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6階から始まった追いかけっこは長くは続かず、5階から4階の間の踊り場で肩に手が掛かった。それに重心を崩し、よろけた依人を後ろで受け止めたのは勿論久賀だ。 「やっと捕まえた…!」 羽交い締めに抱きしめられた依人は身を強張らせた。懐かしい声と、嗅げばあの日々が瞬時に蘇ってくる香り。懐かしい、恋しい、怖い。 「離せ…!」 「嫌だ、離さない。やっと会えたんだ。」 やっと、って。 その口振りでは、まるでずっと自分を捜していたように聞こえるのだけど、と依人は思った。 (いや、そんな訳ないだろ。あの状態(半スッピン)見られてるんだぞ。) でも、じゃあ何で久賀は依人を追いかけて来たのだろうか。依人はあれから、気分転換にと緩いパーマをかけ、ついでに茶髪から黒髪にして、随分イメチェンした筈だ。それを、手洗い場に立っていた横顔だけで気づいたと言うのだろうか。さっき鏡越しに後ろを横切った久賀に、依人は気づかなかったというのに? 依人は頭を振った。 たまたまだ。久賀はたまたま気づいただけだ。でも、何が目的で追ってきたんだろう。揶揄って嬲ろうとでも言うのだろうか。 「…やっとって何だよ。知らないよ、離せよ。」 「何で逃げる?何で俺に何の言い訳もさせてくれずに逃げた?」 「何でって、それは…。」 嗤われたから。無理だと言われたから。その後始まる断罪が怖かったから。 久賀はきっと自分を責めるだろうと思った。彼が笑いながら別れの言葉を口にして、離れていくのがわかったから。久賀が和泉のように、哀れむような蔑むような目で依人を見るのかと思ったら、耐えられなかった…。 階段を上がってくる足音が聞こえて、依人は我に返った。 そうだ、此処は家じゃない、外なのだ。百貨店の階段の踊り場。何時誰が通ってもおかしくない。男同士のこんな状態を見られたら、それこそ気不味い。依人は久賀の腕から抜け出そうと藻掻いたが、逆に腕を引かれ壁際に追い込まれ、俗に言う壁ドンの形で2年振りに久賀と対面した。 「久しぶり。」 「…。」 久賀は両肘を壁について依人の顔を囲い込んだ。下半身を密着させて両脚の間に膝を差し入れて、完全に逃げられなように固めている。 2年振りに見た久賀の顔が突然の至近距離で、依人は心臓が飛び出しそうだった。 久賀の顔は元から整っていたけれど、頬の肉がすっかり削げて精悍な顔になっている。付き合っていた頃は、未だ少年のような幼さが残っていたのに、今はいっぱしの大人の男のようだ。服装も、Tシャツやパーカーではなく、きちんとした濃紺のスーツだ。少しネクタイを緩めて首元を寛げている。そうか、久賀ももう社会人なのか、と気づいた。それにしても、似合ってる。 たった2年で男はこうも変わるものなのだろうか…。 自分だって男なのに、そんな事を考えて久賀に見蕩れた依人の唇は半開きになっていて、久賀は思わず喉を鳴らした。 ケアの行き届いた依人の唇は、透明な薬用リップを薄く伸ばしただけなのに健康的な薄い桜色の艶が美しい。 象牙色の肌は至近距離で見てもつるんとしていて輝くようだ。間近でよく見れば目元には確かに黒く細いラインが心持ち跳ね上げ気味に描かれているようで元の目の感じもわかるけれど、その線が細い目を絶妙に色っぽく演出しているのなら、依人は相当化粧映えする顔立ちという事になるのだなと久賀は思った。 「綺麗だ…。」 思ったままを呟いたのだが、依人は顔を背けた。嘘つき。そんな言葉が胸の中に渦巻く。 久賀の背後を歩いて降りて行く誰かの視線を感じたが、同性カップルがいちゃついているとでも思われただろうか。店員にでも告げられて様子を見に来られたらと気が気ではなくなった依人は、久賀の腕を押し退けて囲いからのがれようとした。 「離せよ。俺、もう行かないと…。」 「帰るの?」 「彼と待ち合わせしてるんだよ…。」 「彼?」 ぴくり、と久賀の左眉が吊り上がる。 「彼って、何?浮気してんの?」 「浮気って…。」 依人は困惑した。久賀は何を言ってるんだろうか。 「別に浮気なんてしてないけど…彼は一人だし。」 「は?え?俺達別れてないよな?なのに他に男作ってんの?」 「えっ?いや、だってLIME送ったじゃん…。」 「一方的に送り付けて直ぐブロックしたアレ?俺は了承してないよな?」 依人はうぐっ、と返答に詰まった。確かにあの時、メッセージを送った直後、ブロック&着拒にして逃げたという自覚はある。けれど、あれから会わずにもう2年だ。それだけの期間、会わずに音沙汰も無ければ、普通のカップルだって自然消滅で別れた事になったりするものじゃないんだろうか。あんな別れ方をしたんだし、あの頃大学生だった久賀は只でさえ女の子達にモテていたらしいし、とっくに自分の事など忘れて新しい恋人を作っているものだと依人は思っていた。きっとどんな恋人だって、スッピンが笑える程酷くはないだろう。そしてそんな事を考える度に胸が苦しくなり、自己嫌悪に陥る。もう絶対に人を好きになったりなんかしない、と仕事に打ち込んだり、外見を磨く為の研究や整体、ストレッチを勉強したり。 そんな風に静かに過ごしているのに、それでも時に波風は立つ。少しでも普通になりたくて、次には少しでも綺麗になりたくて始めた依人の美の為の研鑽は、放置されるにはあまりに完成度が高くなり過ぎた事を、本人だけが認識出来ない。 久賀と離れて依人を口説いたのは男ばかり4人だった。残念ながら女性が居なかったのは、依人の外見に魅力を感じても、いざ隣に並べば女性である自分の方が見劣りすると理解したからだと思われる。或いは、性的志向が男性に向かっている依人とは本能的に同じ土俵に立っているとわかったのかもしれない。賢明だ。 その点、依人を口説いた男性陣はゲイやバイの自信家ばかりだったし、何なら少し空気の読めないタイプが多かった。何故そんな男ばかりを引き寄せてしまうのかと言えば、そういう男性達の中には恋人や伴侶にはトロフィー的な美しさを求めている者が少なくないからだと言わざるを得ない。 要するに、依人が連れ歩けば自慢できそうな美青年だから欲しいのだ。 会話している限り、依人の性格は従順そうで御し易いそうで、都合が良い恋人になりそうだと踏んで、口説く。 そんな彼らが依人の素顔を見せられて、瞬時に手のひらを返すのは当然の事だと言えた。 熱心に口説かれながらも薄々それを感じ取っていた依人がいちいちそれに傷つかなくなったのも、また当たり前の事だったのだ。 そんな彼らは、もう特にブロックしなくたって二度と連絡を寄越してきたりしなかった。 だから依人にしても、わざわざ自分に関わってくる人間なんて、そんなものだと思うようになったのだ。 なのに、久賀は何を言っているのだろうか。別れを了承していない、なんて。 依人はまじまじと久賀の顔を見つめた。 「…ブサイクと別れ話をする手間が省けただろ?良かったじゃないか。」 「何言ってんだよ。全っ然良くねえわ。」 険しい表情で苦々しい言い方をする久賀。 「言ってる意味がわからない。俺があれからどんだけ探し回ってたと思ってんの?よりの何も知らなかった俺が、どんな風によりを探したのか知ってる?知ったらそんな言い方、出来ねえと思うよ。」 皮肉めいた口調なのに、聞いていて切ない内容で、依人は思わず胸が痛くなった。本当だろうか。でも、久賀がわざわざそんな嘘をつく理由があるとは思えない。本当に謝りたかったのだろうか。それとも、もっと恨み言を言いたくて?依人から別れた事が許せなくて、なんて言われたらどうしようか…。 やっぱり久賀の真意は何時もわからない依人は、仕方なく聞いてみた。 「…ごめんね。じゃあまさくんは、何でそんなに俺を捜してたの?」 聞いた途端、噛み付くようなキスをされた。 告白されたあの日のような、あの日よりもずっと鮮烈なキスだった。 押し付けられた熱い舌は唇どころか歯列を割って依人の中に侵入して、掻き回す。 言葉に出来ないもどかしさを訴えられているような、激情をぶつけられているような、そんなキスだった。
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