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MONDAY
月曜日の22時、私は自宅のリビングで夫の帰りを待っていた。私は家事をしないし、料理もしない。それでもいいというのが結婚の条件だった。仕事から帰った夫の仕事だ。
夫、立川和人は口数の少ない部類の男だと思う。大学時代ラグビーをしていた事もあって、私の二倍はあるんじゃないかと思うほど大柄だ。夫の後ろに立つと完全に私が見えなくなってしまう。そのくせ気は小さく、夫の怒った姿を私は見たことはない。
男を待つことなんて私の人生で一度だってなかったのに今は夫の帰りを待っている。
だってあの日、夫を殺したはずなのだから。
静かすぎる家。時計の音も外の気配もまるでしない。結婚してすぐに立川の名義で購入したマンションの一室。タワーマンションでもなければ、ボロアパートでもない。「今の僕にはこれが精一杯です」そういってせめて最上階の角部屋になったまだ誰も手を付けていない新築の小さなマンションだった。当時流行していたコンクリート打ちっぱなしの機械的な外観に惹かれたのを覚えている。
ガチャと玄関のドアが開く、思わずビクッと身体が飛び上がる。夫はゆっくりとリビングに入ってきた。顔は青白く、中肉中背の身体は丸まった背中のせいで老人のようにも見えた。ネクタイのない寄れたワイシャツに紺色のスーツ姿。
「お、おかえりなさい」
まるで幽霊を見るかのように少し怯えたように言うと、立川はそのまま何も言わずリビングに入り、ソファにもたれ掛かっている私の隣にそっと座った。
小さなため息混じりに眉間に手を当てている。
「…月曜日なのに、仕事だったの?…」
立川は医療機器メーカーの修理や営業をしている。営業と言っても機器を売る販売員ではなく、売買契約が結ばれた後に機器の設置や説明、アフターフォローといったどちらかと言うと技術屋の方であった、販売先は医療機関ということもあり、常に病院と会社を往来している。開発スタッフと客との間に挟まれるポジションとなるため昼夜おかまいなしに仕事の電話がなる。
私より十個、歳が離れていたが、都内を歩き回る仕事で四十代間近になっても恰幅のいい体格は衰えることがなかった。ファッションにもともと興味はなかったが綺麗で若い奥さんをもらったと身なりには気を遣うようになった夫はそれなりには若くは見えたはずだ。私の隣を歩く時には夫の身なりをよく注意していた。
立川はリビングテーブルに乗っている卓上カレンダーに目をやる。
「今日は月曜か、君の唯一ある定休日だね」
立川は独り言のように小さく言った。世間の一般常識になっているのか、日祝は病院、水曜は不動産、月曜日は美容院が定休日と決まっていた。もちろん商売なので年中無休にしている美容院もたくさんある。そのため立川は休日出勤の代休や有給をいつも月曜日に当てていた。結婚当初は二人で月曜日を休日として共に過ごしたりもしたが、それもしばらくすると平気で家を空け別の男と遊んだ。
「昨日は…あのあとは…あれからどうしたの?」
「昨日は、昼に教会に行ってきたよ」
「教会?あなたが?」
宗教に無縁だった、そもそも趣味の一つもなかったような立川が日曜日の昼に教会?一体どういう心境の変化なのか、誰かから入会の誘いでもあったのだろうか。するとまた小さくため息をつく。
目の前にいるこの男は本当に私の夫、立川和人なのだろうか。成りすまして私を騙そうとしてるのではないだろうか。そんな錯覚すら起きてきた。
「君が独身の頃、君を射止めたくて神頼みしていたのを思い出したよ。ほんとは神社でもなんでも良かったんだけど。ほら、君が任されていたお店の近くにあっただろう」
確かに店の近くには平日は殆ど人がよりつかない、小さな白い教会があった。洋風のシンプルな建物に外壁に十字架を背負っており、建物よりも庭の方が広く芝生が綺麗に手入れしてあった印象があった。
「懐かしいなぁ…君と結婚できたあとはすっかり行かなくなってしまったよ。………だからバチがあたってこんなことになったのかな…」
ドキッとした。私が殺そうとしたことに気づいているかもしれないと思ったからだ。そもそもなぜこいつは生きているのか?私の目の前で死んだはずなのに。
そういうと立川は頭を抱えてまたため息をついた。夫ながらに何を考えているのかさっぱりわからない。本当に思い通りにならない男。私の思い通りにならない男なんて今までいなかったのに。
頼りなくて、自分に自信もない、男らしさもないうえに私が浮気をしてもそれを咎める甲斐性もない。どうしてこんな男と結婚などしてしまったのだろう。若気の至りだったのだろうか。
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「遊びなら辞めなさい。君は女性なんだ身体を大切しないと」
立川に物足りなさを感じた私は、ある日店で関係を持っていた男を家に招き入れた。男と裸でベッドルームにいたというのに立川からの返答に呆れた。その上、「服を着てから話し合って帰ってもらいなさい」と続けると立川が家を出たのである。
なぜ怒ってこないのか、今までの男は大抵逆上したり、泣いたり、何らかしらのリアクションがあったものだ。自分の妻をなんだと思っているのか。焦って服を着ようとした自分がバカらしい。
隣に寝ていた男は面倒臭そうに服を着ると「また今度ね」と頬にキスをし帰っていった。バタンとドアが閉まるとまた家が静かになった。なんの意味もないキスに私は裸のまま目の前にある立川のビジネスバックを蹴り上げた。重要書類やパソコン精密機器を入れるためそのバックは重厚で頑丈な本革使用の作りとなっており、音の割にはコテンと横に倒れるだけだった。
「んもう、なんなのよ!」
私はバックを何度も何度も踏み付けた。さらに持ち上げてコンクリートの壁にぶつけてやろうと思ったが、バックは想像以上に重く、私はよろけてバックを床に落としてしまった。まるで人が落ちたかのようにドスンを音を立てて足元が震えた。こんな重い鞄をいつも軽々持ち上げ毎日都内を歩き回っているかと思うと同じ人間にさえ思えない気がしてくる。
するとバックから仕事関係の書類が床に散らばった。肩で息をしていた私は散乱した書類に呆然として立ちすくむ。しばらくして落ち着きを取り戻すと服を着ようと寝室に向かった。裸足だったため汗ばんだ踵に書類が張り付いた、舌打ちをしながら手に取るとそれは生命保険の証明書だった。
「ん…?」
それは私の生命保険だったのだ。死亡時の受給額は一億となっている。受取人は夫の立川和人になっている。
確か、結婚した当時に苗字が変わり、仕事の合間を縫って手続きに追われていたことは覚えている。結婚がこんなに面倒だったとは。保険関係は病院に往来している仕事柄、立川に保険会社の知り合いがいるらしくすべて任せきりだった。死亡保険の金額が高額になっていることが気がかりだった。通常の死亡保険で妻にこんな多額の金額って補償するのだろうか。
夫婦の関係はすでに冷め切っていた。もちろん私からそうさせているのだが、それでも腹が立った。身体の芯が小刻みに震えて、やがて書類を持つ手先が揺れ始めた。加入日は結婚当初なのだろう数年前のものだった。これが、こんなものが夫の離婚しない理由なのかと思ったらさらに情けなくて笑けてきた。
そして私はまた独身時代と変わらず自由に遊び呆けた。
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「君は、ひどい女だったよ。本当に傷ついたんだ僕は」
「あなたが、そうさせたのよ」
一度くらい私を怒ってくれたら何か変わったのかもしれない。
「……………また、明日来るよ」
ゆらりと立ち上がるとまるで死人のように不気味に微笑み、私はその場から動けなくなってしまった。
私は夢をみているのだろうか、もしかして死に損ないの夫は次に私を殺そうとしているのかもしれない。
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