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飛行士のおじいさんがくれた小瓶の中身は、何の変哲もないただの砂だった。こっそり天文台の地質分析器で調べたのだから間違いない。
ただ、この星の砂ではないとの結果が出た。
「こんばんは、アストロンさん」
「やぁジュリエ」
白、赤、青の星が散りばめられた空の下、約束通りアストロンは待っていた。
昨晩と違って、金色の襟巻を身に着けている。夏とはいえ、夜風は老人の体を冷やすのだろう。
アストロンの隣に腰掛けようとフェンスに手をかけた途端、勝手に体が浮かび上がった。自分だけでなく他人にも飛行術をかけられる人は、おそらく教官の中にもいない。
「さて、今夜は『うぬぼれ屋の星』が一等輝いているから、あの星に住む男の話をしてあげようね」
「アストロンさん、星を旅したことがあるのですか!?」
「もちろんだとも。彼は当時、あの星にひとりきりでいてね……」
胸の隙間にしまっている小瓶のことを訊こうとしている間に、「うぬぼれ屋の星」の話は完結してしまった。やっと言いだそうかと思うと、今度は「1日が1分で終わる星」の話が始まる。
「ボクが見た中でも間違いなく最小の星だったね。3歩も行けば、その星を一周できちゃうんだから」
アストロンは時々こちらの様子をうかがっては、「何か訊きたいことはあるかい?」と尋ねてきた。
「じゃあ――」
アストロンはどこから来たのか。どうやって星と星を旅していたのか。どんなものを見たのか、もっと知りたい。もっと、もっと――。
息継ぐ間も惜しんで問い続けていると、ひんやりとした指先が頬に触れた。
「え、何……?」
「ねぇジュリエ。キミは本当に星が好きなんだね。今度はキミの話を聞かせてよ。キミがどこから来て、どうやって生きてきたのか。あっ、国家試験とかの話は抜きでね」
まだこちらの質問に答えていないではないか――といった抗議は、アストロンの柔らかい微笑みに流されてしまった。
そうだ。「また明日」の約束を、今度はこちらから取り付けよう。
「キミはボクが昔世話をしていた花みたいだなぁ」
星の降る夜にできた友人は、突然こんなことを言いだした。
「花? 私が? どんな花だったんですか?」
屋上で2人きりのお喋り会も、もう何夜目になるだろう。
それでも、アストロンの思考回路はまったく読めない。
「うん、何だか放っておけない花でね。強がりなんだ」
「強がり?」
アストロンほどの飛行士ともなれば、花と会話できるのかもしれない。
わざわざ訊かなくても、アストロンの滑らかな口は花との思い出を語りだした。
「ある日彼女とちょっとしたいざこざがあってさ。子どもだったボクは、自分の故郷から出ていったんだ」
「家出ですか?」
「うん。そんなところ。それで離れた時にようやく、その花が大切だってことに気づいたんだよ」
アストロンの寂しげな横顔に、村で待つ家族の面影が重なった。
確かに、傍にいた時は何とも思っていなかったけれど。今こうして村を離れていると、無性に会いたくなる時がある。
「気づかせてくれた星は青と緑が美しいところでね。今は少し赤茶っぽいけれど、昔はもっとキレイだったんだ。その星の話、聞きたいかい?」
「聞きたい! あっ……聞かせてください」
すると、しわしわの無邪気な笑顔が音もなく咲いた。
「うん! 実はキミにあげた砂、その星から持ってきたんだけどね――」
飛行訓練が上手くいかない日も、同期に心無い言葉を浴びせられた日も、この笑顔に触れるだけで自分の目標を見失わないで済む。
「ところでさ、ボクと一緒に飛ぶ準備は順調かい?」
油断していた心臓がドキリと脈打った。
なぜ今訊くのか――。
しかしアストロンにそんな文句を言ったところで、どうにもならない。彼が一度質問を始めたら、こちらが答えるまで終わらないのだから。
「だから何度も言ったじゃないですか。私まだ仮免だし、船がないとひとりでも飛べないレベルなのに。あなたと一緒に飛ぶなんてむ――」
「どうして?」
いくつか前の夜、同じことを話したばかりだというのに。
前回は何とか言いくるめられたが、今回はそうさせてはくれないらしい。
「キミは星が好きだっていうのに、飛行術の話となると急に星から目を逸らすんだ。それで他の人がどうとか、スキルがどうとか、そういう話ばかりしたがるんだよ」
飴色の真っすぐな目に見つめられ、言葉が出てこなくなった。
アストロンには、説教をしようなんて気はないのだろう。ただ純粋に、友人として忠告している。そんな目だった。
「だっ、だって実際に私の魔力は弱いし……教官ですら生身のまま誰かを飛ばすことだってできないのに、私にできるわけないもの」
「『できるわけない』、ねぇ」
アストロンの曇りない瞳から、ふいっと視線を逸らす。
ちっぽけなプライドは、「でも」と言い返すのを止めない。
「実際そうなんだから……もうこの話はしないでください」
「うん。星間飛行士とか飛行術とかの話をすると、キミの輝きが鈍るからね、ボクもできるだけしたくなかったんだけれども。そろそろ進捗を聞かないといけなくて」
じわり、と額に汗が滲んだ。
アストロンの軽快な声が、しだいに熱を失っていく。
「ボク、明晩にはこの星を発つんだ」
「え……」
七夜目だ。アストロンと初めてここで話をしてから、もうそれくらい経つ。
この星空のお喋り会が、秋も冬も、ずっと続くと思っていた。
「そんな、せっかくお友達になれたのに!」
「キミがボクをそんな風に思ってくれていたのなら、それ以上に嬉しいことはないよ――でも行かないと」
どうしたら、もっとアストロンと話ができるのだろう。「行かない」と言ってくれるのだろう。
「まだ、一緒に飛べてないのに」
そう口走って、ふと気づいた。
「できていない」のではなく「していない」。
どうせまた失敗する、他の人の方が上手くできる――ずっとそういう言い訳を続けてきたせいだ。
「星を旅するのに必要なことって何だと思う? って、最初に訊いたね」
「え……?」
「それが答えだよ」
星が旋回する濃紺の空に、アストロンの白い体が溶けていった。「また明日ね」、と切ない響きを残して。
寮の固いベッドに横たわったまま、砂の小瓶を傾けてみた。水晶を砕いたような砂の粒が、月光を反射して白く輝いている。
「きれい……」
「願掛け」と言っていたが、この異星の砂には魔力でもこもっているのだろうか。そんな感じはしないが。
アストロンのふわりとした笑顔が頭に浮かぶと、ふと砂に触れてみたくなった。コルクを開けたら砂がこぼれて減ってしまうかもしれない。そうしたらアストロンは悲しむだろうか。貴重な砂が無くなったら、どうやって責任を取れば――。
「あ」
なんてことはない。取りに行けばいいのだ。アストロンが話してくれた、緑の美しい星に。
行ってみたい――。
「うぬぼれ屋の星」、「1日が1分で終わる星」、それから一輪の花が咲くというアストロンの故郷にも。
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