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俺は俺の道を
絆のマンションにたどり着いた頃は、もう太陽が去り際を伝えるような頼りない色をしていた。
ただ、まだ室内灯を点けるような時間じゃないから、窓の外から絆の在室を窺い知ることはできない。
俺は勝手知ったる手順でマンションのエントランスを抜けると、最上階から降りてくるエレベーターの箱を待つ時間すらもどかしく、階段を駆け上がった。
ここにくるまでも頭によぎるのは泣き濡れる絆の姿で、ロクに飯食ってないんじゃないだろうな、とか、また部屋の中グチャグチャにしてんじゃないだろうな、とか、病みついてたらどうしようとか、そんなんばっか。
脳とか、心臓とか、どうにかなりそうだった。
のに。
「……山登?」
ピンポンラッシュの後、拍子抜けするほどあっさりと開かれたドアに、開口一番の言葉は、走って息が乱れてたこともあったにしろ、なんとも間抜けたもんになってしまった。
「ひ…さしぶり」
「あ、……うん」
目の前、部屋着で立つ絆は多少顔色が悪いようではあるけど、寝込んでるわけでも、この世の終わり、みたいな顔をしてるわけじゃなかった。
ただひたすら、ぎこちなく、そこに立ってる。
「何回も電話、かけたけど、出なかったから」
だから、いきなり来て悪かったって言葉を続けようとして、止めた。
形だけだとしても、あの人道に反するような行いをした教授をたてるようなこと、口にしたくなかったから。
内開きのドアに添える手に銀色の輪っかが見えないのに、ツクンと、胸が痛んだ。
こいつは、どんな気持ちを、それを指から外したんだろう……。
冷静なように見えるけど、それこそ俺が味わった……いや、味わってるような苦しみを味わったんだろうと思うと、こっちがまた苦しくなった。
俺、一人分でも十分だってのに。
それでも、絆の心が血を流すくらいなら、俺が変わってやりたいなんて思ってる俺がいるんだ。
「……おまえ…絆…、男の趣味、悪過ぎんだよ……」
清澄然り、教授然り。
絆が心を許した二人からの、手ひどい裏切り。
絆は一瞬だけ、俺の言葉を脳内で反芻するように動きを止め、すぐ緩慢な薄い笑いを浮かべた。
「……あぁ」
かすかに首を横に傾け、俺と目を合わせると、目を細めて泣き笑いみたいな表情で、うん、と頷く。
……ああ、くそっ。
なんで俺にしないかなぁ。
俺なら絶対、二度と離したりしないのに。
絆だけ見て、よそ見したりしないのに。
「うん、じゃねえよ」
俺はこんなにおまえが欲しいのに。
こんなに、おまえを抱きしめたいのに。
それでもなんとか、その想いを振りきるために、新しい道を、踏み出そうと、してるのに。
「あのオッサン、ジークンドーやってねえだろうな」
「……してない」
「は。そりゃ良かった」
「でも、柔道の段持ってる……」
ふふ、と笑う姿に、思わず伸びそうになる手。
「入れよ」
「……ああ…」
───俺は、俺の道を。
そう、決めたろ?
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