コーヒー豆

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 近頃お互い忙しい日が続いて絆の部屋に来ることそのものが久しぶりだったから、近所にコンビニができてたことも知らなかった。  部屋にあがる前に朝飯を買いこもうと、地下駐車場を出てコンビニへ向かう。 「便利な冷蔵庫件食堂を手に入れたじゃないか。いよいよ自炊と無縁になるな」 「うん。もうちょい向こうに牛丼屋できたから楽勝」    中にチョコレートの入った菓子パンを選び、それなのにココアを飲み物としてチョイスする姿。  見慣れてるといえ、深酒のあとの朝早くには視覚的にヘビーで、思わず苦笑とともに心の中が漏れた。 「お子様か」  そんな俺の手の中のサンドウィッチとコーヒーを目にした絆は、むぅと口をとがらせる。 「ふん。コーヒー飲めなくても選挙権はあるんだよ」  つんとそっぽを向いて、その視線の中に納まったプリンを吟味し始めたのには、まあ、自分の胸を押さえたわ。  再び駐車場に寄って車から布団を回収し、部屋にあがる。  ソファーの下にペタンと座り込んだ絆はガラステーブルの上に甘いものシリーズを広げてから、笑顔で菓子パンに噛みついた。 「うまぁ」  なんていうかね。  二十歳にもなった男に向ける言葉じゃないとは思うわ。  けども。  ───可愛い。  見てるだけで胸がいっぱいだ。  いろんな意味で。 「あ、そうだ!レンジの中にさぁ、昨日チンしたパスタ入れっぱだったわ。食えると思う?」 「んぁ?」  言われてキッチンに行けば、レンジの横に冷凍パスタの外パッケージと、中にはトレーに入ったパスタがあって、透明フィルムの内側には結露がついていた。 「まあ、夏じゃないからいけんだろ。つか、なんでこんな途中……」  そこまで言って思い至った。  リビングに視線を向ければ、すっかり菓子パンを食い終えようって勢いの絆。 「これ、夕べのお前の晩飯?」 「ああ?それ?ああ。まあ、忘れてたんだ」  違うだろ。  絆は家事が得意じゃない。  わかってるからこそ、放置しない。  そんで、普段あんな勢いのある食い方はしない。  ああ。もう。やば……。  レンジのガラスに映った自分の顔があんまりにもだらしなくて、慌てて唇を噛んだ。  だって。  俺を、探しに……飛び出したってことだよ?  飯も食わないで、さ。  わけのわからない、酔っ払いを探しに。  あの電話が、香水野郎の行動を確認するためのもんだったとしても、だ、  そして俺を、探し当てたって。  そのことがさ。  嬉しくないわけは、ないんだ。 「もっかいチンするぞ?」 「んー。……なぁ」 「ん?」 「研究室。エロ講師ってDDSメインの研究室、だろ」 「……そ」  DDS……ドラッグデリバリーシステム。  薬をいかにして効率よく、副作用なく、ダイレクトに届けられるか。  なんでそこを選びたかったか。  それはまあ、美人が多いってのもあったけど……。  要は単純。  少しでも絆との距離を、離したくなかったから。  学校でも、仕事でも。  絆が薬の道に進むことを決めたのだとしたら、俺はそれに少しでも沿いたかった。 「MRになればいいのに。そんでさ、俺を接待して」 「既にそんなようなもんじゃねえか」 「はあ? 昨夜の今朝でよく言えたな」 「すみません」  もしも絆が俺のだけのもんになってくれるなら、俺は下僕にでもなるのに。 「粉チーズあったろ? かける?」 「んー?……あったかなぁ…」  俺の問いかけに、メロンパンに夢中になってる絆の応えは、かなり適当なもんだ。 「なんだよ。甘いものにはとことん執着するくせに」    そんなことをぼやいてみても、実際のとこは溢れ出る庇護欲に我ながら呆れた。 「ちょっと待て絆。メロンパンで腹を満たすな」  ささいな自己満足。  野菜の欠片でもあれば、せめてサラダなりスープなりでもと思って冷蔵庫を開けたのが、失敗だった。 「……」  そこにあったガラスの真空保存の瓶に手が止まる。  だってそれはこの家の主が絶対口にしないものだったから。  透明のガラスの中身は半分になっていて、でもその8分目まではその黒茶けた跡を残して、使用してんだってことを俺に知らしめる。  これはいったい、誰のもの?  百歩譲ってこれが絆自身が消費しているものなのなら、俺がコンビニで手にしたときに何か言ったはずだ。  なら……。  やっぱりコーヒーってもんは苦さが勝るらしい。  口にしてないのに。  胸に苦さが広がるんだから。  絆の家の中で、初めて感じる第三者の影に。  同級生に言い寄られてから、絆は人を家に呼ぶのを避けるようになった。  だから。  このマンションに、他者の影なんかカケラもなかったのに。 「絆」 「んんー?」  素直にメロンパンを机に戻し、その代わりとばかりにプリンを掬ったと思われるスプーンを咥える絆の至福の笑顔。  変わらない、もの。  でも。  変わらないその笑顔は。  そして、縋る手は。瞳は。心は。  いつか誰かのものになって。  そして俺は、今願ってやまないものを、手に入れるのか? 「……プリンも後な」  それは───違う。  違うんだよ、絆。
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