はじまりの朝

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はじまりの朝

 朝が来た。  きっかり六時に目覚めて、あたしはうーんと伸びをした。夢のかけらが頭の中にかすかに残っている。あれはなんだったっけ。夢の中で、大切な誰かと花のかんむりを作っていた。その顔はぼやけて思い出せない。ここのところ同じような夢を続けて見ている。それも一か月!  一か月も続くと、オカルトの類を信じていないあたしでも気になる。  鏡を見た。黒髪に青みがかった大きな瞳。太陽を浴びた小麦色の肌。うん、いつものあたし。水咲千夏(みずさきちなつ)翡翠(ひすい)が丘中学に通う中学一年生だ。手櫛で髪を整えると、適当なパーカーと短パンを羽織った。  友達の一人はおしゃれさんなのだけど、あたしにとって、服はおしゃれさではなく、いかに身体を動かしやすいかに価値がある。 「よし!」  鏡の前でくるりと回ると、あたしは部屋の扉を開けた。階段を下った先の長い廊下はヒノキで作られていて、足を踏み出すたびにぎしぎしときしむ。突き当りの角を左に曲がると、食堂がある。朝ごはんを食べに来たのだ。  食堂には煮炊きのにおいが漂っている。いいにおいだ。食堂近くのキッチンが併設されていて、あたしのおばあちゃんがコンロの火加減を調節している。 焼き色のよくついた鮭が皿に並べられているのを見る。  おいしそう! お腹が鳴る。  おばあちゃんがくすくす笑う。 「正直な挨拶だね」 「だっておばあちゃんの料理がおいしいんだもん」  あたしは迷いなく言い返した。炊飯器から茶碗に自分の分をよそい、冷蔵庫から牛乳を取ってマグカップに注ぐ。たくあんと、温泉卵が入った小鉢におばあちゃんがよそった味噌汁がそろえば、あたしの朝食の完成だ。 「いただきます」  手を合わせると、とがめられない程度にがっつき、平らげていく。  おばあちゃんは、あたしの食べっぷりをにこにこと笑って見守っていた  あたしのおばあちゃんは、水咲陽子(みずさきようこ)。まっすぐに伸びた背中。てきぱきと物事を執り行うしっかり者だ。  あとはもう一人、あたしのおじいちゃんがいるのだが、今朝はいない。  獲れたてのお魚を買い付けに、朝市へと出かけている。  朝市は水鏡島では数日おきに開催される。魚介類を買い付けるのはおじいちゃんの役目で、朝食は一緒にいないことが多い。 「お客様は十一時に港に着くそうだよ。千夏、迎えに行っておくれ」 「もちろん!」  東京からのお客様らしい。  あたしは鮭を頬張る。生まれも育ちも水鏡島産のあたしにとって、本土、とりわけ東京は未知数だ。テレビの中の世界でしかない。 「お客様は二人とも、東京の大学生という話だよ」 「へ~すごい!」  違う世界の住人みたいだ。 「ごちそうさま」  あたしは食べ終わって、手を合わせる。お皿をキッチンのはしに置くと、早足で洗面所に向かった。  おばあちゃんが苦笑した。 「おやおや。まだ時間があるし、ゆっくりしていればいいのに」  あたしはわくわくする気持ちを抑えきれずに、ばっと振り向いた。 「だってお客様が来るんでしょう! じっとなんてしてらんないよ!」  水鏡島は今日も快晴だ。  朝の青い大気の中、あたしはうーんと伸びをした。  ここは四国地方の南部に位置する、人口五千人の小規模な島。陸路も橋も本土と繋がっておらず、船でしか行けない島。  龍が棲んでいるという伝説もある。  見渡すかぎりの青い海、白くてどこまでも続く砂浜、そして鏡のように透き通る湖。  湖の名前は水鏡湖。島の名前の由来だ。水が綺麗すぎて、湖の底も見通せる。  ちなみに、魚はいない。  幼なじみの秀人(しゅうと)は、『魚心あれば水心というけれど、水鏡湖の場合は水が冷たすぎて、魚が愛想をつかして逃げちまったんだろうな』と言っていた。 「千夏じゃん」  おっと、うわさをすれば前方から本人がやってきた。中学校指定の青いジャージを着て、自転車に乗っている。  秀人は自転車から降りると、あたしの横に並んで歩き始めた。学校まで一緒に行こう。  瀬名(せな)秀人。翡翠が丘中学の一年生。仏頂面でいることが多く、整った顔立ちが半減されている。そのぶん不意に笑うギャップが大きくて、女子の間ではファンクラブが作られているらしい。  水鏡島には中学校は一つしかなくて、あたしと秀人は同じ学校に通っている。  クラスは別だけど。  秀人は七宝(しっぽう)神社という、でっかい神社の一人息子だ。将来は跡を継いで神主になることが決まっている。七宝神社では季節の節目ごとに神事や行事が行われ、後を継ぐ秀人もその手伝いに駆り出されていて、忙しくしていることが多い。  陸上部でもあり、成績もよい。いわゆる文武両道だ。 「ジャージ姿ってことは、部活?」 「そ。朝練」  秀人は走り幅跳びを得意としている。他の陸上競技に助っ人で駆り出されることもある。万能型なのだ。 「毎度朝早いね」 「今日は太陽が完全に昇る前に練習は終わるから、そこはラッキーだな。千夏こそ朝っぱらに外をぶらついているってことは、さてはお客さんが来る?」 「ビンゴ」  秀人はお客様が来るときに、あたしが朝っぱらから外に繰り出すと知っている。 「何人?」 「大学生二人だよ。東京からやって来るって」 「大学生。東京ねえ」  秀人は鼻を鳴らした。 「なーんでわざわざ、この小さな島にやってくるんだか」 「ちょっと、そんな言い方はないでしょう! 水鏡島には魅力がたっくさんあるんだから! 水鏡湖に、コバルトブルーの海、新鮮な魚介類、蒼花(あおばな)とかたくさん! それに龍にまつわる伝説もある! あんたんとこの神社だって、観光スポットの一つなんだからね!」 「あーわかった。わかったから」  秀人は自転車を引いたまま、耳をふさぐという器用な真似をした。  生まれ育ったこの島が好きなあまり、ついつい熱く語ってしまうことがある。オタクの友達がいう、『語りすぎて我に返る』とはこのことだろうか。 「どのくらいの滞在?」 「一週間だって」 「まあ、それぐらいなら影響は少ないか……」  秀人がぼそりと、何かをつぶやく。あたしは聞き取れずに、聞き返した。 「え?」 「こっちの話。その客が七宝神社に興味を持ったら、教えろよ。案内するから」  えらく協力的だ。秀人はこれまで、お客様に興味を持つことはなかったのに。むしろ接するのを面倒くさがっていた節がある。 「それはありがたいけど、どういう風の吹き回し?」  秀人はしばらく答えなかった。横から吹き抜ける風があたしたちの前髪をさらう。  ざざざざ。押し寄せる波の音が大きい。四方を海で囲まれている水鏡島では、波の音が聞こえないところは少ない。  いつのまにか、あたしたちは中学校の前に着いていた。秀人が校門の前で足を止める。 「嫌な予感がする」 「嫌な予感?」  学校に行くときに、何か忘れ物をしたようで、気になって仕方がない感覚とか? 「そんなんじゃ……そうなのかもな」  秀人は熟考している。 「これまで目を背けてきたことを、つきつけられる予感がする」 「? よく分からないよ」  秀人はたまに大人のように難しいことを言う。 「とにかく、気をつけろよ。俺の勘は外れたことがないから」 「うん」 「それじゃあ」 「うん。そっちもね」  そんな忠告を残して、秀人は自転車を引いて、駐輪場へ去っていった。  このときのあたしは知るよしもなかった。十三年の人生のなかで体験したことのないノーミツな一週間が待っていることを。いくつもの出会いと、経験を。  この夏のことは、大人になっても忘れない。
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