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プロローグ
「今日もお疲れ様でした」
壁に向かって一人頭を下げる。
松崎夢乃、二十五歳。名前とはうらはらに、
なんとか生きるがモットーのリアリストだ。
「松崎さん、彼氏いないの?」
この手の類いは慣れっこな夢乃は、いません、とにっこり微笑む。
現実主義者の夢乃は、仕事をして、一人で生活ができる平凡なOLだ。普通と平均を『意識して』愛している、という方が正しいかもしれない。
そんな彼女が唯一夢を見ているのは、今、目の前にいる男だけだ。
「高瀬くん、ただいま」
壁に掛けられているのは、大きさ二十センチほどの、少年マンガの複製原画だった。
「ああ高瀬くん……今日もカッコイイ……」
"高瀬くん"こと、野球漫画『闘魂』のキャラクターに向かって、夢乃は手を合わせる。
"高瀬くん"を拝むのが、普通を好む彼女の変わった日課だった。
高瀬直人。高校三年生、強豪野球部の副キャプテン。
ホームラン王と呼ばれるほどの打率を誇る、俊足ショート。その実力ゆえドラフト確実との噂だ。もちろん、公式の設定で、だが。
そんな夢乃の、至って普通の日常が、突如一変する。
「一度でいいから、会いたいなあ」
何気なく呟いた。
いつもは拝むだけで癒されるし、推しとどうこうなりたいなど、畏れ多いと一歩引いている。
神様と付き合いたいと思うだろうか? つまりそういうことだ。自分にとって高瀬はその立ち位置にいた。
だがその日は仕事でほとほとに疲れていて、ついうっかりこぼしてしまったのである。その瞬間、壁が強く光った。
(え、何!?)
ライトの故障……いや、そんな次元の光ではない。目がチカチカするほどの中、壁がぐにゃりと歪む。そして、夢乃は絶句した。指を差しながら床に尻もちをつく。痛さなど感じなかった。だってそこには、
「た、た、た、」
(高瀬くん!?)
そう。そこには夢乃の神様こと……高瀬直人がいたのだ。
二次元のみに存在する、高校球児なのに長い焦げ茶色の髪。これまた仕組みのわからない、目元だけが開いた鼻先までの前髪。ハーフのような金色の瞳を不安そうに揺らして、高瀬くんが言った。
「誰? ってかここどこ、ですか?」
(圧倒的顔面美! 顔面最強すぎでは?!)
頭の中が文字で埋め尽くされていく。机を拳で叩きたいほどの萌えに、夢乃は頭を抱えた。
(って、悶えている場合じゃない!)
夢乃はしばらく男を見つめた後、自分の服装を省みた。
高瀬くんにいつか会うことができたら、彼の好きなリボンをつけるって決めていたのに、現実は、上下別のパジャマである。
(夢なのに、なんで可愛い服装じゃないの……!)
先ほどとは別の意味で頭を抱えた。
百面相を続ける夢乃に、高瀬くんはついに困り顔から怪訝な顔へと変えた。
「お姉さん、大丈夫?」
「あ、あの……」
打ったお尻が猛烈に痛いのだが夢に違いない。それか死んだかだ。
「大丈夫?」
高瀬くんが、訝しげに、けれど地の人の良さが隠しきれない心配の声で問う。
そして腰をぬかしたままの夢乃に、手を差し伸べた。
(な、なんたる幸福……!)
この手を握るまで絶対に目を覚まさないぞ!
と固く誓う一方で、仕事を頑張ってよかったと感涙しながらその手を取る。そして、近所迷惑さながらに叫んだ。
「えええええええええええ!!」
(なんで? なんで感覚があるの?)
高瀬くんのマメだらけの手のひらが刺さって痛い。上から下まで見渡すが彼は透けてなどいないし、お腹辺りをグーで押してみると通り抜けもしなかった。
「え? なんで俺殴られてんの?!」
綺麗な上がり眉を下げて、高瀬くんが困惑する。
「えっと……高瀬直人くん、ですよね?」
「俺の事知ってるんですか?」
「青葉高校の、野球部の?」
「詳しいっすね」
目がなくなるほどのくしゃっとした笑顔で高瀬くんが頭をかく。原作で何度も見た顔だ。
周りを見渡す。こちらは、現実で何度も見た自分の部屋だ。
(間違いない。これは、三次元。そして、本物)
またも腰をぬかしそうになった。世界の反転どころではない。次元を超えた。しかも二次創作でよく見る『ヒロイントリップもの』ではない。
(高瀬くんが、次元を超えた……?)
自覚した瞬間、手を握ったままなことに気がついて、夢乃はその場で気を失った。
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