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可否茶館
大津宿からは、中山道を進む。
二日目は、草津宿までの十五キロ。
三日目は、武佐宿までの二十一キロ。
四日目は、高宮宿までの十八キロ。
五日目は、醒井宿までの十五キロ。
六日目は、関ケ原宿までの十三キロ。
出発から五時間程。明るい時間帯に関ケ原宿で足を止める。いつもは夕刻過ぎまで街道を歩き続ける。宿泊するため、旅籠に入るのんは、暗なってから。
女中さんが、旅籠と違う建物に入る。何の店かわからへんさかい、入口の上に掲げられとる、看板を見上げる。
『可否茶館』て書かれとる。
色茶屋やろうか。端的に言うたら、女性の接客に重きを置いとる、水商売するための店。胡桃を看板娘にするため、連れて来たちゅうとこやろう。
高額で胡桃を買うたんやさかい、ただ勉強だけしとったらええとは思てへん。置屋に住んどったときも、修行と勉学を両立しとった。今までと変わらん生活が続くだけやさかい、問題あらへん。
女中さんの後を追い、店内に入る。女中さんは躊躇のう、奥へ行ってもうた。奥へ行けるのんは、関係者だけやさかい、胡桃はその場で足を止め、戻ってくるのを待つことにする。
営業開始前なのやろうか。誰もおらへん。入ってすぐの卓上で、これ見よがしと存在感を主張する書置き。女中さんも気付いとったはずやのに、読もうとも、胡桃に渡そうともしいひんかった。
違和感あるときは、警戒すべきや。勝手に読むべき物ちゃう。気になってまうさかい、視界に入れへんよう、目ぇ背ける。
店に入ったときから、鼻を突いてくる、焦げたような臭いが気になる。女中さんは気にしてへんかったさかい、毒ちゃうのか。それとも耐性あるんか――警戒せなあかんこと多い。
「珈琲、飲みますか?」
奥から戻った女中さんに尋ねられる。
こおひぃってなんやろうか。看板に書いたある『可否』のことやろうか。聞いたことあらへん。
「どないな飲み物なん?」
「明治時代初頭には、まだ普及していませんでしたか。苦味や酸味がある、大人の飲み物です。お子様には、まだ早いかもしれないですね。飲めなくても、恥じることはありません」
なんで『明治時代初頭』なんて言い回しするんやろうか。時代は、場所によって変わるわけやあらへん。飲まな、もっと煽られるの目に見えてるさかい、答えは決まってる。
「飲ませとぉくれやす」
「砂糖は入れますか?」
甘葛煎でさえ、口に出来る機会滅多にあらへんのに、高価な砂糖なんて要求出来ひん。
「そないな貴重な物、入れられへん」
「ではブラックですね」
「それでおたのもうします」
卓上に置かれた、墨のように漆黒の液体から、湯気が立ち昇る。見たことあらへん容器に入ってるさかい、飲み方の作法わからへん。
「お作法を教えとぉくれやす」
「取っ手を、片手の指でそっと持ち、カップを口元へ運びます」
実際に持って見せてくれはった。鼻に近付けた器から漂うとる湯気は、店内に充満しとる、鼻を刺激する臭いがする。
(この液体、飲んでも平気なんやろうか……)
口に含んだ途端、口内いっぱいに広がる強烈な苦味。女中さんがじっと見つめとるさかい、後には引けへん。口内にある液体を、ごくりと飲み込む――痺れや異常が起きる思うたけど、なんも起きひん。意識もはっきりしとる。
板挟んだ向こう側で、女中さんもおんなじ液体飲んどるのに、けろっとしとる――毒ちゃうんか? もう一口だけ挑戦してみる。
「やっぱし、苦おて飲めへん」
「砂糖とミルクを入れると、飲みやすくなりますよ」
今度は入れるか尋ねたわけやなしに、漆黒の液体の中に、四角うて白い固形物と真っ白な液体を入れ、手際良うかき混ぜる。茶色う変色した液体を、改めて眼前に差し出される。
完全に苦味のうなったわけちゃうけど、飲みやすぅなっとる。
「珈琲は豆や挽き具合、淹れ方で酸味や苦味、コクや香りが変わります。美味しいと感じる珈琲は、人によって異なります」
別の器で改めて差し出された漆黒の液体。黒いのは『苦おて飲めへん』て伝えたばっかりやえ。
「こら、飲めしまへん」
「先程の珈琲とは違いますから、騙されたと思って飲んでみてください」
身請けされた胡桃に、拒む権利はあらへん。言われるがまま、液体を口に含む――ええ意味で、予想を裏切られた。
「さっき飲んだのと全然ちゃう。なんも入れてへんのに、口当たり優しくて、まろやかやえ」
「今飲んでもらった二杯は、全く同じ豆を使っているの。挽き方が違うこと以外は全く同じ物よ。もてなす相手をよく観察し、その時々の体調や気分に合わせ、最高の一杯を淹れることが『可否茶館』のコンセプトなのよ」
今までは〝ですます調〟だった語尾が、急に『なのよ』になったことに違和感を抱く。おそらく、女中さんの素の口調。
『可否茶館』は女中さんが誇りを持って客をもてなしとる場所――生き生きと楽しそうに話す姿を見て確信した。
非礼を悔い、最大限の礼を尽くしお辞儀する。
「ここ入ったとき色茶屋や思てもうて、女中さんの誇りを穢してまいました。かんにんえ……」
「そういうの、馬鹿正直と言うんですよ。言わなければ、無かったことに出来たのに」
「うちは京都花街で、芸妓さんなるため修行しとった。結果としては、舞妓ちゃんなることも出来ひん半端者になってもうたけど、誇り持って修行しとったつもりや。もしも、うちがそれ侮辱されたら、悲しなるさかい、ちゃんと詫びさせとぉくれやす」
応答あらへん。おでこ床につけとるさかい、見ることは出来ひんけど、罰考えてるんやとはわかるえ。そやから応答あるまで、おつむを上げへんで待つ。
カタカタと、聞いたことあらへん小刻みな音が響き始める。仕置きするための下準備やろう。
「明治六年に芸妓規則が制定され、届出して鑑札を受ければ誰でも芸者になれるようになった……か。胡桃ちゃんの実力は折り紙付き。半玉は玉代が半分になるからそう呼ばれているだけ。それなら敢えて安売りする必要ないわね。可否茶館が閉店した、明治二十五年以降は空いてる。待合茶屋にして、場所は……新橋あたりに繋げれば、芸者を続けさせてあげられそうね」
カタカタ音と、会話しとるかのような独り言を垂れ流す女中さん。
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