一章 みたらし団子

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一章 みたらし団子

”カナカナカナカナ……”  庭に面して吊るされたすだれの隙間を通り抜け、ヒグラシの声が私の耳に届き始めた。  いつもなら一人のんびりと布団に横たわったままふんわりと漂ってくる夕餉のいい匂いを楽しんでいる時間なのに、今日はいつもとは違って私の周りにはたくさんの人が集まっている。ワイワイと話をするわけでもなく、みんな何だか少し寂しさをこらえたような顔をしながらじっと私を見ている。  そんなに見られていたら恥ずかしいじゃない。  みんなの視線から逃げるようにゆっくりと瞼を閉じ、私はふうっと息を吐きだした。吐いた息と一緒に魂まで抜け出したのか、私の身体は重力から解放されたかのようにとても軽くなった。  あら、ついにこの身体とお別れする時が来たのね。  お医者様が私の首元にそっと手を当て、しばらくしてからその手を離し「お亡くなりになられました」と言う姿を、私は自分の身体から少し離れた場所から「ふうん」と他人事のように見つめていた。 「おばあちゃん!」 「お母さん」  その場で動かないみんなを横目に自由に動き回れるようになった私は最後のお別れを始めることにした。聞こえていないとわかってはいるけれど、私はひとりひとりに順番に声をかけていく。  あら、娘。あなたいつの間にか老けちゃったわね。ふふふ。息子はお腹が育ちすぎじゃないの? もっと運動しなさいよ。あ、虎ちゃん! あなた、いたずらはほどほどにしておきなさいよ。ほんとにもう。お隣のゲンさんには本当にお世話になりました。先に逝ったリカさんには伝えておきますね。リカさん、また仲良くしてくれるかしら?  全員の顔をゆっくりと見て回り一通り挨拶を済ませた頃、私はいつの間にか現れた光に向かってすうっと吸い込まれはじめた。  さようなら。悲しまないで。私はとても幸せだったわ。  目の前では私の過去が走馬灯のように駆け巡り始める。みんなの姿はとっくに見えなくなってしまった。段々と小さくなっていく声はだいぶ遠くなってしまってはいるものの、まだかろうじて聞こえている。  しかし、その声ももうすぐ静寂へと飲み込まれていくのだろう。そんなことを思いながら流れるがまま身を任せていたところ、最後の最後、本当に最後に聞こえた小さな小さな声が『みたらし団子』と言ったのを私はしっかりと聞いてしまった。
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