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衝撃
隼の家は、ここで合っているのだろうか。
言われた通りに橋をわたり、ガソリンスタンドの前までやってきた。
後ろには、レギュラー159の文字。
綺麗な一軒家だった。見た限り、2階建てのようだ。ドアの横には、白くて清廉な百合の花が植木鉢に入っていた。
表札を確認すると、「一宮」となっている。苗字が同じだと、何だか変な感じがする。
スマートフォンの画面で時間を確認する。
12時55分。
少し早かったかな。まあでも、5分前行動という言葉もあるくらいだし、気にするほどでもないか。
私はインターホンを押した。
すぐに隼が出てくる。餌を待っていたペットのようだ。
「ことちゃんこんちゃ! 入って!」
「ことちゃんこんちゃってなんか嫌だな」
「なんでー! いい語呂じゃん!」
「お邪魔します」
私は冷徹な視線を送り、靴を揃えて隼の家に上がった。
隼は苦笑いを作り、右手で後頭部をおさえて、ぺこりと頭を下げる。
「こっち来て! 僕の部屋2階だから!」
廊下をそのまま進んでいくと、階段があった。木製の、上品な階段だった。
階段を上がると、右手に部屋が1つ。
入ると、ものは綺麗に片付いていて、埃も全くなかった。入ってすぐのところにある本棚には、言っていた通り、ファンタジーの名作がずらりと並んでいる。
「結構、部屋片づいてるんだね」
「ことちゃんが来るから掃除したんだー」
掃除、ね……真面目なところもあるじゃないか。
「ごめん! お茶出すの忘れてた! ちょっと待ってて!」
「いいよ、急がなくても」
「すぐ取ってくるー!」
隼はダンダンダンと、音だけで分かるくらいの猛スピードで階段をおりていった。最悪の場合、怪我をしそうな勢いである。慣れているからだろうか。
部屋を見渡すと、正面に小さな棚があり、大学のパンフレットが置いてある。あの性格でこの段階から大学を考慮しているとは、驚嘆に値する。
隼のやつ、裏表、あったな。良い意味で。
「お待たせ!」
隼は両手が塞がりながらも、器用に肘でドアを開けた。
「ありがとう」
そして何の躊躇いもなく私の隣に座った。
「うちのお茶、滋賀のかりがね茶っていう美味しいお茶だから、是非飲んでね! 苦いから、好みは別れると思うけど」
かりがね茶。聞いたことがなかった。
「じゃあ……頂きます」
私が家で飲むお茶と違って、色が黄色みがかった、まるで秋の楓のような見た目をしていた。どこかで、こういう色のお茶は美味しいのだと聞いたことを、思い出した。
隼の言う通り、ほろ苦い。だけど、さっきまで外にいた私の口には、その苦さが、心地よく喉を潤した。
「私、この味好き」
「ほんと? 良かったー!」
「滋賀って、実家がそっちってこと?」
「うん、母方の祖父母が滋賀で、毎月送ってくれてるんだ」
「羨ましいな」
「でしょ? じゃあ一服出来たし、早速数学始めようよ!」
「そうだね」
隼は先ほどの小さな棚から数学の参考書とノートを取ると、低いテーブルの上に三角比のページを開いた。
「ここ教えて欲しい!」
私は問題にさっと目を通し、隼のノートと照らし合わせた。間違いは容易に発見できた。
「隼が使ってるのは、外接円の公式だよ。問題で問われてるのは、内接円」
「どこも間違ってないよ? 合ってるじゃん! なんで?」
むむむと苦虫を噛み潰したような顔をする。
「a/sinA=2Rは、外接円の時に使うの。内接円は、S=1/2r(a+b+c)だよ」
隼が、参考書の解説ページを確認しようと、顔を寄せてきた。
私の胸が、どくどくと脈を打つ。身体が硬直し、全身の筋肉が緊張する。手が不用意にびくっと震える。
「隼、近いって……」
「見えないんだもん!」
床に置こうとした隼の右手が、私の無防備な左手に重なった。春のような暖かい触感が、私を覆う。
隼は、瞬時に「あっ」と言って手を引っ込めた。
「ごめん、ことちゃん……」
「大丈夫」
お互いに、顔を合わせることが出来ない。薄桃色に火照った両者の頬は、擦り合わせると摩擦熱が起きてしまいそうだ。
唇を舐め、いかにもやってしまったという顔でカーペットを見つめる隼の横顔に、しばしおっとりして、浸らせてもらった後、私は先陣を切った。
「気を取り直して、はいっ、やるよ!」
パンと手を叩き、再びテーブルに向かう。
「あっ、うん、やろう!」
このような感じで、私はたまにどぎまぎしながら──隼という愛くるしい生き物に振り回されながら、勉強会を続けた。
居眠りしたまま授業が過ぎていった時のように、勉強会は一瞬で星葉祭り前日、つまり最終日を迎えた。
玄関先で、親の顔より見た隼の初々しい笑顔。最終日も、私の彼は私を見送りに来た。
「次は、8月5日だね! 19時から、楽しみにしてる!」
「私も」
「元気でね、ことちゃん!」
元気でね? どうせ明日には会うのだから、「元気でね」は少々不自然に聞こえたが、隼のことだ、と気にしないことにする。
「隼こそね」
私は明日の星葉祭りへ思いを馳せつつ、手を振り続ける愛おしい彼に背中を向けた。
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