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杏子は二十円引きのシールが貼られたわさびおにぎりを買ってコンビニを出た。袋代をケチったため、おにぎりは棚にあった状態のまま手に持っている。
中三のあの夜は、嫌いなものであるはずのたい焼きをおいしく食べられた。後日もう一度たい焼きを食べたが、そのときはあんこの甘味で気分が悪くなった。あの夜に魔法のような力があったとしか思えない。
杏子はわさびも苦手だった。大人になれば食べられると思っていたら、食べられないまま二十代になってしまった。
嫌いなものがおいしくなるという、あの夜と同じ現象が起こるなら今回はこのわさびおにぎりが食べられるはずだ。
おにぎりの袋の端をちぎる。スマホの存在を思い出し、インカメラに切り替えて動画の撮影を始めた。
暗い中、おにぎりと杏子の顔がスマホの画面におさまる。わさびを前にした杏子の片頬は引きつっていた。
「はい、わさびおにぎりです。歩きながら、撮りながらでお行儀は悪いですが食べてみます」
杏子は勢いのままにおにぎりをかじる。わさびのツンとした辛さが広がり、目にしみる。辛さに慣れるのを待ったがいつまで経っても慣れず、飲み込んだときには両目に涙がたまっていた。
「かっら!」
率直で素直な感想が飛び出す。食べ物を無駄にしたくないのとずっと食べかけを持っているのも邪魔になるので、涙を流しながらなんとか食べきった。おいしいとは全く思えない。
自動販売機で緑茶を買い、一気に半分ほど飲み干す。
「はい、えー、失敗です。わさびおにぎり、おいしいとは思えませんでした。あの現象はたい焼き限定なのでしょうか」
自分の顔を写したまま話す。おかしくなってきて、少し笑った。
この夏の夜の雰囲気は、あのときと変わらない。でも、食べ物の挑戦は失敗した。わくわく感は同じだったけど昔ほど走れなくなった。ガラケーからスマホになった。キャップ帽を被っていたことは同じ。
中学三年生のときと、今の大学三年生のとき。変わったことも変わらないこともある。
それを実感できたのだから、今日はやはりいい夏の夜だ。
この動画はどうしよう。自分だけのものにするか、それともあの人には見せちゃおうか。ちょっと最近気になってて、ちょっと変わったものが好きなあの人に。
「アウトカメラに戻します。もうちょっと歩きますね」
杏子は月が光る方角に進む。スマホを上へ傾けると、画面の中央で満ちかけの月が輝いた。
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