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3 (微R18描写あり)
歳下の恋人は文字通り、依人にベタ惚れだった。
バイである久賀にとって、依人は週に何度か、ほんの短い時間だけ姿を見せるミステリアスな憧れの美青年だった。静かに一杯の酒を楽しんだら、あっさりと帰ってしまう。マスターとはたまに談笑しているのに、自分とは必要最低限の会話しかしてくれない事も、もどかしかった。
照明を落とし薄暗くした店内で、一人カウンターに座る依人の姿は、主張する訳ではないのに無視できない、それなのに侵しがたい存在感があった。
オーダーされた酒を席に置くと、僅かに綻ぶ唇。涼やかな目元を緩ませて、氷に乗ったライムを細い指で摘んで搾る姿。仕草の一つ一つに見蕩れてしまって、依人が居る間は仕事が殆ど手につかない。
依人が来るのは大抵、開店して少し過ぎた6時半から7時頃。一般的には食事時で飲むには少し早い時間だから、他の客は滅多に入って来ない。だから、既に開店準備は終わらせてしまっている久賀が、少しばかり依人を盗み見て胸を高鳴らせたって支障はなかった。
社会人だというのはマスターから聞いたけれど、何の仕事をしているんだろう。何故何時も一人なんだろう。恋人はいないのだろうか。男は恋愛対象になるのだろうか?
依人が来店するようになって、半年ばかり。膨れ上がった想いは、とうとう久賀を大胆にさせた。
雇用主であるマスターは、客とのトラブルを許さない人だ。客が客に執拗く言葉を掛けるのを許さないし、タチが悪いと判断した客は容赦なく放り出して出禁にする。そして、当然それは従業員にも該当する事だ。
マスターの前で客に対してアプローチするのが許される筈がないと踏んだ久賀は、考えた末に、決済時に自分の連絡先を渡してみる事にした。
その夜も、少し疲れたような様子で店にやって来た依人は、何時ものようにカウンターの端の席でジントニックを飲んだ。ほんの30分の間に、目に見えて綻んでいく色っぽい表情にドキドキしながら、それでも顔には平静を張りつけて、久賀は帰り際の依人に連絡先を記した店の名刺を渡す事に成功した。クレジット決済のレシートの下に重ねて渡されたソレに、少し不思議そうな様子の依人。
どうか早く名刺の裏に気づいてくれと祈りながら、久賀は依人を扉の前迄送り出した。
だが、その夜仕事上がりに確認したスマホに、知らない番号やアドレスからの連絡は来ていなかった。翌日も、翌々日も。依人からの連絡が入る事は無く、久賀は落ち込んだ。
気が無いという事なのか。こんな古典的なアプローチでは鼻も引っ掛けてもらえないのか。そもそも、同性には興味が無い人なのかもしれない。
あんな真似をして、これから店に来なくなってしまったらどうしよう…。
ぐるぐると悩んだ久賀の脳味噌と心はどんどん消耗し、3日目にシレッと店に現れた依人の顔を見て、思わず目が潤んでしまったくらい情緒不安定になっていた。それでもどうにか平静を保ちながら接客をした。
俺では駄目ですか、と口から出てしまいそうなのを必死に堪えながら。
すると、依人が言ったのだ。
『帰る時、少し時間良いですか?』
えっ、と思わず依人を見ると、依人は明らかに何時もとは違う表情で久賀を見ていた。困っているような、複雑な表情で。
その時、久賀はわかった。
そうか、依人も戸惑ったのだと。そりゃ、ろくに会話した事も無いような飲み屋の同性スタッフに突然連絡先なんか渡されても、依人の性志向がストレートなら、それが何を意味するのかわからなかったのかもしれない。せめてもう一文くらい書き足せば良かったと久賀は反省した。
けれど、こうして面と向かって律儀に話をしに来てくれたという事は、脈が無いって訳でもないのでは?
久賀の胸にはほんの少し希望の灯が見えた。
この機を逃がすまい。久賀はそう決めた。
そして、勢いで押してみた結果。久賀の告白は成功した。
強引に唇を奪った時、依人は無抵抗だった。何時もの澄ました顔も良いけれど、驚いて呆然としている顔も可愛いと思った。
この綺麗な男は、もう自分の恋人なんだ。
昔からモテた。でも、自分から好きになったのは依人が初めてだった久賀は、そりゃあもう浮かれた。店に依人が来ると自然と心が浮き立つので、勿論それは顔にも言動にも出る。当然、マスターにもバレた。
だが、客とトラブルを起こした訳では無く、依人は以前と同じように店に来ているので、問題が起きた訳ではない。
『二度と同じような真似はするなよ。』
そう釘を刺されただけで済ませてくれた。マスターは、一見軽く見える久賀が実は意外と真面目で、今迄客に誘われても応じる素振りも無く躱していたのを知っている。だから一度は目を瞑る、しかし二度目は許さない。そういう意味での忠告だろうと久賀は受け止めた。
言われなくとも、二度とこんな事をする気は無い。依人が特別だっただけなのだから、と久賀は思った。
何が起きても変わらないだろうと思っていた気持ちが揺らいだのは、自室で、初めて依人と一夜を共にした翌日だ。
前夜の依人は、見た目を裏切って初めてのセックスだと恥じらっていた。
『ガッカリしただろ、歳上なのに何も知らなくて。』
処女穴をふやかして宥めてこじ開けて、やっと久賀のペニスでそこを満たした時、依人は白い肌を紅潮させて、生理的な涙を堪えるようにしながらそう言った。
『俺は嬉しい。』
『そん…ひ、あっ、あんっ!』
腰を押し進めながら久賀は熱に浮かされたように言った。処女ならではの狭さで久賀を締め付けながら、依人は鳴いた。
初めての痛みより、自分を愛してくれる久賀と体を繋げる事ができた喜びの方が勝った。それに、男の自分の体の中にもこれだけ感じる場所がある事にも驚いていた。
依人の初恋は男性の和泉だった。だから男同士のセックスを意識した事はある。でも実際にこうして生身の体で抱き合って、体中を愛撫され、それにちゃんと反応できて快感を得られた事にホッとした。自分も、ちゃんと恋愛できるのだ。ちゃんとセックスできるのだ。
初恋を打ち砕いた和泉に何処か似た、久賀に熱烈に愛されている事も、あの頃傷つけられた自分が報われたように感じた。
あの日をきっかけに始めた努力が実を結んだようで嬉しかった。
けれど、悲劇は翌朝起きた。
朝。久賀の腕の中で目を覚ました依人は、直ぐにシャワーに向かった。肌に負担がかかりにくいBBクリームを薄く塗り、目元はピンポイントメイクをしていた。けれど依人の場合、その目元のメイクがあると無いのとでは格段に差があるのだ。だから依人は、久賀には絶対に完全にメイクを落とした顔を見られたくはなかった。だから早目に起きて、肌を整えてラインだけはしっかり引こうと…。
『…え?……より?』
『まさ…くん…。』
サッとシャワーを上がって化粧水をはたき、洗面所の鏡に向かって手早くアイブロウで眉を足し、極細のリキッドアイライナーで片目を仕上げた時、久賀が入って来た。
確かに抱きしめて寝た筈なのに何処にも居ない依人を探して来たのだ。
鏡に向かって何かをしている依人を見つけて安心して声を掛けたら、依人が振り向いた。が、その顔は、右半分は見慣れた綺麗な依人の顔だったが、左半分は極端に地味な細い目をした見知らぬ男の顔だった。
『…騙してたの?』
そんな言葉が出てしまったのは、反射だった。
騙していたも何も、別に依人がそれで久賀にアプローチした訳ではない。ひっそりと飲んでいた依人に久賀が勝手に恋しただけなのに、そんな事すら頭から消し飛んでしまう程に久賀は動揺していた。
それにしたってもう少し落ち着いてから言葉にしたら良いものを、久賀は依人の右と左のあまりの落差におかしくなってしまって、騙されていたという怒りが湧きかけていたというのに、思わず笑ってしまった。
『ははっ、何それ別人じゃん、すっげえ。ははっ、無理、はははっ。』
依人が傷ついた顔をしていたのを、久賀は気づかなかった。涙が零れそうなのを堪えて左目のラインを引くと、依人は黙ってベッドのある部屋に戻り、ハンガーに掛けてあった服を着た。
そして、未だくつくつと笑っている久賀のいる洗面所の前の廊下を通り、静かに玄関を出た。
暫くすると笑いの波が落ち着いて、再び依人が居ない事に気づいた久賀がさっきの事について首を傾げていると、スマホの通知音が鳴った。
『ありがとう、楽しかった。さようなら。』
それを見た時、久賀はやらかしてしまった事の重大さに気づいた。さっき迄少し感じていた怒りは、波が引いたように引き、ついでに血の気も引いた。
「え、え?嘘だろ…?」
震える指で返信を打つが、既読は付かない。着信拒否されたのか、電話も繋がらなかった。
その時、久賀は初めて気がついた。
依人に夢中になっていたこの2ヶ月、密な遣り取りだけはしていたものの、久賀は彼の勤務先も部屋も、何も知らなかったのだと言う事に。
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