賞味期限

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賞味期限

「久しぶりアンリさん」 「ちょっと見ない間にまた背伸びた?」 「アンリさんが縮んだんじゃないの」 「もうっ」  テーブルを拭いていたアンリママが、怒ったように笑って俺の脇に肘打ちする振りをした。 「変わんないね。相変わらず美人だし。夜中に行灯の油舐めてんじゃないの?」 「年寄り扱いの次は妖怪?お宅の躾はどうなってるのかしら。何にしましょうか?」 「コーヒー。ブラックで」  笑いながらカウンターに向かったアンリママが、俺の注文に足を止め、振り返った。  俺がブラックを頼むのは、これで二度目だ。 「十年を前にして、終わりにするから。記念の自棄コーヒー」 「……山登ちゃん……」 「泣いちゃうから、優しさも抜きでよろしくね」 「頑張ったね。お疲れ様」 「あー…もう、ほら。優しさ抜きって今言ったとこなのにっ」 「うん。とっときに苦いの、入れてあげるから」 「ん」 「うん」 「…もう。なんで俺よりも、アンリさんが泣きそうにしてんの?」 「ちが…これは」 「俺、大丈夫だよ。もう、折り合いつけてるし。抱っこしてたのは、ちゃんと、相手の男に渡してきたから」 「…うん」 「前なり、横なり、とにかく歩き出してるから。ありがとう。アンリさん」 「も。やめてよ。そんなの」 「はは。年とったら涙脆くなるってほんとなんだ」 「うるさいのっ」  俺は、大丈夫。  言い聞かせてれは、きっと、そうなるから。       「タバコ……って…まずいよな」  太陽の光が薄いカーテンを軽々と通過して明るく染める室内に、溜息とともに煙を吐き出す。 「なら、吸うのやめてもらえる?」  口の中を痺れさすような不快な渋みに顔を顰める俺の指から、ひきむしられるようにして細く頼りない紙の筒が消えた。 「水田くん。ケチな男はモテナイヨー」 「文句言われてまでやるタバコはないのっ」   夕べは学部の新年会で、二次会とばかりに有志で小森のアパートに雪崩れ込んだ。  家主の小森を含む後の3人はまだ夢の中。  寝がえりをうった酒井の足が俺の足の上に乗っかるのにイラっとして、ほとんど蹴るように押しやったが、一向に起きる気配はなかった。 「あー、山登、そのサンドイッチとって」  深酒に少々声を嗄らした水田が顎で示したのは、その途中で立ち寄ったコンビニの袋だ。  酔えなかった新年会。  こんなに物足りない年末年始は、初めてだった。  足りない。  そりゃそうだ。  恒例の何かがなくなるのは、それが何だって、さみしいもんだろ。  例えばずっと仲良くしてた友達から急に連絡がこなくなったり。  例えばずっと年末年始を共に過ごしてた友達が、離れていったり。  そんなもん、誰だって、寂しいに決まってる。  日常と非日常。  間逆だけど。   でも、非日常だって続けばそれが、日常になる。  これからの俺の日常は。  今までの非日常。 「水田さん。これ、夜中で消費期限きれてますよ」  なんとなく引きずりだしたサンドイッチの日時は、シンデレラの如く。  水田は咥え煙草に片目を眇め、ああん? と白い紙筒をフラフラ揺らして、また俺の手からひきむしるようにしてパックのサンドイッチを奪っていった。 「チンで腐らないから。11時59分59秒まではOKで、12時になったとたん食えないなんて、んな魔術あるか」 「………まあな」  もう、食っちゃいけませんよ。  なんて言われても。  もう、想っちゃだめだよ。  なんて思っても。  現実は。  まだ食えるし。  忘れることもない。  要は食うか、食わないか。  そして、新しいサンドイッチを買いに行くか。  行かないか。  ずっとそう思ってたけど。 「じゃ、俺、このおにぎり食お」  年が明けて俺は、ちょっと大人になったんだ。 「108円」 「はあ? 水田くん。ケチな男はモテないってば」 「お前に愛想を振る理由はないからな」 「すさんでんなぁ。……ん?」  床がブルルと震える。  震源地に目をむけると、それは俺のスマホへの着信だった。
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