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「はーい、右手にある川は大学のそばまで続いています。暗いから水面見えないけど、元々きれいではないです」
時折実況の言葉を混ぜながら、杏子は動画を撮って道を進んでいた。
杏子はTシャツにデニムのパンツ、キャップ帽というカジュアルな格好をしている。キャップ帽は、おしゃれ小物として大学一年生のときに買って以来全く使っていないものだった。
大学一年生のときは張り切っていた。キャンパスライフ、一人暮らし、サークル、飲み会などの言葉ひとつひとつに夢を持っていた。
「この動画、どうするんだろう」
撮りながら本音が出てくる。夏の夜の記録として動画を回していたが、意味があるかは本人もわからなかった。
「とりあえず、たい焼き探します。川の向こう側にコンビニあるのでそっち行きます。……あー、やっぱりこのまま川沿いに進んだ奥のコンビニのほうがいいかも。品揃え多いから」
しばらく沈黙のまま、真っ暗な道をスマホで映しながら歩く。
画面の中も周りの景色も真っ暗で、人通りもほとんどない。このままただ歩くだけではつまらない。
走ろう、あのときみたいに。
杏子はアキレス腱を伸ばすと、スマホを持ったまま走り始めた。
◇◇
家を抜け出すことに成功した杏子は、興奮でうずうずしていた。
制服姿ではないからぱっと見では中学生ということはわからないし、帽子のおかげで顔も隠せている。面倒なしがらみから解放された気がして、杏子は小さく鼻歌を歌いながらケータイで月を撮った。それほど綺麗に写らなくても満足だった。
蒸し暑さがなくて、セミの声もちょうどよくて、月がきれいな夏の夜。いつも大人ばかりが楽しんでいる夜の外の世界に、自分もいることが嬉しかった。
月が光っている方角へとひたすら歩き続ける。
やかましい足音がして振り返った杏子は露骨に顔をしかめ、迷わず前へ走り出した。
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