香りのいわれ

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香りのいわれ

「じゃ、俺、もう行くわ」 「おう」  大学の食堂。一緒に昼飯を食ってた奴が席を立って手持ち無沙汰になった俺は、世の若者の倣え通りスマホを取り出した。  そんな俺のプライベートエリアに影が生まれたかと思った直後、例の、絆に纏わりつく香水が鼻をかすめて、勢い影の主に視線を振り上げる。 「理学の山登くんだろ?」  メガネをかけた背の高いインテリ風の男だった。  薄い唇の端を、かすかな笑みに持ち上げる。  心臓が、バクバクと己を主張し始めた。  ───こいつだと、確信する。  俺をムカかつかせてやまない匂いの元。  絆の───オトコ。 「いつも絆が世話になってるみたいで」  は!? ふざけんなっ!  勝手に俺の横の椅子に腰を下ろすって行為に文句を言えなかったのは、口を開いたら、そう怒鳴ってしまいそうだったからに他ならない。  絆を所有してるかのような態度へ発露されなかった怒りが、痛みとなってこめかみを走った。  扁桃体がアドレナリンを出してるのが、手に取るようにわかる体の変調。  もし今バイタルとってる最中だったら、面白いほどの数値変動がみられたろう。 「絆ってさ、アレの後、妙にさばけてない?」  アレの後ってのが何を指すのか。  ベッドに横たわる絆の姿が。瞳を潤ませた表情が。  グルグルグルグルグルグルグル。  頭の中で回る。  こいつはその全てを知ってる?  俺の、知らない、俺が、得られない、俺が───ああ、くそっ!!  脳はその思考にとらわれて体への指令を送ることができないのか、誰何を問うために口をあけることさえできなかった。 「はは。ビンゴ。やっぱり君かぁ」  俺の目をのぞきこんで、愉快だといわんばかりに眼鏡の奥の目じりを下げる男。  どこか清澄に似てると思ったのは、後から考えれば脳がパニくってたからかもしれないけど、その時は確かにそんな思いがちらついて、余計に俺を委縮させたと思う。 「僕だけじゃないってのは知ってたけどね」  俺の言葉が返されることがないのにも特に気にする様子でもなく、男は手にしたコーヒーの紙カップの中身をグルグルと回した。  グルグルしてるのは、俺。  じゃあ、あの紙コップは、俺か。  絆の体を這った手が、俺を混乱させてる。 「だから絆との時は意図的に香水つけてみたんだけど、気づいてくれた?……ほら、女がこっそり男のシャツに口紅つけとくみたいな、さ」  言ってから男は、クククと小さな笑いをもらした。 「それじゃまるで僕が浮気相手だな。今の例え、ナシにしてもらえる?」 「何の……話だ……」  なんとか絞り出した声は、のどが圧迫されてるみたいに、無残に掠れたものだった。 「またまたー。君は、スパイにはなれないな。顔に出過ぎる」 「……なる予定もないんでね」 「はは。僕は来月から海外留学するんだ。ついてこないかと聞いてみたら、バカじゃないかって鼻であしらわれたよ。ま、予想どうりだったけど、ダメ元って言葉があるからね、一応。」  そりゃそうだ。  おまえなんかただのセフレだ。  一緒に妹の所に行ったこともないだろ?  だっておまえには体にしか、需要がないから。  心は……心は……。  キレそうな感情の紐を、なんとか結び直すような心の作業。  空しくない?いや、大丈夫。空しくない。  こいつは、快感を得るためのだけに絆に利用された、大人の玩具だ。 「絆は最高だったんだけどね。普段なんでもない時のキスは平気なのに、いざ行為の最中にしようとしたら嫌がるだろ? あの時の絆がたまらなく色っぽくて、たまらなく嗜虐心をそそるんだ」  男の手の中、規則的な速度で飛沫を散らすこともなくお行儀よく回されたままのグルグルに、新たに加わったのは、過去の、記憶。 『キスは…や…だ…』  トイレの中。  ギシギシと軋む音。  濡れた擦過音。  漏れた喘ぎ声。 「なんで嫌がるのか聞いたら、気持良すぎて死ぬからって。怖い、だってさ。知ってた?」  知るわけがない。  知るわけがないんだ。  俺は、セフレじゃないから。  だから……だから……。  自分の持てる精一杯の矜持で、心をなだらかにしようと足掻く。  俺は、絆の、大切な────何か。  何かって、何だ? 「まったくね。そんなエロ可愛い絆を独り占めにできなかったどころか、君にはヤキモチ焼かされっぱなしだったよ。こないだのキスマークは、挑戦状か何かのつもりだったわけ?」  俺は、知らない。  知るわけがない。  俺は、セフレじゃ……ない、から。  だから。  それは、俺じゃない。  あんたを嫉妬させたのは、別の、奴だよ。  俺は……。  ただの……友達。 「その夜は煽られて」  されど。  友達。  大事な……だろ? 「盛り上がったけどね」  俺には知らないことばかり。  けど、俺にも言えることがある。  絆は、オトコの趣味が悪いってことだ。
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