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 夏の夜は願いでできている。  あの夏の放課後に生まれた彼のその言葉を、私は十五年経った今でも信じている。  今年も祭りの夜が来た。見渡す限りの色とりどりの風鈴。それと同じだけ捧げられた想いたち。この短冊のどれか一枚に、私の願いも綴られている。 「ねえ、ママはあれに何をかいたの?」 「あ、俺も気になるなあ、それ」  繋いだ手の先で笑う娘が言って、隣を歩く夫がそれに便乗する。 「んー、内緒」 「えー、ママいけずー」 「いけずー」  夫と娘がわざとらしく口をとがらす。二人の表情がそっくりなのがおかしくて、私はくすりと笑った。  幸せな人生だ。愛する家族に囲まれた、穏やかな日々。胸の中には、このうえないほどの愛情で満たされた心の器があった。  だけど、その凪いだ水面の奥底には、あの夏に灯った小さな火影が揺れ続けている。溢れた涙の水圧も、重ねた記憶の質量も、その灯りを消すことは出来なかった。  だから私は願い続けた。  その灯りが、正しく燃え尽きてくれるように。あのときの想いを、きちんと伝えられますように。 『もう一度、あの人に会えますように』  一年に一度、その願いを短冊にしたため続けていたのだ。  なんて独りよがりなロマンチシズムなんだろうと、自分でも思う。それでも私は、この夜を再び歩いている。何かが起こりそうな、根拠のない期待感を胸に抱きながら。 「あっ」  不意に娘が声をあげた。お気に入りの光るうちわを、地面に落としてしまったのだ。  私はそのうちわを拾い上げる。落ちた拍子に蓋が取れたのか、足元にはコイン型の電池が転がっていた。 「……あれ」  うちわを手に、私は不思議なことに気がついた。このうちわ、電池が外れたのに何で光ってるんだろう。  すると、手のひらから溢れた虹色の光がすうっと大気に溶けていった。音のない風が頭上を通り過ぎて、千を超える風鈴がいっせいに鳴りはじめた。  突然、あたりを照らす灯りという灯りがすべて消えた。電球も、街灯も、行灯も、屋台の照明も、認識できるすべての光がだ。  唐突に訪れた完全な暗闇に、周囲の人々が騒ぎだす。 「なんだ、停電か?」  夫が言った。 「ママ、怖い」 「大丈夫だよ」  娘に声をかけながら、バックからスマホを取り出す。しかし、いくらボタンを押してもスマホの画面は沈黙したままで、光を宿すことはなかった。 「なんで?」  おかしい。バッテリーは十分に残っていたはずだ。どうやら、周りの人たちも同じみたいで、場の雰囲気が少しずつ混沌としていく。深まり続けるざわめきと宵闇の中、風鈴の音が鳴り止まない。  娘の肩を抱きながら、私は闇の奥を見据えようとする。そして、いま来た道の先に、一つの光を見つけた。 「ねえ、あそこだけ光ってる」  私は夫に言った。 「どこだ? なんにも見えないぞ」 「うそ……」  私にしか見えない光? いや、そんなものがあるわけがない。目を凝らす。よく見るとそれは、風鈴と共に揺れる一枚の短冊だった。もしかして、と私は思った。 「……遠野?」  無意識に彼の名をつぶやく。  そして気がつくと、私は一人きりになっていた。  喧騒が消えた。人が消えた。他に誰もいない祭りの夜に、風鈴だけが鳴り響いている。視線の先にはあの短冊が光り続けていた。  足元に視線を落とすと、ひまわり柄の浴衣の裾が見えた。慣れない鼻緒の感触、雨上がりの夜の匂い、鼓膜に住んだ彼の声。すぐにわかった。私は十五年前の私になっていた。  私という人間を作る膨大な記憶が優しく濾過されて、この瞬間に必要なことだけが心の器に抽出されていくようだった。ありありと蘇る感情の手触り。その懐かしさに、思わず呼吸を忘れそうになる。  あの日、台風が残した水たまりと電飾に繋がれたずさんな配線が、彼の命を奪った。もし、あの事故が起きなかったら、二人で笑い合う青春があったかもしれなかったのに。  本当に好きだった。  クラスいちの人気者なのに、成績の良さだけが取り柄の私に話しかけてくれるところ。人懐っこい笑顔。落ち着いた声。毎朝同じ部分にできている寝癖。あんまり言葉を知らないくせに、誰よりもロマンチストなところ。  会いたいと思った。ああ、そうだ。私は彼に会いたい。もう一度だけでも、会いたいんだ。  今この時が夢でも現実でも、そんなのどちらでもいい。そういうありふれた分別にすがらなくても、なによりもたしかな言葉が、この心に変わらずに灯り続けている。  顔を上げる。願いでできた夜に浮かぶ、夏灯(なつともし)が呼んでいる。私は一つ瞬きをして、その灯りを目指し、歩きはじめた。  風鈴の音が止んだ。
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