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「祐斗くんももう高校生やろ? そろそろ彼女くらいつくらな。おじさんが高校生の頃なんかな……」
どこの誰だか知らないおじさんが酒気を帯びた状態で武勇伝をつらつらと口にする。祐斗は口の端をひくつかせながら、過去の栄光にすがるハゲおやじのことを白けた目で見つめていた。
台所では家政婦のように忙しなく動き回る女衆。その中にはうんざりした顔でビールとつまみを運ぶ母の姿もあった。母は恨みのこもった目で父を一瞥するが、酒の回った父は愉しげに注がれた日本酒を煽っていた。
祐斗は紙コップに注がれた烏龍茶をちまちま飲みながら、この時間が過ぎるのを待つ。
田舎の小さな集落。
人が集まることを最初から見越したかのような来客用の広い和室は、この町ではわりとどの家の間取りにも組み込まれている。
大人数で酒を交わすことが大好きな男衆たちは、盆に正月、それから昇進祝いや活気祝いなど何かと理由を付けては酒宴を張った。
今日は先日町を興して行われた「ほたる祭り」の打ち上げと称しての飲み会。夏のにおいをかき消す焼酎のにおいに、母たちを奴隷のように扱き使うオヤジたちの意気がった振る舞い。痛々しくて目も当てられない。
四時半から始まり、時刻は既に七時半。お開きどころか、酒が回った男衆は気分がどんどん良くなり、怒号に近い笑い声が家中を包んでいた。
祐斗はうんざりしながら窓の外に目をやる。空の上にあった初夏の太陽はすっかり沈んでしまい、同時に自分の気分も一気に沈んでしまった。今日という一日をムダにしてしまった気がしてならない。
その時、窓の外で砂利を踏む音がした。
横切る姿を追いかけるようにほたるの光がふわりと舞う。
「こんばんは〜」
玄関から聞こえたのは若い女の声だった。開いた襖から見えたのは、ノースリーブの白いトップスに淡いミントグリーンのロングプリーツスカートを身にまとった今時の子。いい意味でその場にそぐわない綺麗なシルエットだった。しばらくぽーっと見つめた後、来るはずのない顔を見て目を丸くした。
「小夏……!」
「あれ祐ちゃん! 来とったんや〜! 久しぶり!」
小夏は父の遠い親戚にあたる久坂部さんの娘で、集まりごとが好きな久坂部さんに連れられ毎年のようにこの酒の席に参加させられていた。しかし県外に進学したことで去年、一昨年は不参加。実に二年ぶりの再会だった。
「お〜! 久しいなあ、こなっちゃん! メイクなんかして色気づいたのう。ちょっと紅濃すぎなんじゃねぇか?」
セクハラに近い野次に小夏は困ったように笑うと、祐斗の隣にちょこんと腰を下ろした。そして祐斗の耳元で「大変だったね」と囁く。この一言だけで全てが報われた気がした。
「それにしても酒くさ。相変わらずやね」
「うん。まじ帰りてぇ……」
小夏はスカスカになったオードブルから唐揚げを一つ取ると、大きな口でほうばった。
そんな小夏を見ながら、目の前の太ったおじさんが大声で話しかける。
「こなっちゃん、大阪の大学はどうなんか」
「普通ですよ〜」
「まあ卒業したらこっちに戻ってこっちの人と結婚せんとな。地元で子育てするのが一番の親孝行なんやけん」
周囲がうんうんと頷くのを見て、おじさんは満悦した表情を浮かべた。この中では比較的若めの太ったおじさんは、周りの共感が得られそうな田舎の教科書を読み上げただけだった。
続けて小夏の父である久坂部さんが口を開いた。
「男はこの町で働くのが安泰やな。祐斗くん、卒業までに溶接の免許は取っとけよ〜 長岡工業はボーナスもええぞ!」
それよりその女みたいな長い髪を切らんかと、真っ赤な顔をした白髪混じりの知らないおじいさんに言われる。この町はずっとこのままなんだろうな、と祐斗は俯瞰した。
小夏も引きつった笑顔で「ははは」と棒読みで笑ってみせる。紙コップの中を見つめる冷ややかな目は、先ほどの自分を見ているようだった。
「お父さんたち、そろそろお酒が切れますよ」
機嫌を窺うようなおばさんのほそい声。小夏と同時に振り向くと窓の外にぽうっと小さな光が二つ舞い、それはすぐに姿を消した。
「ほたる、まだいるんだ」
おばさんの声にも、小夏の呟きにも、男衆は誰も反応しなかった。ほたる祭りの打ち上げというのは本当に飲み会のためだけの理由付けだったのだろう。
「祐ちゃん、ちょっと外の空気吸いに行こ」
祐斗は返事の代わりに紙コップの中の烏龍茶を一気に飲み干すと、小夏と立ち上がった。
「おー、お前らどこ行くんか?」
先ほどの茹でタコじいさんが、訝しげに二人を見る。すると小夏はニッと笑って祐斗の手を引いた。
「デート!!」
ーーー
すっかり暗くなった夜道を、小夏に手を引かれながら駆ける。
「サンダル走りにくー!」
「はっ……はっ、はっ、はえー!」
待ち合わせでよく使う石橋の前で止まると、二人はぜぇぜぇと荒く呼吸をくり返した。しっかりセットされていた小夏の髪は、汗でぺったりと顔に張り付いている。
「抜け出しちゃったね」
「はぁ……どんな顔して戻れば……」
「ていうか祐ちゃんの隣にいたおじさん……竹田さんだっけ? めっちゃハゲたね〜!」
「それ! マジで頭にしか目がいかんで焦った〜」
二人は顔を見合わせてげらげらと笑うと石橋にもたれかかった。石橋の下には小さな川。近隣に住む人々はほたるの時期になると決まってここに足を運ぶ。
夜空には満天の星が散らばっており、時折点滅するほたるがさらに夏の情景を彩っていた。
「この町はあんまり好きやないけど、この町で見るほたるは好き」
「ここでほたる見るたびに言うよな」
「それにうらやましい」
「は? ほたるが?」
「笑うやろ? でもほんとにほたるみたいに生きれたらいいな〜って思うんよ。自分だけの光をまとって自由に舞って……かっこいいわ」
小夏は冗談混じりに言ってみせたが、瞳の奥は真剣だった。
「……私さ、もう大学卒業してもこっちには戻ってこんと思う」
小さく息を吐き出しながら小夏は言った。
「だから祐ちゃんも卒業したら関西においでよ」
祐斗はノースリーブから覗く小夏の白い腕を横目で見つめた。上品に施されたレースの刺繍が小夏の可愛らしさをさらに引き立てている。すると、その視線に気付いた小夏が眉を下げて笑った。
「祐ちゃんもほんとはこういう格好、したいんでしょ?」
小夏の言葉に祐斗は大きく目を見開いた。手のひらと背中にじんわりと汗がにじむ。
「え……」
「祐ちゃんのこと小さい頃から見てたんだよ?」
昔から可愛いもの好きだったもんね、と小夏は笑った。
小夏は気付いていた。もしかすると、周囲の人間も薄々勘付いているかもしれない。
いつからか祐斗は自分の性別に疑問を抱いていた。この町で立派な男にならなくてはという自覚と、可愛いものを身に纏い女らしくいたいという願望。日によって自分の中で変わる男と女の割合に不安を覚え、放課後の情報室で検索をしたウェブページ。そこには自分の性自認が揺れているという「エックスジェンダー」の概要が書かれていた。
記事を読み、腑に落ちた。そして安心した。
それから自分の性別を受け入れようと発起を試みたこともあった。しかしこの狭い集落が作り上げた「男としての在り方」、「女としての在り方」という重圧がそれを決して許してはくれなかった。
小夏は言葉に詰まる祐斗をじっと見つめた。
「私もね、この町にいたら着飾ることさえも出来ない気がして県外に出たの。だから祐ちゃんもこの町のために自分を殺さなくていいんだよ」
そう言って微笑んだ小夏の瞳は、月の光に照らされて美しく揺れていた。それはほたるの光よりも儚くて、綺麗で、涙が零れてしまいそうだった。
祐斗は恋心に似た淡い気持ちを抱きながら、自分も小夏のような自由な光を纏いたい、この人と地図のない未来をどこまでも走り抜けたい……強くそう思った。
祐斗は小夏の手を取ると「気付いてくれてありがとう」と呟く。
「全部の準備が整ったらすぐにでも」
「ふふ、まるで駆け落ちやね」
小夏は祐斗の手を握り返してくすりと微笑む。
二人の決断と未来を祝福するように、ほたるの淡い光がちかちかと夏の夜に咲いていた。
完
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