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 旅立ちの夜。  アストロンはいつもの白マントに金色襟巻で待っていた。屋上のフェンスに腰掛け、静かな微笑みを浮かべている。 「アストロン……私、分かりました。星を旅するのに必要なこと」  瞬きひとつせずにアストロンを見つめると、彼は小さく頷いた。 「今の私は()()を持っているから、あなたと一緒に飛ぶことだってできるはずです」  アストロンは口を噤んだまま、広い手のひらを差し出してくる。  節くれ立った指先に触れた瞬間、乾いていたはずの額に冷たい汗が噴き出した。 「アストロン……!?」    魔力が流れていない。今アストロンの体に流れている魔力は、休眠状態になっている――つまり彼は、完全にこちらへ身を任せる気らしい。 「知ってると思いますけど、ここ山の上ですよ? 下はただの崖だし、もしダメだったら2人揃って死――」 「大丈夫」  また、あの目だ。 「大丈夫だよ」    こちらを真っ直ぐに捉えて離さない飴色の目が、一点の曇りもなく輝いている。ためらっている場合ではないと教えてくれる。  深く息を吸い、吐き、ずっと目の前にあったアストロンの手をしっかり握った。そのままフェンスの上に引っ張られ、いつもと同じ笑みを浮かべている彼の横に並ぶ。 「じゃあ……飛びます」    足の震えが止まると同時に、フェンスを強く蹴った。繋いだ手の熱を感じたまま、体が傾く。  飛べる――。  生暖かい夜風が、目を開けていられないほどの暴風に変わっていく。  飛ぶんだ――。  耳を貫く轟音と、鼻を抜ける空気の塊に呼吸が乱される。起伏の激しい岩肌が下に見えてきた。それでも――。   「絶対、飛んでやる……!」  かすかに強張った手を、ぎゅっと握り返す。はためく白マントの隙間から、アストロンの大きく見開かれた瞳が見えた。 「アストロンに――私が、着いていく、んだから!」 「ジュリエ――」    アストロンに名前を呼ばれたその時。  すべてが凪いだ。  風が、引力が――落下が止まったのだ。 「あ……アストロン……私……」  浮いている。  船にも乗らず、アストロンの力も借りず、自分の力だけで。  しかしアストロンの喜ぶ顔を見る前に、体の芯がぐらりと傾いた。「ひゃっ」と悲鳴を上げると同時に、アストロンの体が下に落ちていく。 「アストロン!」  とっさに手を伸ばし、掴めたのは金色の襟巻だった。 「アストロン! 早く飛んで!」 「だめ、だ……く、首が……」  マズイことに、アストロンの意識が飛びかけている。このままではアストロンの首が絞まってしまうが、手を離せば飛行術を発動する前に落ちてしまうかもしれない。 「アストロン……!」  一か八か。自分の飛行術を解いた。  地面に着くまで、まだ数百メートルはある。その間にもう一度飛行術を発動させて、アストロンを受け止めることができれば――。   「なんで!?」    飛べ、飛べ、飛べ――!  何度唱えても、先ほどと同じ感覚はやってこない。そのうちに胸の辺りが熱くなり始めた。焼けるように熱い。 「え――」    胸元にしまっていた小瓶が震え、コルクの蓋が弾け飛んだ。濃紺の空を背景に、光を帯びた砂が散らばる。  光の粒はしだいに輝きを増し、何も見えなくなってしまった。 「あれ……?」    手は確かに繋いである。ただ、アストロンが軽い。飛行術を発動できたのだろうか。  やがて目くらましの光が収まると、白マントの腕がすぐそこにあると気づいた。 「ふぅー、危なかったねぇ」  真上から降りかかるのは聞き覚えのある声――のはずだが、どこか少し違う。ふと声の方を見上げると、見知らぬ青年と目が合った。いつの間にか抱えられている。  夜のヴェールの中でもひと際輝く金髪に、飴色の瞳――誰かに似ている。 「……どなた、ですか?」 「ははっ、とぼけちゃって。ボクだよ」  それは良く知っている笑顔だった。この1週間、日々を生きる気力をくれたあの笑顔だ。 「アストロン……?」 「ギリギリまで見守ろうと思ったんだけど、もう良いかなってね。あのままだと、キミの言う通り2人とも無事じゃなかっただろうし」  大丈夫って、保険があるからって意味だったのか――。  胸の間に挟まったままの小瓶をチラッと見、悔し混じりのため息を吐いた。 「アストロン、その姿はどうしたんですか……?」 「あぁこれかい? 年寄りの腕だと、いきなりキミを抱えたら骨が折れちゃうと思ってね」  変身術だとしたら、どちらが本当のアストロンなのだろうか――。  しかしアストロンが老人か青年かなど、元の屋上へ戻る間にどうでもよくなってしまった。  そんなことより、もっと大事なことがある。 「ねぇアストロン、見てましたよね? 私、船なしで飛べました!」  フェンスの内側に降ろしてもらうなり、マントを掴んでアストロンを見上げる。 「アストロンのことまでは飛ばせなかったけど、ひとりで飛べたんです! これからは船がなくったって、私どこまでも行けちゃうんですよ!」    アストロンは飴色の目を見開いた後、少し泣きそうな笑顔で答えてくれた。 「あぁ、そうさ。キミは自分を信じることができたんだ」    保険がかかってはいたが、飛べたことは事実だ。  何度も「現実のことですよね?」、と確かめるうちに、薄っすら光を帯びた手のひらが目の前に差し出された。 「私も連れていってくれるの?」  アストロンは静かに目を伏せただけだった。  先の言葉を急かすように手を取ると、温かい腕に全身を包まれる。 「キミはこの星々の中にいる、何十何万という少女のひとりだ……でもね、ボクにとって『キミ』はひとりだけなんだよ。ひとつだけの星なんだ。だからキミがどこにいようと、ボクはいつだって探し出せる」  口の中に広がる苦い味のせいで、アストロンの言葉を遮ることができなかった。 「キミにとっても『ボク』がそうだと嬉しいなぁ。そうしたら、ボクがどこの星にいたって探しに来られるだろう? キミは星間飛行士なんだから」  アストロンは、名残を惜しむ間もなく離れていった。  勝手に引き留めようと伸びる腕を抑え、ゆっくりと夜空へ昇る星を仰ぐ。 「アストロン! 本免に受かってもっとうまく飛べるようになったら、きっと会いに行きます。あなたがどこにいたって、私絶対に見つけますから!」  星々の隙間に吸い込まれるようにして、私の金色の星は旅立っていった。 ーEndー
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