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「初めて着た」
両手を広げ、姿見に自分の浴衣姿を映してみる。
深い紺色の生地に、ほのかに紫が溶け込んだ白抜きの牡丹が、風に吹かれているように軽く、全身を彩っていた。紫色の蝶が一羽、迷い込んだように飛んでいる。
帯は薄いグレーに白い線が走ったシンプルなものだったが、生地の粋を存分に際立たせていた。
正面と後ろ姿を見たくて、しばらく鏡の前でクルクル回っていた良子は、正面に戻ってきて落ち着くと、ほぉっと感嘆のため息をついた。
「素敵」
日本的なこういったものは、自分には似合わないと思い込んで敬遠していたが、着てみるとやはり嬉しい。
「よく似合ってるよ、りょうちゃん」
良子に浴衣を着つけてくれた夫は、ニコニコしながら満足そうに、良子を見ていた。
そう言う夫も浴衣を着ている。黒色の浴衣だが、よく見ると、細かい格子柄があしらわれている。帯は浅紫色で、彼の可愛らしさによく似合っていた。
良子は半分あきらめた心境で、自分の夫を褒めた。
「小太郎の方が似合ってるよ。すごく可愛い」
良子より年上であるはずの夫は、どこに行っても、誰に会っても、だいぶ若く見積もられる。
その事を不満に思っている小太郎は、少しすねたように口を尖らせた。そういう仕草も若く見られる原因の一つなのだと、いまいち本人は分かっていない。だが、こんな仕草を許される二十代後半の男がそうは存在しないことも、貴重な事実だった。
実際、これにやられる女は多い。
自分もその中の一人かどうかは、考えないでおこう。
その魔性の夫の足もとには、幼い女がぴったりくっついていた。黙って良子を見つめている。
良子の頬は緩むところまで緩んだ。
まぁ、だけど、この子に勝てる奴はいない。
「こころ、おいで」
良子が我が娘を呼ぶと、こころはおっかなびっくり良子の側にやってきた。
「ママ、きれい…」
そういって恐る恐る良子の浴衣に触れている。むやみに抱きついていいものか、悩んでいるようだった。
良子はしゃがんで、こころに目線を合わせると、ニッコリと笑った。
「ありがとう。こころもとても可愛い」
白地に朝顔の子どもらしい浴衣だ。ふわふわの黄色い兵児帯が可愛い。
こころは今年で三歳になる。可愛い盛りだ。
浴衣がくしゃくしゃにならないように気を付けて、娘を抱きしめる。
二人に会うと、自分に家族がいるという事実に、良子は圧倒される。嘘のような幸せ。そんなことを思ってしまう。
普段仕事でなかなか日本に帰れない良子が、久しぶりに長めの休みをもらえて、日本に帰ることができた。
ちょうど日本はお盆近くで、夏祭りの時期だった。
良子が「夏祭りに行ったことがない」と言ったのを、小太郎が驚いて、「じゃあ行こう」ということになったのだ。
帰ったら、小太郎が良子とこころの浴衣を用意して待っていてくれた。自分の浴衣は、若い頃に着ていたものらしい。
浴衣の値段はとんと良子には分からないが、安くはなさそうな仕立てを見て、思わず肩をすくめた。いまだにパティシエの弟子である小太郎の給料は、そうよくはない。もしかして、自分の浴衣を実家に取りに行ったついでに、お小遣いをもらったりしたのではあるまいか。
そんな疑心が頭をかすめるが、久しぶりに会った夫や娘との時間を大事にしたくて、良子はその疑惑を頭のすみっこに追いやった。
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