オッサンのカフェオレ

1/1

214人が本棚に入れています
本棚に追加
/216ページ

オッサンのカフェオレ

 姉ちゃんに車を返さないといけないからと筬川の家を辞して帰路に就く途中、暗かった街はすっかり輪郭を浮かび上がらせていた。  なんやかんや神経が興奮してるんだろう。  5人目のオトコ───ヤマシナキョウジュ。  まさかの聖職者の登場に、俺の男同士の初エッチの感慨なんて、全くどっかにいってしまった。  普段なら寝ずのセックスの後の朝は気だるく、ただひたすら太陽から逃れて布団に潜り込みたい心境に駆られるとこだけど、今日はどうにも眠れる気がしない。  車を家に置いてからもなんとなく落ち着かなくて、いっそ朝食用のパンでも買いに行こうかと思い立った。  コンビニじゃなくて、ちゃんとした焼きたてのパンを売ってるベーカリーは少し離れた場所にあるから、まだ開店には早い時間だけど、歩いていけばいい感じの時間になるだろう。  車から降りると、キリッとした冷たい空気に肺が一瞬怯んで、上着の前をぐっとかき寄せる。  夜のものとは明らかに違う清廉さ。  普段見慣れてるはずの景色が薄青いフィルターにかけられてるみたいに、なんとなく違って映る。  通りに出ても車通りは少なく、シャッターを閉めた店が並んでるのを見ると、妙に寂しい気持ちになった。  絆は今、教授の腕の中で眠ってるんだろうか。  あの長いまつげを伏せて、赤い唇の隙間から寝息をこぼして……。  俺ならいいのに。  温かいベッドの中で、その体を抱き締めて眠る存在が。  俺なら。  でも、大切な大切な筈のオトモダチの俺は、身を切るような朝の空気に自分の溜息を白く吐きだして。  それで冷たい指先を、少しでも温めようなんてこと、してるんだ。  空しくて、両手をポケットに突っ込む。  そして、手を温めるってフェイクを失って吐きだした息は完全な溜息で、腹の底からこぼした溜息は思いのほかでかくて、軒並みシャッターの閉まった店の前、一軒の喫茶店から腰までの看板を出してたオッサンと目があってしまった。  おっさんはすぐに目をそらすと、このクソ寒いなか、店の名前の入った看板を水洗いし始めた。   年季の入ったウッド調の、小さな喫茶店。  それはカフェなんていう洒落た雰囲気ではなくて、出てきたおっさんだって、どっちかっていうとラーメン屋の頑固おやじって感じだった。  家の近所といえば近所だけど、基本的にカフェはアンリママのとこ通ってたし、昨今喫茶店なんて学生が踏み込むような場所でもない。  疎外感が身に染みてた俺はよっぽど人恋しかったのかな?  気がつけば普段なら絶対入らないような店なのに、つい声をかけていた。 「開いてます?」 「ああ…どうぞ」  おっさんはひょっとしたら店主の家族かなんかなのかもしれない。  だって、あんまりにも愛想もそっけもない。  バイト先で俺がこんな態度をとってたらきっと店長からケツを蹴られるだろう。  けど、すっかり中の開店準備は整ってると思われるテーブル席が3つと6人がけのカウンターの小さな店内、はね上げ式のカウンターの向こうに入ったおっさんが、手を洗い始めた。 「何にする?」 「……えと…ああ、じゃあ、カフェオレと、サンドイッチ…」  雰囲気にのまれつつ、ちょっと慌ててカウンター上のパウチされた写真付きメニューをみながら注文する。  なんとなくそのままカウンター席に腰を下ろした俺に、おっさんはぶっきらぼうに水のコップを置いた。 「うちはサンドイッチなんてやってねえよ」 「え?」  まあ、みれば確かにホットサンドって書いてある。  いや、でも、敢えて訂正しなくても伝わるだろ、そこは。それしかないんだからさ。 「ああ、すんません。それで。ホットサンドの、これで」  おっさんはそれに対しての応えはよこさず、ただ手際よく用意を始めた。  うーわ。  なんか超きまずいんだけど……。  早すぎたから怒ってんの?まあ、確かに店の中も上着いるほど寒いし。 「……ひょっとしてまだ開店前でした?」 「いや。うちは5時30からやってるよ」  もう6時前だから、確かに営業時間ではある。 「……はや…」 「自分こそ早いな。朝帰りか?」 「……まあ…そ、すね」 「そりゃ元気なこった」 「はは」  ガリガリと豆を轢く音が聞こえたかと思ったら、一気にコーヒーの香りが広がった。  5人目のオトコの香り。  胸の辺りが軋んで、息苦しくて、曲げた親指の背で、胸を叩く。 「手で轢くんすね」  胸の痛みをごまかすみたいに、ミルのハンドルを回すおっさんに声をかけてみた。  「ああ」  その理由とか言ってくれるかとも思ったけど、おっさんは特に言葉を継ぐでもなく、作業を進める。  ……まじかよ。  キャッチボール苦手なタイプ?  店入るの早まったかなぁと思ったけど、そうこうするうちに目の前で繰り広げられる科学実験みたいな光景に目を奪われた。  フラスコとアルコールランプ?  おっさんの無骨な手が布とガラスと炎を操る。  「おお。すげぇ」 「兄ちゃんみたいな若いのには、サイフォンはめずらしいか」 「原理としては知ってるけど、コーヒーのこういう状態の見たのは初めてっす」  アンリママんとこはネルドリップだし、ファミレスのコーヒーはボタンで出てくる。 「おおー」  フラスコの中の気泡とか、アルコールランプの青い光とか、それを待つ時間とか。なんか、超絶癒しだろ。  ミルクパンでミルク暖める傍らでホットサンドの用意しつつ、その合間に木のヘラで器用に粉を撹拌するおっさん。  注文してから出されるまでには、現代日本人の感性からいったら”遅い”ってことになるんだろうけど、一連の流れる動作に、すっかり夢中になってた。  そして、店舗同様年季の入った木のカウンターの上、取っ手のないカフェオレボールに注がれた優しい茶色の液体を口に含んだ瞬間、俺は今まで偽物を口にしてたんだなぁ…なんてことを思ってしまった。  ごめん、アンリママ。  澄んだコーヒーの苦みと、自然な牛乳の甘さ。そしてそれをひきたてるような、最適な温度。  自然と声が漏れる。 「うま……」 「そうか。そりゃよかった」  さっさと後片づけを始めるおっさんだったけど、俺の素直な賛辞に、かすかなりとも気を良くしたんだろうってのは、空気で伝わってきた。  そしたらなんか、俺の心も少しまた軽くなる。 「早起きは、三文の得って、マジっすね」  や、まあ、寝てないけど……。  すっかり冷え切った心と体に、沁み込むカフェオレ。 「嫌なことあったんすけど、なんか、ちょっとマシになりました」  おっさんは俺の言葉に一瞬手を止め、また動き出す。 「生きてりゃ嫌なことなんて、まだまだこれからもあるさ。ゆっくりいきゃいいんだよ。コーヒーもそうだろ。手間かけりゃ美味くなる。本気でやってりゃあ、どんな結果でも、いつかいい思い出になるさ」  無骨なおっさんの無骨な言葉。 「なりますかね」 「年とりゃ過去はみんな思い出だ。いいか悪いかは、兄ちゃん次第ってこった」 「マスターは?」 「俺か?んなもん忘れたよ。還暦過ぎた辺りから、物忘れがひどくてな」 「なんだ、それ」  俺の3倍は生きてるおっさんとのこのやりとりを俺が一生忘れないだろうって思ったけど、実際その後も一期一会って言葉を聞くたび、このおっさんとの会話を思い出すことになる。  そしてそれに付随する太陽も。  店を出た時には朝日が顔を出していて、川の小さな波紋に宝石のような光を散らすのを町と町をつなぐ橋の上から眺めたこと。  そんなプリズムを見て、思いだした絆の言葉も。  ”太陽は平等じゃない”  でも、やっぱり───。  クソみたいな個々の人生とか、状況とか、そんなんと比べたらやっぱ太陽は平等で、それは受け取る側の問題で。  夜明けは来るって。  多分、そういうことだ。  
/216ページ

最初のコメントを投稿しよう!

214人が本棚に入れています
本棚に追加