12人が本棚に入れています
本棚に追加
第四章 発覚と抵抗
翌日。朝、空が妙に重く感じた。窓から見える空は曇っていて、いつもなら飛び交うムクドリたちも姿を見せない。
いつもと同じように俺は顔を洗うが、朝食を出してくれるエムルの姿はなかった。
起きた時から体の火照が時々体を襲う、風邪でもひいたか。
もしかして薬を服用していないせいで、持病が発症してしまったのだろうか。
今まで感じたことのない不安が胸に押し寄せる。
濡れた顔を映した鏡を睨みつける。
こんな持病持ちな上に、俺がオメガだって? どんな冗談だ。
沼間は例え俺がオメガだったとしても、自分の研究所に呼び寄せるというようなことを言っていた。
冗談じゃない。何故あいつのところになんていかなければならないのだ。
気分が悪いっ。
昨日とは確実に世界が変わっていた。しかも悪い方向にだ。
これが夢なら冷めて欲しい。
いや、もしかしたら昨日のことは本当に夢だったのかもしれない。
もう一度確認するべきだ。昨日のはただの悪夢であるということの確認だ。
表に出ると琉が待っていた。
彼はいつも冷静だが、俺は琉と性格が正反対な気がしている。
俺はむしゃくしゃしているとついいつもオメガの悪口が出てしまうし、自己中心的なところもある。
自分が持病があるせいもあるかもしれないが、いつも不安が押し寄せると自分の体調を気にしてしまう。
しかし、琉は違う。いつも自分というよりも他人に、常に誰かに気持ちを向けているように思える。
「おはよう、アヤト」
「……」
俺は琉に直接聞くことができないでいた。昨日のあれは夢だよな。
本当は何もなかったんだよなと……。
少しでも言葉を発すると怒りなのか悲しみなのかわからない感情が溢れてきてしまう。それだけ俺が琉に気を許している関係だからなのかもしれないが。
流石にそれはみっともない。でも気持ちが落ち着かないのだ。
なにかをきっかけにして怒りが湧き出たら、それを一体誰に向けたらいいのか、気がどうにかなりそうで怖い。
「アヤト、顔色が悪い……」
「薬を飲んでいない……。エムルがいない……」
「大丈夫か? 無理しないでいいんだぞ」
琉がそっと俺の肩に手を触れようとして、俺は思わず昨日の事を思い出し、体が震えた。そして思わず差し伸べられた手をはらってしまった。
「触るな!」
「……っ」
「……ごめん。なんだかもう俺はわけがわからなくて……もう、とにかく……」
「ああ……」
「琉、お前はどうして……?」
どうしてお前はいつもと変わらないでそこにいてくれるんだ……。
「お前が動揺するのもわかる……。誰だって自分のことがあんな形で暴露されたら、本当なのか嘘なのかわからないわけだし、混乱する」
「……お前、もし俺が、オメガだったら……」
言葉が尻すぼみになり、たまらなくのどが渇く。声したら余計叫び出したい気持ちになった。
俺はぐっと唾を飲み込み口を引き結ぶと上を見た。
冷静にならなくては……今は自分の気持ちを抑えるのに必死だった。
その日の授業は落ち着けず、何も頭に入らなかった。
休み時間にはいつも場を盛り上げてくれていたカミーユもどこか遠慮がちで、俺は彼らに挟まれるように授業を受けていた。
「……アヤト、例えお前がなんであれ、僕らは何も変わることはないからな」
俺を気遣ってのカミーユの言葉であるはずなのに、彼の言葉がどこか俺を憐れんでいるようにすら聞こえてしまうのは、間違いなく俺の劣等感からくるものなのだろう。
それが証拠に俺の中で今にもカミーユに掴みかかりそうな気持ちになった。
感情的になって暴れる姿など誰にも見られたくないと思う気持ちも、周りの者にどこか怯えているのも、俺は今まで自分の血をどれだけ頼りにし、それを武器に自分を大きく見せていたのだろうかと悟る。
教室には今はアルファだけではない、ベータの生徒もいる。
もし自分がオメガだったら、アルファのカミーユに接する時の態度はどこか遠慮がちになるのだろうか。
以前中央都市大学付属高校で見たオメガたちの態度と、今の自分の卑屈な気持ちの何が違うというのだろうか。
自分が如何に彼らの存在を下に見ていたのか、情けなくなるくらい、今更俺は自分を酷い奴だったのではないかと思った。
そういえば、カミーユの恋人はオメガ種だと聞いた。
彼とはどんな風に出会い、どんな風に恋人同士になったのか……。その関係性は……。いや、考えたくないっ。
視線を感じふと前方を見ると、俺を見て話していた奴らがさっと視線を反らせ前に向き直った。
今朝から誰かしらかに常に見られているような気がしている。
自意識過剰だと頭を横に振ったが、今の周りの様子を見て悟ってからは、なんだか神経がピリピリしてきて、俺は手元のモニターに視線を落とした。
きちんと揃えらえれている電子ペン、正確に書いているであろう文字の羅列……。
昨日までの自分が凛として生きていた。その痕跡……。
今はその肝心の俺自身がまるで抜け殻だ。
この先何を信じて、どう自分のアイデンティティを保って生きていくのか。完全に闇の中だ。
いや、闇の中ならいつかは光も差すだろう、けれどそこには空虚。なにもない……。
今まで培われてきた思想や、確固たる自分の中での核みたいなものが根底から崩される。
自分が何者かであるかがわからない……。
今まで持ったこともない不安に俺自身がぐらついている。
クラスの中にはベータ同士でつるんでいる連中がいた。その中でもリーダー的な存在の織崎克己とはもともと仲がいい方ではなかったが、俺がオメガであるというデマの情報を見てから、彼とその仲間たちとは会話をしていなかった。
講義の時間のすれ違いもあったが、まともに一緒に授業するのは、あの後初めてだった。
午前中の講義が終わると、午後からは美術の時間だった。
美術室にはイーゼルがあり、それぞれのスケッチブックを置き、鉛筆で描く、今でも鉛筆で物を書くという文化は残っている。
電子でなんでも解決する世界で、過去の文化をあえて行う行為は、本来人間には過度な便利さが不必要なのではとも思ったりもする。
前は何をやってもきっちりするべきだと思っていた。
もちろん芸術に関してもしっかりと作品を作ろうという気持ちがあり、俺はいつも完璧を求めた。
けれど、それは今まで核となる部分。自分がアルファ種であるという誇りがそうさせてきたとも言える。
その一番大事な部分が抜け落ちた自分がしっかりやろうとしても、それはむしろ滑稽なんじゃないだろうか。
奥の部屋からガウンを着た男性が現れた。今日のデッサンは人物デッサンと聞いていたので彼はそのモデルなのだろう。
しかし何故だか顔色が悪い。
「今日はモデルの方に来ていただいて、裸のデッサンをしてもらおうと思います。人間の体はポーズによってさまざまな表情を見せます、それらを描写していただけたらと思います」
男性が先生の指示で来ていたガウンを脱ぎ、生まれたばかりの姿になると、台の上に上がった。
みんなは素直に鉛筆を持って、目の前のモデルを描き始めた。
彼は……アルファなんだろうか、ベータなのだろうか。オメガなのだろうか……。
よくよく考えたら見た目では俺たちは何も変わりがない。みんな同じ人間なのだ。
例えオメガだからと言って……。
はぁ、卑屈になるな、アヤト。いつからお前はそんな情けない奴になった。
数分経ってモデルの男の顔色が更に悪くなっていることに気づく、額に玉のような汗をかいていた。
ふと彼のポーズが崩れると、そのまま前のめりに倒れそうになった。咄嗟に一番前にいた琉が立ちあがり、彼を支えた。
壁にもたれていた先生が駆けつけて、「みんな、そのまま自習を……」と告げ、モデルの男に肩を貸しつつ教室から出てしまった。
「自習をって言われてもな」
「誰か他の奴が、モデルになれってことなんじゃないの?」
「お前やれよ」
「嫌だよ」
軽い小競合いが続く中、誰かがふと呟く。
「モデルなら素敵な子がいるじゃないか、ほら最近種族が変化した奴がさ、いや、もともとの種族を偽っていた奴か」
ふとベータ仲間のリーダー的な存在である織崎が呟く。
少し癖のある黒髪を軽くいじりながら意地悪そうにこちらに視線を向けた。
俺は嫌な予感がして顔を上げると、みんなが俺を見ていた。
「……な、何を……」
「ア ヤ ト ち ゃ ん 君がやったらいいよ、裸になってさ」
「それがいい。君の裸見てみたかったんだよね……」
織崎の取り巻きが、いいねいいねと盛り上がりはじめた。
最初は冗談だと思い、苦笑いしていた俺も、皆からのはやし立ててる奴らの視線がいつもと違い、妙な艶めかしさを感じ、怖くなってきた。
その場にいてもたってもいられず、即座に立ち上がる。
「おっと、どこに行くんだよ」
いきなり織崎に腕を掴まれ、俺はびくりと体が跳ねた。
いままでにないこんな扱い。そして動揺してしまった自分の反応にも驚いている。
みんなの視線が怖い……。そんな風に思ったのも初めてだった。
「もちろん裸夫画ってことで、裸になって欲しいな、アヤトくん。少しシャツを脱いでるような感じでもいいよ」
織崎の言葉に、背後から、おっ、芸術的じゃん! とひゅーとはやし立てる声が多数聞こえた。
「じょ、冗談言うなよ、俺は……」
「なぁ、オメガっていうのは奉仕する人間なんじゃないのか? 前にお前そう言ってたじゃないか。俺たち上級者のためにな」
腕を掴む男の視線が怖い。手が妙に熱く、汗ばんでいる。しかも妙な震えを起こしている。
それが劣情的なものに感じ、俺は怖くなった。
不意に男の腕を誰かが掴んだ。
「止めろ」
琉だ。
「なんだよ、宝田。これから面白くなるってのに、お前もアヤトちゃんの裸見たくないのか?」
「そうだぜ、俺たちは何も変な意味で言ったわけじゃない、先生も言ってただろ? 芸術なんだよ、こいつは性格は最悪だが、見てくれはいいからな、きっと描きがいがあるぜ?」
「お前ら……」
俺はたぶんその時顔面蒼白になっていて唇も青かったのだろう。あれほど立場があった時は強気になんでも言えたのに、今の俺はまるで何もできない小動物だ。
「そんなにモデルが欲しいなら……」
琉は何を思ったのか、いきなり自分の着ているシャツのボタンに手を掛けて、脱ぎ始めた。
俺はドキリと心臓が跳ね上がり、近くの男がえっ、と小さく声を上げた。
琉は上をすっかりはだけさせると、俺たちの前に立ち尽くす。
「俺がモデルになってやる、さっさと描け」
琉の体は肉付きがよくて、着やせするタイプなのだろうか、想像よりずっと筋肉がついていた。
彼らの一部が少し赤面して慌てた様子を見せる。
織崎は軽く舌打ちをして、周囲を苦々しい顔で見渡した。
「さぁ、描かないのか」
琉が少し怒ったように彼らを睨め付けた。
「な、なんだよ、軽いジョークだって、な、なぁ……」
琉の勢いに周りの生徒が怖気づいた。
「ちょっとあなたたち、何の騒ぎなの!」
俺たちの騒ぎに気付いた、先生がすぐに駆け付け、ざわつく教室内を怪訝そうな顔で見た。
「大丈夫か?」
気づくとそっと琉が傍に来ていて、耳元でささやく。
手が俺の肩に触れ、俺は自分の唇が震えているのに気づかれたくなくて、無言で唇をかみしめた。
琉の手が大きくて暖かくて、悔しい気持ちの中に、少しだけほっとした気持ちと鼻の奥がツンとするような気持ちが混ざっていた。
授業は戻ってきた先生の指示により、人物デッサンから静物画になった。
嫌な空気を作った奴らはしれっと授業の絵を大人しく描いていて、俺だけが気持ちが落ち着かない。
こんな風に毎日俺は織崎だけでなく、俺に対して良くない気持を持った他の連中に茶化され、冷やかされ続けるのだろうかと思うと、ここで授業を受けていく自信がなくなってきた。
彼らから浴びせられる言葉は遠慮がなく、無礼で、人を人とも思わない言い方だ。
逆の立場に立つとこんな風に見え方も空気も変わる。
彼らが俺の事をどう考えていたのが分かった今、彼らの心の闇を見た気がする。その闇は……俺自身が作ってしまった物なのだろうか。
授業が終わり、次々と生徒たちが教室を離れていく。
最初のコメントを投稿しよう!