1/1
前へ
/30ページ
次へ

むかしむかしの大むかし、長野の山奥に小さな村があった。 その村は大層水捌けが悪く、畑や田んぼを開いてもすぐ泥沼と成り果てた。 それもしかり、村には九の泉があった。 ただの泉にあらず、恐ろしい魔物が棲む泉じゃ。魔物は地下水脈を経て、ある時は一から二へ、ある時は一から九へ、好きな泉に移り住んだ。 魔物に毒された水などとても飲めたものじゃない、泉は常に濁って井戸にも引けず百姓たちを悩ませた。泉よりむしろ沼に近い。 魔物は村人に生贄を求めた。逆らえば命はない。すべからく村が滅ぶ。 故に村人たちは泣く泣く生贄を捧げた。 無体な事じゃ。とはいえ、他に手はない。 生贄を拒めば魔物が暴れ、九の泉が氾濫する。家々は押し流されて村が滅ぶ。百姓たちがやっとの思いで開いた田畑もだいなしじゃ。 生贄の大半は従順じゃったが、中には逃げ出すものもいた。 しかし逃げきれず、途中で捕まる。女子供の足で峠を越えるのは難しい。村の北には日見ずのお山が聳えている。 捕まった生贄は牢に囚われた。 その牢にも魔物がおる。魔物がくる。村の掟を破った罰、魔物を欺いた罰として、裏切り者の生贄は生きたまま肉を貪り喰われたんじゃ。 生かさず殺さず内側から食われ続けるうち、生贄の体が変化をきたした。魔物と交わった娘の腹が膨れ、仔を産んだ。その子は人の形をしとらんかった。 目もない、耳もない、口もない。 呪われた牢で生まれた異形の仔。 それからというもの魔物は味をしめ、次々生贄を孕ませた。食べるよりもっと気持ちいい事があると知ってしまったんじゃ。 哀れな生贄たちが牢で産み落とした異形の仔は、魔物の眷属として迎えられた。 そこまでされても村人たちは黙っていた。逆らえば九の泉が氾濫し、村が滅ぶ。生き延びたければ自分の妻や子を捧げなければいけない。 やがて誰彼ともなく言い出した。 九の泉は冥府に通じ、ひとたび氾濫したら最後、魑魅魍魎があまねくことごとくあふれでると。 ある日のこと、旅の僧侶が通りかかった。 村の窮状を察した僧侶は魔物退治に名乗りを上げ、九の泉をぐぅるり巡ったそうな。 僧侶が有難いお経を唱え、錫杖の先で水面を突くと、たちまち冥府への道は塞がれた。泉の水はあっというまに枯れ果て、魔物は逃げる。最後の泉はお山の中にあった。 いよいよ追い詰められた魔物に、僧侶はある条件を出した。 「最後の泉だけは塞がず残しておく。今まで働いた無体の分、村に尽くすがよい」 魔物は承諾し、己の眷属を村に遣わせた。 目も耳も口もないが、あいのこたちは畑を耕すのに長けていた。 あいのこたちは賢い。 村人たちが命じた場所に命じた分だけ実りをもたらす。 あいのこたちは大きくも小さくもなりよく働く。片親は人間なのだから当たり前よの。嘘かまことか年を経ると人に化けることもできたらしいが、その際も横縞の節が残るのがご愛敬じゃな。 どんな飢饉の年も日水村だけは関係なく豊作が続く。全部有難いお坊様の神通力のおかげなんじゃ。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

152人が本棚に入れています
本棚に追加