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プロローグ
あの世というものの存在について、一体どれくらいの人がそれなりに信じているのだろうか。
黒井良樹は自身の前にある二十二インチのモニタで流れている、名も知らぬVチューバーが騒ぎながら廃墟探索をしている映像をぼんやりと眺めつつ考え事をしていた。良樹自身は幽霊や妖怪、オバケといったものに対して、特別な関心がない。仕事でなければ、おそらく一生縁遠い世界だっただろう。
「ねえ黒井君。あなたは学生時代にあまり良い思い出がなかったタイプでしょう」
顔の右側からぬめっとスライドするように覗き込み、山科光恵はそう言って含み笑いをする。眼鏡の奥でいつも何を考えているか分からないこの先輩社員は、暇になるとこうして良樹をからかいにやってくるのだ。
「山科さん。この世には二種類の人間がいるんです。学生時代に戻りたいと思えるくらい明るい虹色の青春を送った側と、もう絶対あの頃には戻りたくないとしか思わないどぶ色の青春時代を送ってしまった側に」
「それでえ、黒井君はどちらの側なのかなあ?」
その質問に答えるのは無視し、良樹は別の動画をマウスで選ぶ。
「それより山科さん。『奇恐月報』の次の特集、どうするんですか。七月号は定番の怪談ものやっちゃったし、後は最近流行りの廃墟ものか、心霊スポット巡りか」
「わたしの学校ね、女子校だったのよ。あ、高校の話ね」
また一人語りが始まった、と内心で溜息をつきながらも「はあ」と相槌を返す。
「ほら、よくあるでしょ。学校の七不思議的なアレ」
光恵はキャスタ付きの椅子を隣に持ってきて腰を下ろし、更にコーヒーの入ったカップまで持参する。五分で終わらせようという気はさらさらないらしい。
「クリスチャン系の学校で、校舎の中に聖堂があったんだけど、それが一つじゃなかったのよ。なんでも改築した時に潰すのもあれだしということで残しちゃったみたいなんだけど、その第二聖堂にはね、マリア像が飾られていて、別に色を塗ったりした訳でもないのに、時々顔が真っ赤に染まっていたの」
「それは流石に誰かの悪戯じゃないんですか」
「そう思うでしょ? 血塗られたマリア像って如何にもだものね。けど、どの生徒に聞いてもそんなことをしていない、というのよ。そこで学校は監視カメラを置いて、事件の犯人を探したわ」
現代は監視カメラという存在により、一定数の不思議が排除されてしまっている、と良樹は思っている。それは技術の進歩としては喜ぶべきことなのだろうが、それによって人類の想像力が生み出してきた様々な超常現象や妖怪といった存在を安易に否定してしまえるかというと、必ずしもそうとは限らない。
良樹はこの奇恐倶楽部という小さな出版社に入ってもう五年になるが、常識の範疇では捉えられない世の中の不思議というのは掘れば掘るほど出てくるもので、人間の文明がいくら進化したところで決して無くならないのではないかと思わされること度々だった。
「それで犯人、映ってたんですか?」
「映ってたからね、問題になったのよ」
光恵はコーヒーを一口飲むと、小さく首を振り、続きを話す。
「犯人、というか、被害者というか。一人は学校の教師だった。もう一人は生徒だった。この生徒は色々と問題行動があって、先生たちからも生徒からも距離を置かれていたわ。わたしも名前を知っているくらいで、話したことはなかったんだけど、ともかく、その生徒と先生がね、真夜中の聖堂にやってきたの」
話がぐるぐると核心の周辺を周りながら進むのは、光恵の癖だった。当初はまだるっこしさを感じていたが、徐々にそういう話し方こそが怪談の妙技だということに気づき、今ではあれこれと想像を膨らませながら楽しんでいる。
「で、その話の前に、実はこの第二聖堂のマリア様って、その出血事件より前から、色々曰くがあったのよ。そもそも何故壊されずに残っているのか。キリストの十字架ではなく、何故マリア像だったのか。本来マリア像というのは聖堂の中心には置かないものなの。小聖堂だったり、また礼拝堂なら脇の方だったり、時には中庭に置いてお祈りする、というのが定番なのよ。それがその第二聖堂のマリア像は明らかにマリア様を中心とした構造になっていたわ」
「マリア像が中心ではいけないんですか?」
「キリスト教、特にカトリックにおけるマリア様という存在は、神ではないわ。キリストの神秘に関わった特別な人間という位置づけで、決して信仰の中心に来るべきものではないの」
「そういうものなんですか」
良樹からすれば全部一緒のように思えてしまう。
「そうなのよ。まあ、宗教の設定は色々と小難しいことが多くてね。わたしもちゃんと理解できている訳じゃないけれども、とにかく、その第二聖堂のマリア像はうちの学校で特別な存在だったということ。そして、そのマリア様に祈ることで願いが叶う、という信仰が密かにあった。ただね、祈るだけじゃ願いは叶えられないのよ。ここがポイントなんだけれど、そのマリア様に自分の大切なものを捧げることで願いを叶えてもらう、というものだったの」
ごくり、と自分の喉が動くのが分かった。
「それで監視カメラなんだけど、真夜中にその先生と生徒が何をしていたと思う?」
あまり考えたくなかった。
特別なマリア像。
問題のある生徒。
そして、血。
「それはね……」
その瞬間、ドアが開いた。
「おお、ここは涼しいねえ」
入口に立っていたのは髭面の大柄な男性だ。
「何なんですか、桐生さん」
光恵は仏頂面になり、その大男に問いかける。
「なんかお邪魔だったかな」
「別に」
そう答えながら彼女は唇を尖らせると、キャスタ付きの椅子をずりずりと引きずって自分のデスクへと戻っていった。
「あれ? 本当にまずかった?」
「いえいえ。全然そんなことないですよ。それよりコーヒーでも飲みます?」
良樹は全然気にする様子もなく応接用のソファにどっかりと腰を下ろした桐生に苦笑を見せ、給湯室へと向かった。
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