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「これ、こすったら消えないかなぁ……」
やっとのことでクリアした、最難関の国家試験――星間飛行士。免許取得からもう数か月が経つというのに、免許証からはまだ「カッコ仮」の表記が消えていない。
せっかく今夜は天文台の屋上を独り占めしているというのに。清涼な星空を眺めていると、昼間会った同期たちの顔が浮かんでくる。
『ジュリエさん、まだ仮免なんですって? その程度でよくここに就職できたわねぇ』
『アタシが貴女より上手く飛べる? 当然よ。真っすぐ飛べない三流とは、魔力の質が違うもの』
嫌味めいた甲高い声が、頭の中に取り憑いて離れない。振り切ろうとすると、生暖かい夜風が目にしみる。
泣くな、泣くな――。
そう自分に言い聞かせるうちに、紺碧の空を流れる白い星々がぐにゃりと歪みだした。
もっと星に近づけば、少しは心も晴れるだろうか。
フェンスに飛び上り、手すりに足をかける。
「危ない!」
どこからか湧き上がった若い男の声に、体が大きく揺れた。
「へっ――?」
はずみで、手すりから靴裏がずり落ちる。全身の血管が一瞬にして開いたような感覚の後、お馴染みの重力がのしかかってきた。
ただし今は船に乗っていない。完全に生身だ。
ウソ――。
まだ仮免なのに。
ここで――。
まだ、星に近づけていないのに。
死ぬ――?
走馬灯劇場の開幕直前になってようやく気づいた。
「落ちて、ない……?」
体が浮いている。体が浮いて、屋上よりも高い夜空を泳いでいる。ふと気配を感じて顔を上げると、暗闇の中でも分かる真っ白なヒゲに薄手のマントを羽織ったおじいさんが浮いていた。
「飛行術の練習中だったならごめんよ。でもキミ、泣いているみたいだったから」
おじいさんはこちらの動きと連動して、宙にふわふわ漂っている。優しい飴色の瞳に見つめられると、激しく打っていた心臓が緩やかになっていった。
「おじいちゃん、飛行士、なのです……?」
それも船なしに空を飛んでいる。間違いなく凄腕だ。
「飛行士? それよりも、星がポルカを踊る夜にお嬢さんはどうしたのかな? この年寄りに話してごらんよ」
おじいさんは話を始める前に、宙ぶらりんだった足を天文台の屋上へと降ろしてくれた。「ボクのことはアストロンと呼んでおくれ」、と自己紹介を添えながら。
「私はジュリエです。その、情けないお話しですが……」
ちっぽけなプライドを押し込め、隣のアストロンを振り返った。飴色の目にすべてを見透かされそうな気がして、やっぱり前に向き直る。
「今年天文台へ入所したんですけどね、もう夏になるっていうのに全然うまくいかなくて」
村一の秀才ともてはやされながら、星間飛行士の登竜門を突破したのが昨年の冬。そして意気揚々と天文台に足を踏み入れたのが、今年の春。
しかし――今期の本免試験は全敗だった。
「同期はみんな本免卒業して、調査の準備してるのに。私だけまだ仮免だから、星外に出ることができなくて……って、飛行士のアストロンさんなら制度のことは知っていますよね」
「いいや、初耳だねぇ。『星間飛行士』? しばらく寄り付かない間にそんな職業ができていたのかぁ」
アストロンはこの国の人間ではないのだろうか。隣の天才飛行士は、とぼける様子もなく何度も首を捻っている。
「で? どうしてキミはこの星を出たいの?」
夜空の輝きよりも一層透明な目に見つめられて、思わず視線を逸らしてしまった。
「別にどうしてってことは……」
「ふむ! そうなんだね。どうしてこの星を出たいの?」
流した質問を、アストロンは当たり前のように繰り返した。
もうヒゲも真っ白なおじいさんだというのに、しつこいところは村にいる8歳の弟とよく似ている。
「……『星間旅行記』って知っていますか? いくつもの星をひとりで旅した人の手記なんですけど。それを読むうちに、自分も他の星を見てみたいって思うようになりまして」
星間飛行士になれば、星を渡るための船が与えられる。もちろん国の調査任務付きだけれども。
そう伝えると、アストロンはすっかり黙ってしまった。意を決して話したというのに。
「昔のボクだったら、一刻も早くキミの前から消えたいって思っただろうなぁ」
「え?」
「おっと」
今、不穏なセリフが漏れた気がする。しかしこちらに考える暇を与えさせないかのように、アストロンはにっこり微笑んだ。
「あのさ、星を旅するのに必要なことって何だと思う?」
「何って魔力ですよね? でないと船を動かせませんし……あ、免許証もないと」
アストロンの眉根がきゅっと寄ったのを見る限り、彼が求めていた答えとは違うらしい。
その証拠に、「本当に必要なことって何だと思う?」、と繰り返してきた。
「簡単だよ。もっと目に見えないことさ」
やっぱり、アストロンは透き通った目で人を見る。彼が尋ねたことなら、何でも答えなければならない気がするほどに。
「分からない……です。周りに後れを取るような私じゃ、何も」
自分の言ったことに、再び目の奥が熱くなる。
諦めたくないのに――。
これから上手くいく光景よりも、明日またバカにされる光景の方が目に浮かぶ。
「キミが飛行士の卵だっていうのなら、いつかボクと一緒に飛んでみておくれよ」
「え! でも私まだ仮免だし、船がないと飛べないし……」
「そんなの無理」と訴える前に、アストロンは夜空へと足を踏み出した。振り返った彼の手がぼうっと光り、何かがこちらに向かって飛んでくる。
「小瓶?」
中に詰まっているものは粒子の細かい砂のようで、淡く白い光を放っていた。
「それは願掛けさ。じゃあ、また明日ここでね」
純白のマントが月に溶けるように、アストロンの姿は夜空へと消えていった。
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