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WEDNESDAY
あの日、夫を殺したはずだった。
台風が近づき天気予報は当てにならずパラパラと雨が降り始めては止んだりを繰り返した。更に風も吹き、時折差している傘が誰かに引っ張られるような感覚だった。
私が仕事を終え店を出ると、すぐそこに立川が立っていた。
「お疲れさま」
どこか嬉しそうな穏やかな表情をしていた。
「店の前で待たないでって言ったでしょ」
「君と食事だなんて、久しぶりでつい」
「友達がオーガニック食品を使ったレストランを出したから、顔を出しておきたいだけよ。ウチの店の客でもあるんだから」
「仕事熱心だな。店を任されてから帰りも遅いし、ちゃんと食べてる?」
それは仕事終わりにオーナーとヨロシクやっているからよ。とは言えるはずもない。最近では家に帰らず店の近くにあるマンスリーマンションで寝泊まりをしている。もちろんオーナーの借りた部屋である。オーナーと来ても良かったのだが、流石に結婚式に呼んだ友人のプレオープンに不倫相手は連れて行けない。
「僕の今日の格好はおかしくないかい?」
こうしてレストランへ電車で向かうだけなのにまるで遠足に行くみたいに立川は久々の外食を年甲斐もなく喜んだ。
表参道の大通りは雨は強くなっており、駅を出てタクシーで店に向かうものの出来たばかりの新店舗のため場所がいまいちわからず、仕方なく近くの通りで降りた。
「っんもう!看板とか出てないのかしら」
少なくなった街灯と雨で反射する道路。招待状に書いてある地図を頼りに周りを見渡す。傘が並び、車がなんとか二台すれ違えるくらいの通りにイタリアンや中華、カフェなどがガラス越しに並んでいる。その上にはオフィスやセレクトショップ、空き物件など主に3階建ビルが空を埋めていた。風向きが変わるたびに様々な調味料の匂いがする。
「またずいぶんとライバル店が多いところに店を出したね」
「居抜きでいい無件があったらしいわ、飲食店が並んでた方が集客にはメリットが大きいのよ」
「僕の奥さんはすぐに腕の立つ女社長になれるね」
「いいから、早く店を探してよ」
「どれどれ、ちょっと地図を見せてごらん」
立川が腕を伸ばすと、立川の黒い傘と私の透明なビニール傘とぶつかった。
「おっと、すまない。僕のほうにおいで、こっちの傘の方が大きいから」
わたしは客の忘れ物だったビニール傘を畳み立川の大きな黒い傘に入った。風が吹いても傘はすっぽりと私を包み微動だにしなかった。見ると立川の肩が傘からはみ出し濡れていた。
「あぁ、ここを左にいくんじゃないかい」
立川が指を差すと私たちは歩き始めた。私は急足で向かうと、彼は車道側を歩き私を歩道側へと誘導した。それは身体で身体を少し押すような言葉にもしないくらい自然な行為だった。立川の反対側の肩がまた濡れていた。傘から出ないように私たちは自然を腕を掴む。当たり前のように、歩く。
これが夫婦なのかな。多額の生命保険をかけられても、離婚話を切り出しても結局はこうやって同じ方向へと歩く。言葉数はどんどん少なくなって、空気みたいに当たり前に一緒にいる。ふとそんな想いがかすめた。
「あぁ、ここだここだ」
立川がビルの二階を指差すと、窓ガラス下に看板を見つけた。
「あった!早く行きましょっ」
雨風が背中を押すように私は階段に足をかけた。
「待って、足元が濡れてるから危な…」
立川はそういうと遠くから小さな悲鳴と衝突音が聞こえた。見ると大きな車が電柱にぶつかっていた。近くにいるOL風の三人組の女性が一人、尻もちをついている。事故かと思い私も足を止める。立川の傘が邪魔をして女性が轢かれたのかどうか見えない。傘を差している通行人が一斉に足を止める。アクセルをふかした重低音が雨音をかき分けて聞こえる。車のライトが上向き反射して影が伸びる。更に路面に反射して眩しい。
「うわ、なんだ!?あれ!?」
立川の焦る声が聞こえた。
傘が下がると電柱にぶつかっていた車が猛スピードでこちらに向かってきた。
二つ目で光る黒い塊、トラックかと思ったその大型車は見覚えのある黒のキャデラックだった。
女性の大きな悲鳴と窓から覗き込むたくさんの視線。雨音。転がる黒い傘。スマホのシャッター音。人の声。水の弾く音。
雨で濡れる路面が血に染まったかまでは、怖くて確認できなかった。
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