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TUESDAY
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美容院の新店舗を任されてから男たちと遊ぶ暇もなくなり、自分の夢だった店に私は熱意を注いでいた。店を持つと言うのは本当に大変だった。店長となり店の経営状態や経理管理にも目を配らなければならなくなったし、なにより人材育成には本当に骨が折れた。
個性が強いスタッフ同士ではいざこざやトラブルもあったし、辞められると人材確保にまたシフトを調整しなくてはならない。
店の雰囲気は口コミで回る、評判を保つのに毎日右往左往していた。
クタクタになっても仕事は充実していた、絶対に他の店に負けたくなかった。腕のいいスタッフを揃えたい。そして客にも笑顔で帰ってもらいたかった。30歳を超えて任された店を私は二年半でグループ店ナンバーワンの売上にして見せた。男と遊ぶことすら忘れていた。
「お疲れ様、そろそろ閉店かな」
「オーナー!お疲れ様です」
店も閉店してスタッフも帰宅し私が月末のレジ清算をしているところにオーナーの比佐貴幸が入ってきた。
黒のスーツに白のワイシャツ、色味だけで見ればシンプルだが、細身の長身な体にピッタリとフットしたオーダースーツ。ブランド物のシャツ、高級腕時計に尖った革靴。とても50代には見えない艶のある肌。都内を含め関東に数十店舗の美容室を展開するやり手のオーナーだった。今では殆どハサミを持たないみたいだが、雑誌やビジネス向けのテレビ取材を受けたりと経営と広告宣伝のほうで忙しく動き回っている。
多忙な方にも関わらず、店舗会議などには必ず顔を出し、どんな下っ端の人間にも笑顔を絶やさないある意味テレビ映えする人であった。
「その若さでこれだけの実績を出せるの凄い!驚かされたよ。いやぁ、君にこの店を任せた私の目に狂いはなかったな」
比佐は浅黒い肌から白い歯を覗かせた。自信に満ちた表情。余裕のある仕草、未来を見据える情熱。私にとっては目標でもあった。
「ありがとうございます。いつかはオーナーのように私も本当の自分の店を持つのが夢なんです」
「ははは、それは将来的にはここを辞めるってことかい?はっきり言われると逆に清々しいな」
「いずれはオーナーのライバル店になりますよ」
「そうか、じゃぁ、ここで盗める技術はしっかり身につけていかないとね。もちろん、店を運営する側としても」
そう言いながら私はレジを閉め、戸締りをし、店のブラインドを下げた。するとパチンと店の明かりが消えた。暗闇の中振り向くとオーナーが立っている。
「戸締りが…まだなんですが…」
街灯がブラインドの隙間から漏れ、自信に満ちた余裕のあるオーナーの顔が暗がりでもよく見える。
「君の夢を、私に応援させてくれないか」
そういうと、オーナーはコテで綺麗に撒かれた私の髪を指先でくるんと回しその指先は頬に伸び、唇に触れた。
「馬鹿にしないで。あなたに応援されなくても、自力で成り上がってみせます」
ここでキスするのは容易い、だが私はそんな安い女ではない。オーナーを下から睨みつけると「そうでしょ?」と言わんばかりに私はニコリと笑って見せた。
「はははは、さすがだ!やはり私の目に狂いはない」
腹を抱えて笑われたのは意外だった。こういった男はてっきりプライドを傷つけられて権力に物を言うのかと思ったからだ。
「君は、特別な女性だ」
こうして比佐との関係が始まった、互いに既婚者だった。比佐には大学生になる息子もいるが、もちろん互いに気に留めなかった。比佐も私もこういったことは初めてではない、慣れた女性への手つき、今までの男と比べられないほど贅沢なデート、送り迎えは無駄にバカデカイ黒の高級キャデラック。なにより全スタッフのオーナーに向けた敬意を知っている中で彼と関係を持つ優越感は堪らなかった。
「結婚しよう」
私を本気で口説き始めたのは付き合って二年を過ぎた頃だった。協議中と言っている離婚調停も比佐の資産を巡って大いに揉めていた、加えて当時大きニュースになったリーマンショックの煽りを受け、持っていた不動産が底値を叩き大赤字を食らっていた。
「無理よ、夫が離婚を承諾しないわ。裁判しても不倫している私が負けるもの」
「君と新たな人生をスタートしたいんだ、君とならもっと成功できる」
「離婚できないのよ」
「どうして、俺だって離婚できるのに」
「あくまで離婚協議中でしょ?私の夫はね、私に一億の生命保険をかけてるの、結婚した当時にね。だから私が何をしても離婚はしたくないのよ」
「一億?君に?それはびっくりだね。まぁ俺には三億の死亡保険がかけられているけどね」
「えっ?」
私は大きなキングベッドから跳ね起きた。ベッドのスプリング揺れる。
「俺は資産が大きいからね、そういう節税っていうの?積立みたいな貯金保険に入った方がお得なんだよ。妻の死亡保険も君くらいのに入ってるんじゃないか。まぁ、それも離婚したら解約して解約金も嫁に持っていかれるのさ」
「じゃぁ、私の夫は私以上の保険をかけてるってこと!?」
「日本ビジネスもまだまだ男社会だから働き手の夫により多くの保険をかけるだろうね。だがそんな考えはもう古い。俺は君と一緒にビジネスを大きくさせたい。俺の妻になって、共同経営者にならないか?」
そういうと比佐は私の上に跨りキスをしてきた。そのキスは私の鎖骨に下がり胸に顔を埋める。
「んぅっ、…私と一緒になりたい?」
「んはぁ…あぁ、もちろんだよ…」
「じゃぁ私の夫を殺して」
「えっ…」
内太腿を撫でる久野の手が止まった。
「…馬鹿ね、冗談に決まってるでしょ」
クスクス私が笑うと比佐も半笑いをしながら手元のリモコンで天井から吊り下がるカーテンを閉めた。
漏れる吐息、指先を使う行為は何となく少ない代わりに必要以上に舐めたがる口、離婚調停の鬱憤を晴らすように揺れる腰。発見や学びの多い付き合いだったがそろそろ終わりが見えている気配がした。
比佐が関東展開していた店も半分が閉店となった。資産と自信が消え、背丈さえも縮んで見えた。それでも見栄なのか、当初購入した高級タワーマンションの最上階の部屋に私を連れ込み、高級キャデラックを頑張って乗り回している。若かりしブリーチを繰り返した比佐の頭皮はシャワーを浴びた後は年相応に薄くなりかけていた。
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「ただいま」
ガチャリとドアの音が響く、見るとリビングに立川が入ってきていた。昨日と同じ時間。昨日と同じスーツ姿にいつもの重そうなビジネスバック。
私と目を合わすことなくまた同じようにソファに持たれかかる。大きくため息をすると額に手をやった。すると手首から包帯が見えた。私は息を飲んだ。おそらくこの怪我はあの時、立川を殺した時に出来た怪我だ。いや殺したはずなんだから怪我とかじゃなくてどうして毎日こう家に帰ってくるのかあの後一体とうなったのか確認する必要があった。恐る恐る私は立川に尋ねた。
「…その手首の怪我、どうしたの…」
立川はピクリと身体を震わせた。額に当てていた右手首をぼんやり見つめしばらく沈黙していた。
私は立川の「ゆるさない」を思い出していた。全く想像つかないがすぐにでも逆上され、首を絞め殺されそうな気もしたからだ。この場から逃げたしたいのになぜか出来ない。真相を確かめないことには私はこれからを歩めない。そんな気さえしていた。それほどのことをしてしまった。
どのくらい沈黙が続いたのだろうか、
「…絶対にゆるさない」
あまりにもその低い声に私は背筋が凍った。立川の目の下は窪んでクマができており、昨日より痩せて見えた。かつての穏やかな目尻の皺がなくなり瞳は充血し澱んでいた。私を見る目がどこか遠くを見ていて焦点があっていない。
ピリリリリリ
立川の携帯がなる。携帯を覗き込むと山口中央病院と出ている。立川の得意先になっている大きな病院である。ずいぶん前に、大口の病院と契約が取れたと言っていたのを思い出す。私が店を任されるようになってからだ。あれから昼でも夜でも関係なく立川の携帯は鳴り、お互いさらに忙しくなっていったのだ。
短い電話を終え、大きなため息を吐くと立川はまた家を後にした。
私は恐怖で声が出なかった。もし殺し損っているなら、それが立川に知られているなら、明日私は殺されるかもしれない。
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