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「ゆるさない」
知らない女に刺された。
金曜の夜。そろそろ友人が来るというときにチャイムが鳴ったので、無防備にアパートの玄関を開けたら、女が両手で包丁を握っていた。僕と同じ二十代くらいか。長い髪は乱れ、包丁など使わずとも眼力だけで殺せそうな、恐ろしい形相だった。
だが致命傷となったのは間違いなく、腹に深く刺さったこの包丁だろう。えっ誰、何、と思った瞬間にはもう体重をかけて押し込まれていた。そして低くドスの利いた声で「ゆるさない」と言われたのだった。僕は今、土間と室内廊下の境目で仰向けに倒れ、天井を眺めている。
怖い。
刺されたことでも死ぬことでもなく、自分が怖かった。僕は殺意を抱かれるほどの悪行を働いていたのか。しかも自覚ナシとは、ある意味最低じゃないか。
死んだ後、被害者として僕の本名と、誰もが犯人に同情するエピソードが同時に報道されるかもしれない。世間から「あぁ殺されても仕方ないやつだったんだ」と思われるのかな。
その頃には僕の意識は無だ、どうでもいいじゃないか……と自分に言い聞かせてみるが、そう簡単に割り切れるものでもない。自分が何をしでかしたかだけでも思い出そう。「僕は殺されても仕方ないやつだったんだ」と納得したい。
知らない女に恨みを買う行為……記憶にない。
そもそも本当に知らない女だったのか。鬼の形相に見覚えがなかっただけで、実は身近な人物だったのでは?
仮に知り合いだったとして、やはり思い当たることがない。女遊びしたことも、誰かをイジメたことも、金をゆすったことも、寝坊以外で約束を破ったこともない。わりと真面目に生きてきたはずだ。僕はいったい何をし
そこで僕の意識は一瞬途切れた。
そしてすぐ復活した。
えっ、なんだ?
空から町を見下ろす視点に切り替わっていた。都会とも田舎とも言えない、アパートやスーパーや学校などの低い建物が並ぶ僕の生活圏を見渡す。
えっ、死んだ?
死んでも意識があるだと……?
僕は正直、あまり生に執着がなかった。仕事にやりがいもなく、趣味もなく、元カノと別れてだいぶ経つ。たまに友人と宅飲みするくらい。あとは暇を持て余して毎晩もふもふアニマル動画を眺めているような人間だった。
だからだろう、死ぬと思っても走馬灯も見なかった。この世に未練などなかった。刺されるまでは。
いてもいなくても変わらない人間と思われても僕は構わない。正しい評価だからだ。でも殺されても仕方ない人間だと思われるのは、ちょっと今のところ納得いかない。僕が消滅しないのは、なぜ刺されたかわからないという心残りのせいか。
となると、真相を確かめて納得するまで、僕はずっとさまよい続けることになる。それは嫌だ。
とりあえず地上に下りてみた。すいすいと思い通りに移動できる。そういや体というものがない。視覚と聴覚だけがある。
まず何をする? あの女を探してみようか。顔をよく見て、どこかで会ったことがないか考えよう。
あ、僕にとっては一瞬だったけど、死んで意識が空へワープするのにタイムラグはあるのかな。数年後だったりしないよな? 死んで即ワープなら、まだ女は僕のアパート付近にいるかもしれない。行ってみよう。すいすい。
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