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初めての恋人、初めての彼氏。 熱烈に求められ愛される日々は幸せだけれど、少し怖い。報われた先の何処かに、大きな落とし穴がありそうで…。 久賀の部屋から帰路に着いた依人は、少し肌寒くなった休日の朝の空気に身を震わせた。ほんの2ヶ月前の残暑が嘘のようだ。 さっき急いで浴びたシャワーで上がっていた体温は既に外気温に奪われて、頬は風に冷やされてしまった。 滑らかなその頬を伝う、熱い涙。 アイメイクが落ちるのを気にして家に帰る迄は泣くまいと決めていたのに、堪え切れなかった。ウォータープルーフだし、下瞼には何も描いてないし、下睫毛にはマスカラは使わない。だから余程擦らない限りは大丈夫か、と依人は無理に涙を止める事を諦める事にした。もう良いや、流れたいなら流れたら良い。たまにティッシュで押さえれば良いだろう。ファンデは塗らずにいたから頬に涙の跡がくっきり、なんて事も無いだろう。 出勤する人の少ない日曜の朝で良かった、と思った。大の男が泣きながら歩いていたって、気にする通行人は少ない。 電車で10駅以上。特急の停まる駅ではない依人のマンションの最寄り駅は、久賀が住んでいる賑やかな地域とは違い、少しだけ辺鄙だ。その駅から徒歩15分の住宅街の中に、依人の住む築20年のマンションがある。閑静だし家賃は安いし、その割には治安も悪くない。買い物は駅前で済ませておかなければならないが、特に不便は感じない。 何故なら、大概23時迄には寝る依人は、夜中にコンビニに行きたくもならなければ、帰って来てから再び夜遊びに出るなんてお肌に悪い事はしないからだ。日用品の買い物はストックがある内に余裕を持ってするようにしているし、食品だって基本毎日駅前のスーパーに寄って卵や野菜類は切らさないようにしている。そんな依人には、静かで安眠できる環境であれば、多少不便だろうが気にならなかった。 朝の食事の匂いがあちこちから漂ってくる住宅街の道を、依人はスーパーではなくコンビニの袋をぶら下げて歩いていた。 昨日は久賀のバイトが休みで、依人は会社帰り彼と待ち合わせて食事に行き、その後初めて彼の部屋に泊まった。何度か遊びに行った事はあったけれど、即物的な付き合い方はしたくないからと言ってくれた久賀は、恋愛に疎い依人の気持ちが追いつくのを待ってくれて、だから良い雰囲気になってもキス以上の事はしてこなかった。 昨夜はそんな久賀の気持ちに応えたくて、何日も前から覚悟を決めて、勇気を出して泊めてくれと言った日だった。そして、初めて抱かれた。 決してボロは出さないようにと気構えて、上手く出来るつもりだった。 高校の頃と比べれば、容姿は良くなった筈だ。肌も綺麗になったし、眉も整えている。鼻や唇の造形は元からそんなに悪くない筈だから、目さえササッと描いて、出来ればほんの少しハイライトをのせる時間があれば…。早業には自信があるから気づかれたりしないと思っていたのに、まんまと見られてしまった。あと10秒、久賀が来るのが遅ければ、きっとセーフだった。 好きな人に本当の姿を隠していたバチが当たったのだろうか。けれど、世の女性達は依人なんかよりもっとずっと仮面のような化粧で武装しているのに…と、依人は何だか理不尽に思った。 でも、きっと駄目だったんだろう。騙してたのか、なんて言われた後に、あれだけ笑われるなんて…。 これでは和泉に告白した時と何一つ変わらないじゃないか、と依人は悲しくなって唇を噛んだ。 やっぱりこうなるのか、やっぱり自分は変わらず不細工なのか、と落ち込む。しかも既に親密な仲になり、体を繋げて愛を交わし合った後での久賀のあの反応は、正直和泉の時よりもショックだ。 そして再び耳にした、『無理。』というワード。あの言葉を聞いた瞬間、依人の心の扉は閉じた。 だから、あれ以上久賀の傍に居るのが耐えられなくて部屋を出てしまった。 別人じゃん、はある意味褒め言葉になり得る。でも、『無理。』は。 『無理。』というのは、よく聞く『生理的に無理。』『本能的に無理。』という事なのではないのか。 気持ち悪くて、どうしても無理。そういう事なんだろう。 『無理。』なら、仕方ない。 辛くても納得するしかない、無理なのなら。 泊まって、久賀に何か朝食を作って一緒に食べるつもりだったのにアテが外れた。帰ってから米を炊くのも面倒で、朝食をどうしようか考えた。スーパーが未だ開店前だったから、コンビニに立ち寄って買い物をした。中には美味しいとネットで見た食パンとスライスチーズ。あんまり評判だから、ちょっと食べてみたかった。 5年に渡る習慣で、朝食を抜くのは抵抗がある。1日の最初に取り込む栄養が、その日の肌を左右する気がして。 それにしても朝帰りなんて初めてだ、と依人は思った。 また傷つくのが怖くて、恋愛を避けていた。恋愛ルートに繋がるイベントも避けた。見た目はクールビューティで通っていたのであちこちから誘いはずっと掛かったが、それをきっかけに誰かと深く繋がっても、相手は依人の真実や知った途端に離れていくのでは、そんな気がしていた。いつもいつも。 だけどそんな依人の前に、久賀は一陣の風のようにやってきて、唇と一緒に心を奪った。依人の閉ざされていた世界をその熱量でこじ開け、住み着いて。 彼は依人の王子様になった。依人に恋を囁き、綺麗だと褒め、熱の篭った瞳で愛を乞うように見つめてくれた。力づくで依人を恋に夢中にさせた。 それなのに、ほんの少しのラインが無いだけで、彼は依人を、嗤った。あの日の和泉のように。 何時かは打ち明けなければならないかもとは思っていた。その頃には2人の絆はもっとずっと固く結ばれている筈だから、久賀もきっと許してくれる。 だって依人がしてる事はそんなに悪い事じゃない。自分の素材は出来る限り質を上げたし、努力で磨いた。その上でほんの少し、加え足しているだけ。アイプチも整形もしていない。単なるメイクをしてるだけ。ある意味奇跡の化粧映えだと思うのだが。 それくらい、今どき女の子じゃなくてもしてる。韓流アイドルなんかするのが当たり前ってくらい、ごってり乗せてる。 今の依人の素顔なら、依人を愛してくれている久賀なら、きっと許してくれると信じた。 依人は、そんな甘い期待を抱いていた自分を笑った。 現実はどうだよ、と。 さっき依人の顔を腹を抱えて笑っていた久賀の姿が、記憶の中で完全に和泉と重なって息苦しくなった。 マンションのエレベーターを降り、辿り着いた部屋のドアを開けて入った玄関でずるずると膝から崩れ落ち、依人は今度は遠慮無しに泣いた。もうアイラインがどうなろうがどうでも良い安全圏に入ったと思ったからだ。 依人は初めて深く結ばれた恋を、処女と共に失った。 二度目の失恋は依人を更に用心深くした。なのに、恋愛とセックスを知った依人は何かが変わったのか、前よりも熱心に口説かれる事が増えたから皮肉なものだ。久賀の居る店に行かなくなった依人が失恋から立ち直ったのは半年も経ってからだった。新たに見つけた店に通い出して直ぐに、飲み仲間になった歳上の男に口説かれた。3ヶ月ばかり、落ち着いて実直そうに見える彼に熱心に口説かれて、依人は根負けした。 けれど、もう同じ轍は踏みたくなかった依人は、付き合い始めて1ヶ月目でベッドインする前になって秘密を明かした。 いざ抱こうとした時に、スッピンでバスルームから現れた依人に、彼は勃たないと苦笑いした。 まさかそんな風だったとは思わなかったと。 『いや、ちょっと無理だ。』 再び、その言葉を投げかけて。 依人はその時も黙ってアイラインを引いて帰った。 セックスする前だったからなのか、単に恋愛感情が育ち切ってなかったからなのか、久賀の時のようには、傷つかなかった。 それから数回、同じような事が繰り返された。 まるで呪いのようだと、依人は思った。
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