうに相手を眺めているのである。 「お言葉ですが奥様、ミドリが感謝している? はたしてそれは本当ですかな?」 「何をおっしゃるのです、禅師?」 「ボートを海へ届ける途中、ちょっとした出来事がありました。そのせいでわしたちは、あの棺の内部を見たのです」 「なんですって? あなたは、なんということをするのです。カズトさんもそうです。これは死者に対する冒涜(ぼうとく)です。恥という言葉を知らないのですか?」  ゴクウ禅師は鼻を鳴らした。 「フタを開け、棺の内部にはミドリではなく、小さなキーが入っているのをワシたちは発見したね」 「キーですと?」 「そう。手のひらに収まる小さなキーだった。重さをごまかすために、棺の底には砂が敷き詰めてあり、キーはその上に置かれていた」 「まさかミドリは、すでに雨鬼によって連れ去られていたというのですか?」 「いやいや奥様、それどころか、そもそもミドリという娘が実在したかどうかさえ怪しい。あんたはワシたちを使って、はじめからこのキーを海へ捨てさせようとしたのではないかね?」  ふところに手を入れ、ゴクウ禅師がさっと取り出したキーは、カズトも前夜に見たものだが、女主人の表情は変わらない。 「そんなつまらないキーが、どうしたというのです? 私にはさっぱり意味がわかりませんわ」 「キーがあっても、鍵穴がなければ意味がない。そこでわしたちは少し頭を悩ませた。しかし案ずることはない。なんと鍵穴は、わしたちのすぐ目の前にあったのだから」 「それはどこです? 金庫か何かですか?」 「長い間飲まず食わずで、雨鬼もさぞかし苦労しただろう。なにしろアゴに鉄の鍵を取り付けられ、口が開かないようにされていたわけだからね」 「なんですって?」 「長い口ヒゲに隠れて最初はわからなかったが、気がついたとき、わしたちがどれほどあきれ、雨鬼に同情したことか。ボートの前に顔を出しても、奴が言葉ひとつ発しなかったのもうなずける。鍵のせいで、しゃべりたくても口を開くことができなかったのさ」 「どこの誰が、雨鬼にそんなひどいことをしたのです?」 「カズト君とわしは、すぐに雨鬼の口から鍵を外してやった。棺の中にあったキーは、その鍵穴にピタリと合ったよ。しかしここからが問題だった。雨鬼の口から聞かされた話が、わしたちをどれだけ驚かせたか」 「それと私と、どういう関係があるのです?」 「その通り。雨鬼のことはもう良い。すでに自由の身となり、すみかへと帰っていった。今頃は口を大きく開け、好きな魚をいっぱいにほおばり、あくびをして昼寝でもしておるだろう」 「では禅師、この件は、誰にとってもよい終わり方をした、ということではないか?」 「そうでもないね。鍵を外されて自由になり、わしたちの前から姿を消す直前、雨鬼はあることを教えてくれた。それは呪文なのだが、これを唱えることができないようにと、あんたがその口に鍵をつけ、しかもそのキーを、雨鬼が行くことのできない海底へ捨てようとした。そのためにミドリという娘の話をでっち上げ、あんたはワシを引っ張り込んだ。真相はそうではないのかな?」 「ふん。禅師は、何を証拠にそんなことをおっしゃる?」 「いやいや、あんたこそ何を証拠に身の潔白を証明できるね? そうさなあ、まずミドリとかいう娘が実在したことを証言できる人間を呼んでもらおうか。家政婦でも誰でもよい。早くここへ連れてきたまえ」  もちろん女主人は、体を動かすことさえなかった。  憎しみをこめて、二人を見つめるばかりだ。  カズトは少し意地悪な気持ちになり、 「ねえ禅師、僕が呼んでこようか?」  その言葉に、ゴクウ禅師はクスリと笑いを浮かべた。 「これはこれは奥様、カズト君もなかなか意地悪な口をきくではないか。この屋敷がもぬけのカラ、つまりあんた以外には誰もいないことを彼もよく知っているのだよ」 「なんですと?」 「それどころか、これは屋敷ですらないね。こんな場所に住み着いたどういう妖怪か知らないが、悪事をたくらむのはともかく、無実の目撃者の口を封じたやり方は、ちとひどすぎはせんかね?」  女主人はとうとう立ち上がった。 「ええい、余計なことをする坊主め。皮をはいで、その頭を丸めてマリつきをしてやる」  両手の指をワシのつめのように尖らせ、女主人は今にもゴクウ禅師に飛びかかるかと見えた。  カズトは驚き、恐ろしさのあまり逃げ出すどころか、指一本動かすことができなかった。  しかし後になって、カズトも多少は感心したのだ。 『ゴクウ禅師も、だてに年を取っているわけじゃないんだな…』  なぜなら迫り来る妖怪に立ち向かい、カズトの前に立つだけでなく、ゴクウ禅師はとっさに呪文を唱えたのだ。  ゴクウ禅師が唱える数々の呪文は、カズトにとって耳慣れたものになりつつあったが、今回の呪文は耳新しかった。  だがまったく初めて聞く呪文というわけでもなかったのだ。 「ああこれは昨夜、雨鬼が教えてくれた呪文だ」  まるで形ある物のように、呪文は宙を横切り、妖怪へと飛び掛った。  妖怪の鋭いつめは、ゴクウ禅師まであと数センチというところだったが、呪文の威力は想像以上に大きかった。  まとっていた見せ掛けの姿をはぎ取り、あっという間に妖怪の正体を露出させたのだ。 「ぎゃあ」  妖怪の上げる悲鳴は大きく、あたりに響いた。  カズトは耳を覆いたくなるほどだったがゴクウ禅師はひるまず、次の攻撃にかかったのだ。 「餓鬼たちよ、それゆけっ」  普段は目に見えないが、ゴクウ禅師の背後には常に餓鬼たちがひかえ、呼び出される瞬間を待っている。  餓鬼とは、これまでに寺で供養され、回向(えこう)によって改心した悪霊たちが、離れがたくゴクウ禅師の背後で待機しているという、親衛隊かオッカケのようなもの。  なんだかとんでもない話だが、こういう部隊を所持している僧侶も、恐らく日本にこの人ひとりであろう。  この餓鬼たちの群れを見るたび、 「すげーなー」  とカズトは思った。  一匹一匹はサッカーボールほどの大きさでしかないが、そこから棒のように細い手足が生えている。  毛がごく少ないところはまるで裸のサルみたいだが、その手足の先には尖った爪がいくつも生え、口中にも長く鋭い牙を見ることができる。  そういう餓鬼たちが数匹さっと姿を見せたのだ。  そして壁のようになり、ゴクウ禅師とカズトの前に立ったのである。  しかし敵と交戦することはなかった。  餓鬼たちの姿を目にしただけで戦意を喪失し、妖怪はあっという間に身をひるがえらせたのだ。  カズトは目を丸くした。 「あれあれ禅師、妖怪の姿が消えるどころか、瞬きをする間もなく屋敷全体がなくなっちゃったよ」  にっこりと笑い、ついさっきまでは屋敷の床だと思っていたものから立ち上がり、ゴクウ禅師も同じように見回した。  屋根も柱ももはや影もなく、足元にはただ赤土の地面が広がっているだけなのだ。 「ああカズト君、ここはどこかな?」 「町外れの、何もない空き地だよ。あの屋敷はどこへ消えたんだろう?」 「いや屋敷など、はじめから存在しなかったのさ。カズト君とわしは妖怪の術にかかり、まったくだまされていた」 「はじめから、ここはこんな空き地だったのかい?」 「そのとおり」 「あああそこ、あそこに川がある。昨夜は何も知らずに、あそこからボートに乗ったんだね」 「カズト君、そこに穴が見えるかな? ほら、少し離れたところに…」 「ああ本当だ。地面に掘ってある。ちょっと深そうだね。中をのぞいてみようか」 「さっきの妖怪の正体は何だと思う?」 「キツネでしょ? 餓鬼たちにひるんで逃げてゆく瞬間、人間の女だった姿がサッと変化するのが見えたよ。ふさふさした茶色の毛と、長い尻尾が印象的だった」 「あれはメス狐だよ」 「どうしてわかるのさ?」 「その穴の中をごらん。あの狐は妊娠していた」 「妊娠? 妖怪も赤ん坊を生むのかい?」 「妖怪の種類によってはね。だがカズト君、たとえ妖怪でも、母親の情に変わりはない。生まれてくる赤ん坊のために、あの狐はおもちゃを集めていたのさ」 「おもちゃ?」 「穴の中をごらん。何百足あることか」 「ぜ、禅師、あれって全部靴? うひゃあ、穴の中が靴でいっぱいだ。これが全部、赤ん坊ギツネのおもちゃか」  カズトが驚きの声を上げたのも無理はない。  まるで靴屋の倉庫のように、穴の中には靴が何百足も山積みにされていたのだ。  ゴクウ禅師が言った。 「やれやれ。ここのところ町で何百という靴が盗まれる事件が相次いでいたが、犯人はあいつだったのか。これだけの数の被害者の元へ靴を返すとなると、大変だな…。おやカズト君、どうしたのだい? なぜ穴の中へ飛び込む?」  振り返り、穴の底からカズトはゴクウ禅師を見上げたが、その手はすでに忙しく動き始めていた。 「うん禅師、靴を盗まれた被害者の中には、僕のお母さんも含まれてるんだよ。買ったばかりでまだ一度も履いてない靴が盗まれたって、ものすごく怒ってた。八つ当たりで、来月からは僕のこづかいが減らされそうなんだ」 「君のこづかいだって? そんなものは関係ないじゃないか?」 「関係なくても減らすってのが、我が家の教育方針だよ。もしもここで僕が靴を見つけて持って帰れば、母上のご機嫌も直り、こづかいも減らされずにすむかもしれないって瀬戸際なんだから、見てないで禅師も手伝ってよ」  カズトは忙しく手を動かし続けるが、これほどの数の靴だ。  その中から一足を探すなど、考えただけで気が遠くなる。  だがカズトにはいつも世話になっている。  むげにはできない。  ため息をつき、ゴクウ禅師も穴の中へ飛び降りるしかなかったのだ。
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