短編「file:0 幻燈城市」

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短編「file:0 幻燈城市」

1、 「ありがとう、ミカサさん。でも、もう決めたから」  わたしは、キッパリと宣言したのだった。  来客用のソファに、しどけなくもたれている叔母は、ミディアム丈の藤色のスカートから、可愛らしい(すね)を覗かせている。聞いているのかいないのか、片方の脚を伸ばして、脱げかけたパンプスを幼女のように(もてあそ)んでいた。  それは無造作にソファに投げ出してあるお揃いのジャケットともどもお行儀の悪い仕草だったが、胸元にギャザーのあしらわれた白いエレガントなブラウスが叔母の美しさを引き立たせていて、全体に奇妙なバランスを保っていた。  しかし返答をしたので、聞いてはいたようだ。 「あなたのそういう頑固なところ、兄さんそっくりよ、シオン」  容貌(かお)義姉(ねえ)さんにそっくりなのに、と、物憂げに眉をひそめた叔母は、シガーケースから黒い紙巻をとりだすと咥えて火を点けた。唇の端から、細く紫煙を吐く。彼女のお気に入りの、華尼拉(バニラ)のような甘い薫りの巻莨(シガレット)だ。それは、ローテーブル上のカップから立ち昇る珈琲の薫りと混ざり合って、うっとりとするハーモニーを奏でた。  父のデスクでそれを嗅いでいたわたしは、「この事務所は禁煙だ」と父がいつも妹に注意していたことを思い出した。声も口調もありありと。  袖机(そでづくえ)の一番上の抽斗を開けると、中には筆記用具や領収書などが乱雑に詰めこまれていた。そこから金属の灰皿をつかみ出すと、わたしは立ち上がって、ソファの前のローテーブルに置きにいった。  父の事務所は、雑居ビルの最上階の一室で、入ってすぐがこの応接スペース、奥に書類キャビネットや金庫やコート掛けがある部屋の二間つづきだ。父は事務所を完全にビジネスのためだけの場所と考えていて、どちらの部屋にも私物は置いていない。  叔母は、礼を云うでもなく、当然のように灰皿に灰を落とした。この歳の離れた末妹は、平素から長兄の小言など、歯牙にもかけていなかった。  父が帰らなくなって、一ヶ月が経っていた。自ら姿を消したのか、何者かに襲われたのか、定かではなかった。仕事柄、どちらの可能性もあった。しかしわたしは、親戚一同に云われるがまま、父の残した探偵事務所を畳む気になれなかった。  少なくとも、今はまだ。 「まったく。もっと早く教えてくれたら良かったのに。若い娘に独り暮らしさせてたなんて、世間様に体裁が悪いじゃないか」  ミカサさんはあけすけに(こぼ)したが、そんな直截なところが、この叔母を好きな理由のひとつだった。うまく夏休みと重なったお陰でバレずに済んでいたが、秋学期が始まると(とぼ)けられなかったのだ。 「やれやれ、梃子(てこ)でも動かないつもりね。……また二週間後に来るわ。様子を見にね」  叔母は立ち上がると、鰐革の手提(ハンドバッグ)から、派手な財布を取り出した。 「いいって!」  断るわたしに、ミカサさんは、お金の入っているであろう封筒を押しつけた。父はわたしに、家計のやりくりを託していたので、貯えは把握している。余裕綽々とはいい難いが、すぐには泣きつかなくてすみそうではあった。 「コドモのクセに、遠慮しないの!」  云い置くと叔母は、未亡人らしからぬリボンの付いた釣鐘帽子(クロッシュ)の位置を手早く直した。リバイバルしているネオ・モダンガール・スタイルというやつらしい。叔母は、颯爽と事務所を後にした。  彼女を見送ったわたしは、玄関扉を入ってすぐの壁に取り付けてある鏡と向かい合った。  鏡は八角形で、緋色の縁取りに同じく緋色の飾り紐がぶら下がっている。邪念をよせつけない、或いは魔除けになるといわれている縁起物だ。もっとも父は、もっぱら出がけに身だしなみを整えるのに使っていたが。  いまそこには、愛想なしの、頑固そうな眉の女学生が映っていた。野暮ったい濃紺の学生服姿で、顎で切り揃えたおかっぱ頭には、髪飾り一つ乗っていない。  父もまた、お前は母さんの生き写しだな、と時折云っていたものだった。しかし、物心ついた頃から父娘の二人暮らしだったわたしには、まったく実感のこもらないもの云いだった。  たぶん、これからもそうだと思う。   2、  独り暮らしだからといって、学業を疎かにしてはいけないーー。これが、ただ一つ、ミカサさんに約束させられたことだった。  至極もっともな忠告だったので、わたしは次の日の木曜日も、キチンと学校に向かった。  事務所が入った〈第二街綠洲(オアシス)ビルヂング〉の、二棟南隣にある、さらに古びたアパートメントの一室が、わたしの家だった。  朝八時少し前、わたしは錆の浮いたスチールドアを出て、薄暗い廊下を右へ歩き出した。  途中に格子扉のエレベーターがあるけど、当然のように無視した。このポンコツは、いつなんどき停止してもおかしくないので、住人の大半は階段しか使わないようにしていた。たまに訪問客が知らずに乗り込んで、まんまと閉じ込められるのがお約束であった。それに地上に降りるつもりはなかった。  廊下は、何個かに一個は必ず電灯が割れているうえ、コンクリート打ちっぱなしの床に、正体不明の液体でできた染みが滲んでいる。壁には現在地の座標を示すように、ペンキやチョークで〈何々街〉などと描かれていた。空気に、どこからか漂ってくるピリッとした香辛料の匂いや、微かな汚物の異臭など、さまざまな生活臭が混じりあっている。  三部屋分をまたいで廊下の端に到達した。アパートメントの建屋はそこで行き止まりだが、通路は終いではなかった。壁のコンクリートは粗雑な手つきで崩され、人が通るのに充分なほどの大きな穴が開いていた。隣接するビルにも穴があって、建物同士は渡された鉄の足場や、木組みの枠や、隙間を漆喰で埋めた壁の【架空通路】で繋がっているのだった。  これが、この街の標準的な仕様だった。とても法律にかなっているとは思えないのだけど。  油断ならないのは、この【架空通路】は、シュレディンガーの猫の生死みたく、確定していないことだった。ある日、新しい【架空通路】が生まれていたり、開けたはいいが途中で気が変わって放置されて只の危険な穴になっていたり、いつも使っている通路が突然、塞がれていたりする。そして、全ての建物が【架空通路】でつながっているとも限らない。街全体が、ちょっとした三次元型迷路みたいになっているのだ。  わたしは、習い性になっている動作で、足場の建付けを確かめ、【架空通路】を通り抜けようとした。  が、通路の中ほどで、ハタと立ち止まることになった。目の前を、リュウグウノツカイがゆっくりと横切ったからだ。正確には、リュウグウノツカイに似た【幻生動物】ということになる。  そいつは、右手から、通路の漆喰壁をすり抜けて、ニュッと潰れたような顔を突き出して来たのだった。そして、長い身をくねらせながら、優雅に通路を横断していった。体表は鏡面のように銀色に煌めき、頭部から背にかけて生えている背鰭(せびれ)が、まるで焔を纏っているかのように揺らめいた。リュウグウノツカイとしては、けっして珍しくないサイズだが、四メートルほどもある長さの「物体」が目の前を横切ると、さすがに迫力がある。わたしは、少しだけ竦み上がりながら、それを見送った。正面から見ると薄っぺらいその体躯は、左手の壁に吸い込まれるように潜り込み、みるみるしっぽ側だけになったかと思うと、最後に尾鰭をひと振りして、消えていった。  こうした光景は、よくあることなので驚きはしないのだけど、幻影とはいえ、ぶつかるのはやはり気味が悪かった。それに、身体を通り抜けるときの感覚にどうしても馴れないのだ。身体の奥底がくすぐったいような、細胞ひとつひとつに触れられているような異物感がある。人によっては病みつきになるらしいのだが、わたしの場合、気を取られて、うっかり車に轢かれそうになったり、不安定な足場を踏んで【架空通路】から落ちそうになったり、ろくな目に遭わない。  気を取り直して、再び歩き出した。  隣のビルに入って、階段で一つ下の階に降りる。その階で西に向かって曲がると、そこの壁にも穴が開いていて、通路がまた先に続いている。こうやって【架空通路】で建物を通り抜け続ければ、三十分弱で、学校に到着するのだ。  わたしの通う聖アレキセイ高校は第四街にあって、全部で三棟の建物を使っていた。敷地はもう一棟分あり、そこが校庭になっている。  もちろん、迷路のような通路を使わずに、地上を行くことも出来るけど、この時刻は、朝市や通勤ラッシュでごみごみしていて、場合によっては余計な時間がかかる。馴れれば、こちらの方がずっと早かった。  鉛筆のように縦長のビルヂングが、針葉樹林の森みたいにびっしりとひしめき合い、しかもそれぞれが無手勝流に繋がったり、孤立したりしている。そうして網の目のように繋がった建物群が、あたかも一つの巨大建造物みたく屹立する街衢(がいく)ーーそれが、わたしの住む街【應龍(インロン)寨城(ツァーイセン)】だった。  よく外部の人に誤解されがちなのだが、【應龍寨城】はスラムでも、治外法権の無法地帯でもない。正しくはヴィクトリア市第十三区といい、行政サービスも入っているし、警官もいる。ただ、周辺の街衢が、再開発されて小綺麗な街並みになっていくなか、エアポケットのように取り残された時代遅れの街が【應龍寨城】なのである。もちろんその訳は、ここが【幻燈城市(ランターン・シティ)】であるから、に他ならなかった。   3、  父に聞いた話では、父がまだ若かった頃は、【應龍寨城】のような【幻生動物】の出現する場所は、世界の何処にも存在していなかった。  一九八〇年代、後に【幻生爆炸(ファントム・エクスプロージョン)】と呼ばれる現象が世界中で巻き起こった。各地で【幻生動物】が目撃されるようになったのだ。  (うろくず)(むし)(とり)、爬虫類、(けだもの)、植物、さらに恐竜や想像上の存在まで……あらゆる生き物に似た、それでいて少しずつ異なる不可思議な姿をしたものどもが、何処からともなく現れ出でて、世界中の特定の地域を闊歩し出した。  それらは、ハッキリと目に見えるのに触れることは出来ず、幻影のように、或いは、幻燈機で映し出された写像めいており、誰が名付けるともなく【幻生動物】と呼ばれたのだった。そして、【幻生動物】の出現する特定の地域もまた、【幻燈城市】と名付けられた。    或る人は、出現する地域が、異界との接点になっていると説明した。    また或る人は、これらは惑星の見る夢だと語った。或いは原始の記憶、想い出だと。    対立するイデオロギーの陣営が仕掛けた攻撃であると声高に述べる者がおり、異星人の侵略だと主張する者もいた。人間の文明に対する神の警告であると喧伝する者も多かった。    いずれにしても、結論は出なかった。今でも研究は続けられているが、少なくとも、明解な答えを出した者はいないーーはずである。   人間の、馴れる力というのは恐ろしい。出現当初は、恐怖の的だった【幻生動物】だが、しばらくして、人間社会に何らの影響を及ぼさないと知れると、今度は天体現象のごとき自然の営みと同列に扱われるようになった。いや、殊更、無視されるようになった、というのが正確らしい。  楽観的な科学万能主義のあとに懐疑主義が押し寄せてきた当時、理屈で説明出来ないこの現象は、オカルトの領域か、自然現象の領域に押し込められるほかなかった、とは父の弁である。  いずれにしても二十一世紀のいま、【幻燈城市】は世界中に十数ヵ所ある。その代表的な一つが、我が街【應龍寨城】なのだった。
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