FRIDAY

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FRIDAY

 逃げ出そうと躍起になっていたのに、次の日も私はここに居る。  玄関も窓もどこも開かないのだ。鍵も見当たらない。どうやら外から鍵が掛けられていた。いつの間にこんなになったのか。マンションの最上階だというのに、窓も全てだ。  いつ結婚したかも忘れてしまったが数年連れそって立川がここまでする男だとは思わなかった。いつだって立川は自由奔放な私を追いかけてきた人だった。それが心地よくて私は結婚したようなものだ、「一生、私を追いかけてきてね」そんな事を言ったのを覚えている。その時立川は何て言ったのか、もう忘れてしまった。  自由奔放な私の唯一のルール。  客には絶対手を出さないこと。  肉体的な関係を絶対持たないこと。 これを破ったのは夫、立川和人だけだった。  彼は美容院というより昔からある理容室に行っていた客だった。初めて私の店に来たことを私は覚えていない。私が担当ではなかったからだ。印象にも薄い人だった。指名の多かった私は二ヶ月以上前に予約をしないと担当出来ないと知ると立川は二ヶ月に一度私を指名し髪を切りにきた。指名しても世間話程度で、一時間ほどで終わると「またお願いします」と会釈をして帰っていった。なんとも営業マンらしい律儀な性格だった。  そんな店員と客の立場が変わったのは小さなトラブルだった。その日は特に忙しく立川に許可を貰い、新人にカット前のシャンプーをさせた。  そしてなぜかシャンプーを終えた立川の背中がずぶ濡れになっていたのだ。薄手の水色シャツが紺色に染まっているのが一目で見て取れた。ところが立川はそれを言わずにカットを続けていたものだから驚いた。こちらが気づかなかったらそのまま帰るところだったらしい。私は立川に謝罪し休憩所にもなっているミーティングルームに立川を通し、シャツをドライヤーで乾かしていた。 「申し訳ありません、後ほどクリーニング代をお支払いします」 「いえいえ、濡れただけですから乾けばもう元通りです」 「いけません、すぐに乾かします。お時間大丈夫ですか?」 「手…」 「えっ?」 「ずっとドライヤーに当てて、あなたの手は大丈夫ですか?」  美容師ならば仕方のないことだが、シャンプーなどの水仕事やパーマ液の薬品、手先はガザガザに荒れてしまうことが多い。爪はカラー液で茶色に変色するしマネキュアも出来ない、もちろんアクセサリーも禁止だ。髪や化粧に気を遣えても手ばかりはどうしようない。 「すみません、見苦しくて…」  容姿に自信のあった私だがこの手だけは引け目を感じていた。 「とんでもない。どれだけこのお仕事を立派にされているか伝わります。僕はあなたのその働いている手がとても…好きです」  今まで沢山の男たちから飽きるほどの口説き文句を浴びてきた私だったが、この手を好きだと言った男は初めてだった。初めて過ぎてそれが立川なりのアプローチだったことにも気づかなかったくらいだ。 「こんなおばあちゃんみたいな手、どこがいいんですか」  私は笑い飛ばしながら自分の手を広げた。 「そんなことありません、それはあなた自身です。とても綺麗です」  キョトンとすると、一瞬目が合って、立川は「言ってしまった」と顔を曇らせると、たちまち耳まで真っ赤にさせて手を見つめるようにそっと目を伏せた。ぽつりとまた同じことを言う。 「とても綺麗です」  それから立川はずっと私を追いかけてきた。自由で我儘で自己中でふらっと浮気をする。結婚してもそれは変わらず、何度も私は夫を突き放した。それでも立川は私を手放さなかった。 「その人は、君を幸せにしてくれない」  それが立川のいつもの言葉だった。  口数は少ないけれど、穏やかで怒鳴られた事など一度もない夫に今では監禁され、恨まれている。あの男とは間違いなくオーナーの比佐の事だろう。妻の不倫相手に自分が殺されかけたのだからあの温厚な夫もいよいよ限界まで来たのだ。   私はもう、事をしてしまったのだ。
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