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「それじゃ、うさぎはこっちに来てちょうだい」モニカがブランドンに声を掛けてきた。彼女は近づいてくると、着ぐるみの口の奥のブランドンをのぞき込むように、上半身を前に屈ませた。着ぐるみの口のメッシュの向こう側のブランドンの目が、彼女のワイシャツの胸もとに自然といった。黒い色のブラジャーの縁が、深い胸の谷間が覗いている。「あなたに用があるの」  ブランドンはうなずいた。モニカが手招きし、背をむけ、食堂の出入り口の自在扉のほうにむかっていった。ブランドンはついてゆく。モハーベ砂漠のなかにある、不夜城ラスベガスの高級ホテル<パームス・カジノ・リゾート>のなかを案内するコンセルジュのように歩いていっているモニカのうしろをやや腰をうしろにひいた格好でついてゆく。着ぐるみの口ののぞき穴から、モニカのうしろ姿を眺める視線は、彼女のお尻にむいている。のぞき穴のメッシュの奥で、外側からはうかがいしれない、いやらしい目で凝視していた。世のお嬢さん方、くれぐれも気をつけるように。男に背後をとらすと、けっこうな確率で、あなたのお尻は視姦されている。 「どこにいくんです?」ブランドンは訊いた。  ふたりは食堂から出てから、通路をまっすぐ突き当り、右に折れて進んでいた。モニカは返事をかえさなかった。彼女のハイヒールの踵の音だけが通路内に響き、それ以外ほかの音はきこえてこない。まるで無人の廃墟ビルのなかを歩いているような、深夜の病棟を歩いているような、ひと気のない地下道(アンダーパス)を歩いているような……。  ここは動物園のはずだが? と、ブランドンは思う。動物の鳴き声、飼育員や事務員の姿がいっかな見えない。とにかく、かれらの活動音がいっさいきこえてこない。着ぐるみのうさぎは散歩の途中に、なにげない質問をする呑気な顔をしているように見えている。が、なかみのブランドンは心細かった。静まりかえった動物園は、気味が悪い。  ふたりは”OFFICE”と、ドアに木の札ぶら下がっている部屋の前に着いた。動物園らしく、擬人化された動物キャラクターのポスターがドアに張りつけてあり、そのなかから、かれらにむかって愛想をふりまいている。ロブスターは大きなハサミで皿を掲げ、その皿には茹であがった同胞が載っている。雌鶏のおっ母さんも皿を持ち、もとは伴侶か? 義理の両親か? はたまた愛しいわが子だったのか? 皿のうえには、ブロッコリーと人参のソテーとともにローストされた鶏肉が載っていた。<バンゴア動物園の名物ランチをぜひご賞味あれ!>  モニカがオフィスのドアを開けた。むかいあって並んだスチールの机に、それぞれパソコンがシャットダウンしないまま置いてあり、室内にはコピー機、ファイルに書類が山と積まれたままだった。どこの事務所も同じようで、整理整頓の具合は中の下だ。ここにも誰ひとりいなかった。人払いがされているのか、合衆国政府の指示で、この部屋がいち時的に接収されているようだ。と、ブランドンは見当をつけた。カップから湯気をあげている飲みかけのコーヒーが置かれていた。強制的で、迅速におこなわれたのではないか?  部屋の最奥の窓辺の場所に、わりと整頓されている机があった。足もとのカーボンカード・ボックスに物が乱雑に詰めこまれている様子は見えない。のぞき穴からの視界は筒のなかから外界をうかがうようなものだ。机の天板だけを、いまかれは目にしている。モニカがブランドンに、そこの席に坐るように促し、着ぐるみのうさぎは着席した。すると、モニカが大判の革のファイルをブランドンの前に開いて置いた。懐から取りだしたペンを着ぐるみのうさぎの前に差しだした。 「この内容に同意して、サインをして欲しいの」と、モニカはいった。  ブランドンは着ぐるみの手でペンを握ると、書類を見下ろした。細かい文字がぎっしりと書きこまれてあった。
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