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「何をやっている!」
突如扉が開くと、大きな声が部屋に響き渡った。
開かれた用具室の入り口に、琉が立っていた。
琉はシャツをまくり上げられている俺の姿を見て、目を見開くと、まるで全身の毛が逆立ったように、震えた。
「お前ら……!」
いつも穏やかな琉の眉間には皺が寄っていて、目が吊り上がり、いつも一緒にいた俺でも一瞬縮み上がるほどだ。
まるで野獣のように彼らに突っ込んでいくと、ニ、三人が一瞬で壁にぶち当たり、転げ落ちた。
その勢いに気迫に怯んだ奴らは、身の危険を感じたのか、その場から去ろうとする。
「待て、許さんぞ!」
叫ぶ声がまるで咆哮しているようだ。
り、琉?! どうしたんだ! いつもと様子が違いすぎる。どうしたっていうんだ……。
織崎の頭を掴むと、今にも床に叩きつけるような勢いで、高く上げた。
俺はヤバイと思って琉の背中に飛びついた。
「やめてくれ、琉、それ以上やると、織崎が死んでしまう!」
俺が縋りついたことに気づいた琉ははっとして、織崎をそのままマットの方へ放り投げた。
「こ、こいつやべぇ……」
一人が呟くと、一人、また一人と、その場を逃げるように散り散りになった。
「琉、どうしたんだよ、琉!」
俺は息が荒くなっている琉にそれでも必死にしがみついた。
「ア……ヤト……」
まるで琉が琉でないような気がして、俺は怖くなったのと同時に、胸が苦しくなった。
琉はいつも穏やかでいいやつなんだ。どんな時も冷静で、感情的になる俺をいつもどこかで落ち着かせてくれる。
その琉が、変になってしまった……!
「琉、どうしたんだ、しっかりしろ、お前、おかしいぞ……」
琉は突然俺の上にのしかかるとぎゅっと抱きしめた。
「琉……どうしたんだ! よせっ」
一瞬で顎を掴まれると、琉の唇が俺の唇に重ねてくる。
前にキスしたよりもそれはずっと熱を帯びていて。
「ん……! ん……」
まるで体中を吸い尽くされるんじゃないかと思った。俺は思わず背中にピリリと電流が走るような刺激をを覚え、口の端から吐息がもれた。
アヤト……オレノアヤト……。
低い所から熱情を含んだ声がまるで頭の中から聞こえてくるようだった。
それはそれ以上ハマってはいけない、何か恐ろしいもののような、そんな気配だった。抱きしめていた琉の手が怪しく俺の体を撫でた。
「んっ……ふっ……ぁあ!」
撫でられただけで、痺れるような、頭を突き抜けるようなここちよさが体を一気に駆け抜けた。
抵抗をするという言葉が思い浮かばないくらい、凄い引力で彼の手が触れただけで甘い衝撃が一気に背筋を駆け抜けた。
(あ、あぁあ! や、やめてくれ! いやぁあああ!)
俺は心の中で叫んだ。
急に我に返ったようにはっとし、琉は唇を離した。
しばらく体の震えが止まらない……。情けないことに少し涙が滲んで呆然としてその場を動けなくなってしまった。
「……アヤト!」
見返すと琉も正気に戻ったのか何が起きたかわからない様子で、辺りを見渡す。少しこめかみに手を当てて頭を振る。
「アヤト……一体、俺はここで何を……」
「……何をって、……覚えてないのか?」
「あぁ、いや……。お前が襲われそうになったことだけは覚えている……」
琉の身に何が起きたのかはわからなかったが、俺は俺の恥ずかしい失態が彼の記憶にないことにどこかほっとしてしまった。
「すまない……アヤト、俺は沼間教授の部屋の傍にいた。お前が飛び出してきたから、気になって追いかけたんだ。でも……途中で記憶が飛んだ……」
「……」
「……で、お前は無事だったんだよな……?」
「あ、ああ。な、なんとか」
本当は無事ではない。正直今すぐにでも琉の前から消えたいくらいだ。
さっきの自分に恥ずかしさを感じ、俺は咄嗟に上着を腰に巻いて隠した。
でもあの衝撃からとりあえず大人しくなった体の疼きに、とにかく早く家に帰った方がいいような気がした。
「お前が、無事でよかった……」
琉は酷く安心した顔をした。
俺はいつもの琉の優しげな笑顔に、先ほどまでの緊張感がほどけ、思わず目の前が滲んできた。
「アヤト……?」
「な、なんでもない、なんでも」
俺はすぐに顔を反らして、彼の見ていないところでそっと涙をぬぐった。
「琉さま、こちらにいらしたのですね!」
その場にへたり込んでいる俺たちに、聞き覚えのある高い声が響く。振り返るとサエカだった。
少しだけ髪が乱れ、声は弾んでいたようだが、相変わらず顔は無表情だ。しかし美しいアンドロイドだ。
「サエカ、お前、帰ってきたのか?」
「アヤトさん、これ、よかったら使ってください。抑制剤です」
俺は今まで起きた出来事に、流石にもう自分を否定することを諦めた。
サエカの言葉に素直に従い、渡された液体を口にする。
それは甘い砂糖の味がした。そしてこの甘さはいつも俺が毎日エムルからもらって飲んでいた、色々な味の飲み物と同じ甘さで……。
エムルがそれを笑顔で俺に渡してくれたことを思い出すと、胸が苦しくなる……。
俯き、飲み干したコップの中を見ていたら、そこに水滴が一粒落ちた。
それが自分の涙だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
俺はその場から動けず、しばらく体を丸めた。そして声を押し殺し泣いた。
ほんとはこんな姿を誰にも見られたくなかった。
けれど、もう限界のようだ。あとからあとから涙が溢れて、止まらなくなった。
ずっと自分が高貴な人間だと思い、自負し、思いあがっていたのかもしれない。
そう考えると今まで自分のしていたことがただのピエロで、滑稽極まりない。
そしてそれらが一番なって欲しくない形で露呈し、俺は地に落ちた。
俺の中の価値観が崩れていく……。
俺を形作っていたいままでのことが、まるで砂のようにさらさらと音もなく落ちていき、溶けていくようだ。
いっそのこと一生騙されたままでいた方が幸せだったのではないかと思うくらいだ。
「アヤト……」
琉はまるで自分の事のように酷く傷ついた顔をする。それがまた更に俺の心に刺さった。俺の震える手にそっと琉が触れる。
「触るな!」
俺からの強い拒絶に、琉はびくりとし、そっと手を離す。
「同情なんていらない! 俺は、俺が一番軽蔑し、下げずんでいたオメガだったんだ……!」
「アヤト……」
「お前だって、こんな俺を見て滑稽だと思っただろう? い、今までの俺のた、態度に、行動に、すべて……何もかもに……!」
琉は黙ったまま首を振った。
「俺を同情の目で見るな!」
「同情だなんて……」
「じゃあなんだって言うんだ」
「お前の気持ち……俺にも……わかるから」
「何がわかるって言うんだ! いい加減なことを言うな」
俺は琉の胸に拳を打ち付けた。何度も何度も何度も。
そしてしまいに頭を彼の胸に押し当てた。うつむいたまま涙が止まらない。
ああ。みっともない。こんな風に琉に当たったってどうしようもないのに。
どうしようもないのに……。
琉は俺の頭を抱え込むように抱きしめてくれた。
「……っ、ごめん、お前に八つ当たりなんて俺……最低だ……」
「アヤト……」
「琉……俺を見ないでくれ……たぶん、今の俺は最低だ。どうしようもなくみっともない顔をしてるに違いない。しばらく、放っておいてくれ」
「……わかった」
琉はそれから何も言わず、けれど決してその場を離れることはなかった。
俺に背中を向けて、しばらくそのままにさせてくれた。
「アヤト? 私はアンドロイドです。だから今アヤトさんがどんな気持ちでいるかというのは測りかねませんが、今お話しさせてください」
「それは……エムルのことか?」
琉が俺の代りに応える。
「はい。何故エムルが逃げたのか。その理由を少し話させてください。エムルは同じパターンの生活ができる、繰り返しの動作に強いアンドロイドでした。だから不測の事態に陥った時の回路が少し足りなかったのです。あまりにもOrder Police Corpsのやり方が横暴で、何もかもが破壊的で、しばらく動揺してしまい、彼自身の回路が乱れ、混乱し暴れて、最後は逃げる事のみに集中してしまいました。考えることを彼は拒んだのです」
「エムル……」
「でも私と一緒にエネルギー補充が必要になるまで遠くへ向かっているうちに、いつのまにか辺りが寒くなり。気づくと私たちは極北にまで辿り着いていました。ありがたいことに、熱暴走しかねない彼の体も回路もそこで冷えて、訪れたアンドロイド協会の方の家でエネルギー補充をさせてもらいつつ、次第に彼も落ち着きを取り戻しました」
「よかった。とにかくエムルは元気なんだな?」
俺はどこか安堵していた。エムルはあくまでもマスターの言うことを聞くアンドロイドだ。
彼が自発的に今回の事をしでかしたわけではないと、どこかで信じていた。
「……で、今はどこに?」
「気持ちを落ち着かせたエムルは大事な用事を思い出したと言っていて、中央都市にあるNM製薬に向かいました。アヤトさんの薬を一刻も早くもらいに行くと言って」
「……俺の抑制剤と、アルファの血を偽造する薬だな……」
自分で言うと改めて凹む。
それに関してはサエカも無言で俺に掛ける言葉が見当たらないようだ。
「彼はアヤトさんに申し訳ないと肩を落としています。ただ、毎日アヤトさんのご両親のプログラム通りにアヤトさんを守ろうと一生懸命ではありました」
「しかたないさ、エムルがやったことじゃない。彼は俺の親から指示されて動いていたにすぎない……」
少しだけ落ち着いた俺は、今必死に頭の中を整理している。
あのことを……琉に言うべきだろうか。ああ、言葉にするだけで憂鬱になる。
俺が沼間教授なんかとつがいになる可能性があるということを……。
「エムルを……彼を……探すところから始めないと……」
「ああ……」
「もし、親父たちの言う通りだとしたら、俺は、サエカからもらった抑制薬は飲み続けないとならない。正直その薬が切れると体がおかしいくなるのも事実だ」
俺の言葉にサエカは頷く。
「抑制薬なら、いつでも私があげることができます。エムルがいない間、私があなたの医療ロボットになりましょう」
なんだか彼女が聖母マリアに見える。後光が差しているみたいだ。
改めて俺は心の中で琉とサエカに感謝した。
俺はこうなってしまったけれど、まだ大事な仲間がいてくれる。
そして辛いけれど、こうなってしまった以上、俺は自分が一体何者なのか……ちゃんと考えなければならない時が来たようだ。
真実を知り、自分がオメガである現実を認めなくてはならない……。
「琉、俺はどうしてこんなことが起きたのか、何故俺の親がこんな大事なことをいままでひた隠しにしてきたのか、彼らと少しだけしか話ができなかった。だからすべてがわからない。しかも、彼らと沼間がとんでもないことを言い出したのも納得できない。俺が頭に血が上ったばっかりにまだ話には続きがあったはずだ……。でももっと、もっと彼らから理由を聞かなくては」
「そういえばお前は沼間教授の部屋から飛び出して来た時、つがいがどうとかこうとか……?」
琉の言葉に俺ははっとして顔を上げた。
琉の真剣なまなざしを見ていたら、下手に隠しているのもおかしな気がして、俺は自分の置かれたこのみっともない状況に片意地を張らず、素直になるべきだと思った。
「……俺、沼間教授と婚約させられそうになってる」
「な……んだって?」
明らかに琉の顔色が変わる。
「俺は特殊なオメガなんだそうだ。オメガ2マイナスとかなんとか……。それで抑制薬とアルファに……何故そこまでして俺をその特殊なオメガから隠していたのかわからないし、その特殊なオメガがなんなのか、怖いし、つがいというのも怖い……」
「そんな……馬鹿な……!」
「自分がオメガになって初めてわかった。ものすごく怖いな。俺は沼間なんかと結ばれたくない。そう願っても、ダメなのか……? それでも嫌でも奴とつがいなんかにならなきゃいけないのか? オメガであることだってショックだ。なのに更に沼間なんかと……そう考えたら……俺……俺は……」
「当然だ。そんな人権を無視した繋がりなんて、絶対にあってはならないことだ」
琉は眉間にしわを寄せると、握った拳を震わせ、更に険しい顔つきになった。
「アヤト、とにかくエムルの行方を探ろう。お前がこのまま意に染まない形で周りから好き勝手にされてしまうのが許せない。しばらく学校へは行かない方がいい。急にまるで下剋上のような乱れと混乱が起きて、今日のようにいいことなどない」
「ああ……何もかもがとても不快だった……とても……」
俺はまだ少し体が震えていた。サエカからの薬だけでは完全に良くはならないようだが、それでもだいぶ落ち着いてきた。
いままで生きてきて、今日ほど屈辱的で悲しい気持ちになったのは初めてだ。
俺たちはとにかく一度寮に戻るとシャワーを浴びて着替えをした。そして、ある程度の荷物をまとめると、学生証や医療証を持ち、外で待っていてくれた琉と共に琉の寮に行くことにした。
「お前がオメガだと知った以上、一人にしておくわけにいかない……」
「……琉」
琉の寮は俺の寮からさほど離れていない。歩いて五分くらいのところだ。
「アヤト、俺も一緒にお前と何故お前がこんな理不尽な目に会わなければならないのか、原因の究明がしたい。それにこうなった以上、俺はお前に俺の事も話すべきだと思った」
「なんだよ……お前の事って……」
琉は少しためらいがちに、サエカの方を見た。サエカはそんな琉を気遣ってか、軽く頷く。
「お前が正直に言ってくれたのだから、俺も言うが、実は俺も毎晩薬を飲んでいる」
「……え?」
「俺はアルファだがお前と真逆で少し強すぎるアルファなんだ。だからそれを抑制する薬を飲んでいる」
「そう……なのか」
琉の顔を見ると奴は少し緊張した面持ちだった。
「さっき凄い勢いだったのもそのせいなのか? まるで人を殺しかねない勢いだったぞ、怖かったくらいだ」
「……すまない……。たぶんそれが自制が効かない俺の欠点だ。嫌になったか?」
俺は首を横に振った。琉がどうであれ、今人間的地位の失墜を強烈に感じている俺の方がずっと世間を騙している感が強い。
琉のそれは俺から比べたら大したことではないと思った。
「琉さまのことに関しては、私が説明させていただきます」
身支度をすっかり整え、旅行鞄を二ケース揃え終わったサエカが俺たちに改めて追加説明をした。
「琉さまの血も特殊なのだそうです。ほとんどの人間ははっきりとアルファ、ベータ、オメガ、と分かれますが、強いアルファの血を持つ方が生まれます。それはあらゆる能力が人間のそれと桁違いに大きすぎて、人間社会に適応するために自らの能力を抑えなくてはならないのです。でなくては彼は何もかもを破壊してしまうただの犯罪者になってしまいます」
「……そうか、お前もお前で大変だったんだ。いつも穏やかそうにしていたのに」
「……俺もどこか特殊なんだと思う」
「お前、いつから自分が特殊なアルファだと気づいたんだ」
「かなり前からだよ……。でも、誰にも口外できなかった。お前にも……」
「……そっか。やっぱり俺はピエロだったんだな」
俺は苦笑いするしかなかった。
「なぁ、オメガっていうのはベータに近いところがあったりするのかな?」
「それはありません。オメガはアルファとベータとは少し性質の違った血を持っています。けれど、アルファとベータからもベータ同士からも、アルファとオメガからもオメガは生まれるんですね」
「俺は自分と同じような特殊だと言われる人間を探したくて、色々エリアを広げてあちこち探してたりしてたんだ。それがアルファでもベータでもオメガでもいいから」
「だから、お前、中央都市の付属高校や大学にもよく行ってたんだな」
「ああ、いままで俺と同じタイプの人間に会ったことがないんだ。かなり症例が少ないのかなとも思っていた。……お前も、そのっ、そうならば、俺はもっと勉強しなければ」
俺は改めて琉の目を見た。彼の目はまっすぐ俺を見ていて、そして、今まで俺に言えなかったことを全部言えたからだろうかどこか重苦しそうな気持から解放されたようにも感じられた。
「……琉、ごめんな。そういう特殊な例があることも知らずに、お前の行動をあれこれ非難してしまった。俺は……」
俺が肩を落として言うと、琉は真剣な面持ちで首を横に振った。
「いいんだ。気にするな。むしろ俺は自分の種族のことをもっと知りたくなった。いや、むしろ俺はお前がオメガであることを確信出来てむしろ……」
「……ん?」
「いや、なんでもない……」
「琉……俺はこれからどうしたらいいんだ」
正直、この先自分がどう生きて行ったらいいかわからない……。
「すべてをリセットすることが一番いい」
「リセット?」
「ああ、何もかも、気持ちを開放して、そして自分を大事にすることから始めるんだ。すぐに気持ちがまとまらないのなら、俺でよければお前の傍にいて、助けたいと思う」
「琉……」
「俺では頼りないか?」
俺は首を振った。
「この世の中に生きている人をみんな大事に思う。みんなが平等に生きて行けるように……俺と一緒に研究しよう、自分がどういう人間なのか、そして差別をなくしたい……」
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