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彼を愛した前夜祭3
失恋が確定したあの日以来、アヤさんは愚痴こそ零してくれないが、恋人だという男の話をぽつぽつしてくれるようになった。
それだけ信を寄せてくれているのかと思うと嬉しい——が、少々複雑な気分というのが本音である。
けれど一つ、嬉しい誤算があった。
サークル棟の空き部屋でだらだら駄弁った後、肩を並べて帰路につくようになったのだ。今までは適当なところで別れていたのに。
秘密の共有とは、こんな効果も齎してくれるらしい。
今日も二人、帰路を行く。歩く道の先は十字路。普段ならアヤさんは住宅街へ向かって右折するのだが、この日は俺と共に直進して来た。
「あれ? どっか寄るの?」
「うん。スーパー行きたくって」
「あ、分かった。今日は可愛い恋人さんが来るんでしょ」
「えへへ……、当たり」
おねだりされちゃったからさぁ、とくふくふ笑う彼に相槌を打ちながら、俺の眼は白い首に向いていた。
傷一つない、真っ白で綺麗な項。けれどそこが荒らされてしまう場所であると、俺は知っている。
ずるいよなあ——と、的外れな思いが頭を過ぎる。
俺は触れることが精一杯なのに、恋人の座に着く名前も知らぬ男は堂々と、彼の全てを愛せるのだ。
「——だからね、どっちを作ろっかなあって……ちょっと傑、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。てか、その恋人さんはアヤさんのご飯なら何でも美味しく食べるんじゃない?」
「んぅ……嬉しいけど、何でも良いが一番困る……」
「ははっ、アヤさんを悩ませるなんて贅沢者だ」
ほんと、贅沢者。
だってその恋人さんが喰べるのは晩ご飯だけじゃないんでしょ……とは口が裂けても言えないけれど。
存外照れ屋で奥手な彼は一度も話題に上げないが、身体の関係もあるのだろう。
あんな場所——項の付け根に噛み付き、吸い上げる状況。俺の脳みそが劣情に沸いていなければ、つまりそういう事だ。
アヤさんに気づかれないよう数度、深呼吸をして煩悶を胸の奥へ押し込む。
この切り替えも初めこそ苦しかったが、今は慣れつつある。
「アヤさんはさ、明日の前夜祭どうするの?」
「俺? 参加するよー、最後だもん。傑は?」
「屋台の準備が残ってるから強制参加。だからさ、準備が終わったら一緒にキャンプファイヤー見ようよ」
「あ、解った。文字通り高みの見物する気なんだ?」
「そういうこと。グラウンドは人混みで酷い目に遭うでしょ」
「ふふっ、傑はおっきいから邪魔な柱扱いされるもんね」
「そうそう、でけーよ邪魔だよって顔される」
「縮めないのにね、あれ酷いよ」
酷いと言いつつ、おかしそうに笑うアヤさんにつられて、俺も少し笑った。
歩く先。まだまだ小さかった筈の看板が、直ぐそこまで迫って来ている。
折角楽しくなって来たというのに。
まだ離れたくない、なんて。
そんな願いは叶う筈もなく——愛しい人は、じゃあねと手を振り去って行く。
俺は薄っぺらい笑顔で手を振り返して見送りながら、心の端がじくじくと傷んでいくのを感じていた。
彼はこれから『彼氏』の為に買い物をして、晩ご飯の準備をして——愛されるのか。
「……やめよ」
これ以上考えても虚しいだけだ。
前夜祭を共にする約束が出来ただけ良いてはないか。彼の最後の前夜祭を独り占め出来るのだから、それで十分ではないか。
そう叱咤する自分と、ならこの痛みをどう癒すのかと叫ぶ自分が、胸の奥でいがみ合う。
「ははっ、どっちに転んでも辛いっつーの」
それでも彼の傍から離れようとしないのだから、自分の諦めの悪さに辟易しそうだ。
足早にスーパーへ向かう彼の背中は、期待と幸せに満ちている。
彼に恋人がいるという事実より、彼の心をそこまで弾ませているのが自分でないことが悔しいのだと、今、知った。
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