1 私は

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「たーくん、何食べたい?」 「今日はトーストが良いなあー」 言葉尻が伸びるのが癖で、おっとりとした印象をよく周りに与えていた。私はトースターに2枚のパンをセットして、タイマーを合わせた。 ジリジリと蝉の声とトースターの機械音が合わさる。エアコンに命を預けている私達は、蝉の声にも暑さを感じなかった。 「僕最近太ってきたかも」 「そう?ちょっと位なら愛嬌になるよ」 「男の子はカッコイイって言われたいものなの。さっちゃんは何も分かってないよ」 私は口角を上げて少し微笑んだ。拓也は朝の読書に集中して、静寂が訪れた。私はこの瞬間が好きだ。無言は気まずさじゃなくて、信頼の証だと知っているから。 トースターが小気味いい音を立てて焼き上がりを知らせた。パンを皿に乗せて、オリーブオイルをかけた。ふんわりと幸せの匂いがした。 「はい。聡子の気まぐれ食パンです」 「食パンに気まぐれ料理があるなんて知らなかったなあ」 自称シェフの私の料理に拓也は舌鼓を打っている。本当に美味しそうに食べてくれる。 「今の日本人って白米よりパンを食べるのかな?」 「そうかもね。今は好きな物を食べていい時代だから」 「恵まれているよね、本当に」 蝉の声が聞こえなくなった。寿命か単に鳴くのを止めたのか。 「小説で知ったんだけど、人って一生の内に大体6億回くらい呼吸をするらしいんだ」 「1呼吸で1円手に入るなら大金持ちだね」 「さっちゃんはお金の話が好きだねえ」 「お金は命より重いのよ?」 「どこぞのギャンブル依存者が言ってそうだ」 蝉の声が再開する。蝉の存在は夏の風物詩だと誰かが言ったが、少なくとも私にとって蝉はうるさいだけの邪魔な存在だった。 「それで?それがどうしたの?」 「ああ、なんか人間って、儚いなって」 「どういう事?」 「感覚的な話になっちゃうんだけど、何でも数値化して事実が分かっちゃうのが、美しくないって最近思ったんだ。奇跡も偶然も確率になって計算されて、情緒が無いなって。世の中には知らなくていい事も沢山あると思うんだ」 拓也は寂しそうな顔をして、私とお揃いのマグカップに入れられた珈琲を口に含んだ。苦そうな顔をしている。砂糖を入れ忘れたのだろう。 「まあ宝くじが当たる確率をテレビで放送してて、夢が無いなって思っただけなんだけどね」 照れ隠しで笑う拓也は、どんな宝石よりも煌めいて見えた。
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