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告白
耳に響きわたる曲が、イヤホン越しに、蝉に掻き消される。道路で気侭に寝転ぶ猫が、私の視界を絆す。
もう何年が経っただろうか。いつかぶりに、この街へ帰ってきた。
ガタゴトと電車が故郷を駆けている。私はクロスシートから窓の外を眺めた。
東京の喧騒に慣れると、あの頃は何も思わなかった、稲穂がさーっと靡く風景とか、目の前を穏やかに流れていく川が、凄く懐かしく感じられた。
あれは──。
かつて私が通っていた高校が、未だに赤い外観を保ったまま、険しく真っ直ぐな坂の上にそびえ立っていた。
坂の麓を右に曲がったところには、バス停が見えた。授業を終えたであろう若き後輩たちが、乗り遅れまいと足早に、だがおしゃべりは絶やさず歩いている。
その中に、大きく手を振り、僅かに上を向いて、何かに浸るように歩き出す少年が見えた。周りの生徒は照りつける太陽によって影が出来ているのに、少年には影はなかった。
私は左右の手で両目を擦る。
再び外へ目を向けると、少年は幻影のように視界から溶けてしまい、やがて電車は校舎をぐんぐんと引き離して行った。
私にとって特別な夏が、そこにあった。
*
「一宮さん……待った?」
がらがらと音を立てて古びた教室のドアが開く。開校20年でこの脆さだ。外見は何とか私立独特のレンガ造りを保っているものの、校内に入れば真っ黒の壁や階段がすぐに目につく。先生たちは「これでも何回も修復してるんだぞ」と言い張る。生徒からは評判が悪い。
窓が開け放たれ、ぎらぎらと眩しい西日が差し込んでいる。外から、陸上部の活発な声が聞こえる。一定間隔で、燕がちゅんちゅん鳴いている。
7月22日金曜日、1学期の終業式を終えた私は、あるクラスメイトに呼び出された。場所は、私たちが普段授業を受けている1年2組の教室。
他の生徒は、畢竟何が言いたいのか分からない校長先生の話と、誰もが右から左へ流している大会の表彰式、夏休みを過ごす上での諸注意という、形式だけの儀礼からようやく解放され、晴れて夏休みだと足早に学校を去った。
校内に残っているのは、私と、私を呼び出した一宮隼、そしてパソコンに向かう教員くらいであろう。
そう、私たちは苗字が同じだ。読み方も、漢字も。「佐藤」や「田中」ならまだ分かるが、「一宮」という実に被りにくそうなラインで被ってしまった。おかげで許嫁だのなんだのと友達に冷やかされる。
2人しかいない空間、放課後、教室──考えられる可能性は1つしかない。
「ええ。随分と」
「どのくらい待ったの……」
「30分ぐらい」
「30! ごめん!」
「いいよ。私ご飯食べるの早いだけだから」
一宮隼がゆっくりと私が座る席の前にやって来た。
「あの」
教室のちょうど真ん中辺りの席。私は彼を見上げる形になる。
「なに」
「……立ってくれないかな」
「なんでよ」
「なんていうか……」
何をもじもじしているのだ。ここまで来て。男らしくない。
「やっぱりその、座ったままだと困」
「はいはい、立ちます。立てばいいんでしょ。てか告白でしょ」
「えぇ!」
なんでそっちが驚いているんだよ。このシチュエーションで思いつくのは、告白以外ないだろうに。
「なんで分かったの?」
「分からない訳ないでしょ。馬鹿なの?」
「馬鹿って……」
分かりやすく顔を下に向け、落ち込む一宮隼。
「いいから早くしてよ。私バスの時間があるんだけど。遅れたくない」
「あっ、ごめん。えっと」
一宮隼が前を向いた。そして、一回り背が低い私を見下げる。私は上目遣いになる。
すっと息を吸い込んで。
「一宮琴葉さん、入学式の時から好きでした! 僕と付き合ってください!」
男の子にしては白いが、それでもごつごつとした一宮隼の手が私の前へ伸びる。頭を下げ、礼をするような姿勢になる。
「ごめんなさい」
目を大きく見開いて頭を戻す一宮隼。そんなに意外だったのだろうか。
「当たり前でしょ。だって私たち、全然話したことないじゃん」
思い返してみれば、彼と取ったコミュニケーションは、ノート回収のときや、日直のときなど、事務的な内容でしかなかった。まあ、日直はその性質上、否が応でもペアになるけど。普段は、プライベートな会話など一言もしていない。
「それでも好きです! 付き合ってください!」
なんと。
私は一宮隼の行動に少しびっくりした。気弱に見える彼が、ここまで押してくるとは。だが、とどめを刺すことにする。
「やめておいた方が無難だと思うけどねー。こんなこと言ったら失礼だけど、まだ一学期終わったばかりなんだし、入学早々に一目惚れで告白してフラれた奴っていうイメージになっちゃうよ」
これで引き下がるに違いない。高校生たるもの、周りの目は気にせずにはいられないはず。
「お願いします! 本当に好きなんです! 付き合ってください!」
またも告白してくる一宮隼。相当に私のことが好きなようだ。
どうやら、このままいたちごっこを続けていても、バスに乗り遅れるだけだと気づいた。それに、一宮隼は来る日も来る日も告白し続けるような気がする。そういう確たる意思、熱意を感じた。その結果、私が冷やかしに巻き込まれる未来が訪れることは、視力0.1の私にも目に見えて分かった。ならば、潔く付き合ってしまった方が先決だ。
仕方なく、差し出された一宮隼の右手を取る。
こちらを向いた一宮隼の顔には、「え?」という平仮名が浮き出ているようだ。
「いいよ。わかった」
「ほ、ほんとに……? これって、僕喜んでいいの?」
「それはお好きにどうぞ。ただし」
「ただし?」
私はある条件を提示する。
「1回でも喧嘩したり、争ったりしたら、もう別れるから。あと、私の機嫌も損ねないで」
随分と上から目線なものの言い方になってしまった──
「やったああぁぁぁあああぁぁ、晴れて一宮さんの彼氏になれたぞおおおぉぉおお」
と、心配する必要は全くなかった。
「あっ、あと。普段の私見てたら分かると思うけど、私、可愛い彼女とかなれないから。期待しない方がいいよ」
「今のままで十分だよ!」
「そういうときは、『今のままで十分可愛い』って言うんだよ」
「今のままで十分可愛い!」
「おそい。あと、私が言わせたみたいになるから」
一宮隼が、口角を上げ、鼻にしわを寄せて破顔した。それを見て、少し可愛いと思ってしまった。
まさか。自分が信じられない。
「勘違いしないでほしいんだけど、私は未来の私に対する擁護のために付き合っただけだから」
「はぁーい」
一宮隼は、欠伸をするように大きく口を開けて返事をした。確実に浮かれている。本当に私の言っていることが分かっているのだろうか。
「そういえば、一宮さん。バスの時間大丈夫なの?」
時計を見る。
まだ15分ほどある。ここからバス停までは、大体5分程度だから、ゆっくり歩いても間に合うくらいには、余裕がある。
「大丈夫。全然時間あるよ。一宮隼は?」
「徒歩だから、気にしなくていいよ。というか、なんでフルネームなの?」
「自分も一宮だし、区別するためだよ。後、何となくだけど、語感いいなあって」
個人的に、一宮隼という名前の響きが好きだった。間違っても一宮隼のことではない。
「さすがに変だと思うんだけど……フルネームで呼ばれるのは違和感しかないよ」
「じゃあなんて呼べばいいの」
「うーん」
「手っ取り早く隼でいっか」
「手っ取り早くって……。僕にとっては結構重要な問題なんだけど! だって、一宮さんに呼んでもらえる名前なんだよ! そんなのじっくり悩みた」
「はいはい。隼で」
「すいません」
俯いてしゅんとする隼。
「でも、シンプルに、『隼』ってかっこよくない?」
今度は隼はそっぽを向き、顔をトマトのように赤く染めた。今すぐにでも、かぶりつけそう。
「あっ、名前の話ね」
「えっ、名前?」
「そう、名前」
しばらく口を小さく開けてぽかんとしていたが、勘違いしていたことが恥ずかしくなったのか、後ろを向いて顔を隠した。横を刈り上げているので、真っ赤なお耳は丸見えだ。
さすがに紛らわしかったので、謝ろうとした瞬間。
「あっ、そういえば、一宮さんのことはなんて呼べばいいかな!」
まだ少し赤みがかった顔をこちらに向け、明るく質問してくる。いつまでも後ろを向いたままだと、余計に恥ずかしいと思ったのだろうか。
「私は……」
私は、残念な生き物で、友達に苗字以外で呼ばれたことがない。いつも「一宮さん」で安定している。仲がいい子でも「みやちゃん」と呼ぶ。他の女子はみんな下の名前で呼ばれているのに、なぜか私は上の名前なのだ。物心ついた時からそうだったので、朝起きたら顔を洗うかのように、もうすっかり、慣れてしまった。
「ことちゃん!」
「えっ?」
「ことちゃんにしよう! 決まり!」
「い、いいよ私は。一宮で大丈夫だから」
「でも、ことちゃんも勝手に隼って決めたじゃん! だから、僕も勝手に決めさせてもらうよ」
考え方が幼稚園児と何ら変わっていない。なんなら、話し方もそれに聞こえてきた。
「分かった。勝手にすればいいよ」
「素直じゃないなあ。ちょっとだけ、嬉しそうな顔してたくせに」
ぎくっ。陽気な話し方に相反して、隼というやつ、案外鋭い。
「してないから。そうだ隼、そろそろバス停行きたいから、せっかくなら送って行ってよ」
隼が目を細め、じーっとこちらを見つめてきた。
「あっ。断じて一緒に帰りたいとかじゃないから。付き合ってあげた代わりにそのくらいしてくれるよねっていう意味だから」
「そっかー……」
またも隼は分かりやすく項垂れた。本当に感情が表に出やすい。
「そりゃそうでしょ? まだ付き合い始めて5分しか経ってないんだから」
突然、隼は何かを思いついたように、パーの形をした左手に丸めた右手をぽんっとした。
「結局、ことちゃんと一緒に帰れるのには変わりない! 解決!」
「何が解決よ。こっちは最初から解決してるから」
隼がにししと屈託のない笑顔を見せつけてくる。
「私は戸締りやるから、隼は電気と冷房消してきて」
「りょうかーい」
隼は間延びした生返事をすると、頭の後ろで手を重ね合わせながらスイッチを切りに行った。私が全部の窓を閉めるという手間のかかる行為に買って出たことを、何とも思っていないのだろうか。実はバス停まで着いて来てくれることに対する、少しのお礼だから、まあ別にいいけれど。
入り込んでくる燦然たる光に手をかざしつつ窓を締め終えると、既に隼は鍵を持って廊下に出ていた。
私が教室を出ると、手際よく鍵を閉める。
「ことちゃん、やる?」
「もちろん」
「やる」というのは、じゃんけんのことだ。このクラスでは、教室に残り勉強をして帰る生徒が多いのだが、出る時に必ず鍵を返すのが誰かという壁にぶち当たる。そこで、職員室まで鍵を返しに行く犠牲者を選ぶじゃんけんが、定着した。
「さーいしょはグー」
私たちは口を揃える。
「じゃーんけんっ」
出されたのは──
チョキとパー。私がチョキだ。勝った。
「くそー負けたかぁ」
「私の方が1枚上手だったようだね」
「あれっ。ちょっと待って」
「なに?」
「これ、いつもなら勝った方が先に帰れるけど、一緒にバス停行くんだったらやった意味無いような……」
私は最も大事な部分を忘れていたことに気づき、唖然とした。職員室に行く時間をロスせずに帰れるというこのじゃんけんの本質は、勝った方が結局は待っていなければならないという必然性により、意味をなくした。
「確かに。私、隼を待っておかないといけないもんね。じゃあ、意味ないや」
「僕の方が1枚上手だったようだね」
「今のは上手とかそういうのじゃないから。あと、普通にじゃんけん負けてるから」
隼は赤ちゃんのように顔を綻ばせた。私はそれを見て、ああ、裏表のない人って、こういう人なんだろうなと、変なことを思った。
相変わらず運動部の声がひしめく中、学校を出た。校内ではさほど感じることのなかった暑さが、冷房に頼りきっていた私に襲いかかる。
学校の前に、50mほどの直線の坂道がある。それを何回も往復し、汗を流す陸上部を見ると、運動が出来ない私は、あまりの輝きに目を覆いたくなる。それと似たようなものを、隼にも感じていた。
「ことちゃん」
歩きながら隼が話しかけてきた。
「なに?」
「明日から夏休みだけど、予定とか、ある?」
「別にないかなあー。課題やるくらいしか」
毎年、同じ夏休みを繰り返している。恐らく、高校生活最初の夏休みも、お世辞にも充実しているとは言えない日々を送るだろう。
「じゃあ早速明日、本屋さんに行かない?」
「本屋さん? 隼と一緒に?」
「うん! ことちゃん、休憩時間によく本読んでるじゃん? ずっと話したいなあって思ってたんだよね」
「隼も本好きなの?」
「好きだよ」
隼が本好きとは。かなり意外だった。明朗快活な人柄からは想像がつかない。どんなものを読むのだろう。
「知らなかった……本読むんだ」
「なにそれ、馬鹿にしてる?」
「いや失礼。あまりにもイメージとかけ離れてるから」
「ひど!」
「だからごめんって。まあいいや、一緒に行ってあげるよ。場所は?」
「あのーなんだっけ、何とか書店っていう」
「ああー。あそこね。分かった。14時くらいに現地集合でいい?」
「いいよー」
「じゃあ決まりね。この辺りで大丈夫だから。送ってくれてありがとう」
「おっけー! じゃあまた明日!」
「うん。ばいばい」
「ばいばい、ことちゃん!」
どこか満足そうな少年の背中が、夕闇の底に落ちた。
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