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Aの心境は穏やかではなかった。
机の上に広げられた数Ⅱのページは先程から捲られる様子がない。
お天道様は就寝時間で、外は完全に墨汁で塗りつぶされていた。代わりに都会の明かりに負けた星々と月が虚しく愚かな人間どもを見下す。
来年の初めは早速受験という、進学を目指す学生なら必ず通らねばならない大きな壁が立ちふさがっている。Aはこの壁が地獄の門に見えて仕方なかった。
自分の将来に希望を見出して、必死に決めた進路。Aにはなりたい夢があった。なあなあに進路を決める同級生たちを可哀そうにと鼻で笑うくらいには明確な夢。
しかし最高学年に上がれば、自分の成績は振るわない。別に勉強をサボったつもりはない。むしろ絶対に叶えるのだという頑固たる想いで勉強をしてきた。なのに、廊下に貼りだされる学年順位は下がっていく一方。なあなあに進路を決めていた奴らに追い越されて悔しさしかなかった。
このままではいけないとAはより一層勉強に打ち込む。友達からの遊びの誘いも、自分が今まで楽しんでいた趣味も、全てすべて自分から切り離した。無駄なものに時間をかけるくらいなら、Aは全て勉強に打ち込むと決めた。好きだったアイドルのポスターを全て捨てて、目標大学の写真を壁に気持ち悪いくらい貼り付けた。
でも、この間の学期末試験も、外部で受けた模試の結果も振るわなかった。
両親は「気に病みすぎてはダメ、あなたが頑張っているのは知っているから」と慰めるも、Aの気休めにすらならなかった。
Aはとにかく自分の置かれた状況が憎かった。周りは勉強をしているかどうかもわからないくらい呑気なのに、なぜ成績で負けるのか。
──来年はもう受験だよ? 遊んでいる余裕も笑っているゆとりもないはずなのに、何でそんな楽しげなの?
「(なんでそんな奴らに私は負けなきゃならないの……!)」
この通り、Aの情緒は酷く荒れていた。嫉妬の炎が燃えているなんてレベルじゃない。楽しそうに笑っている世の中全員がとにかく憎くい。
このままでは将来の夢も叶わない、と焦ったAは夏休み全部勉強に捧げると決意する。周りが涼しい所で夏を楽しむならば、私は涼しい所でより一層勉強に打ち込んで、夏休み明けには全員追い越してみせる! ──その考えは執念を通り越して一種の呪いになっていた。
しかしその呪いが影響してか、それとも視野が狭くなっているAを気づかせるためか。夏休み入って早々、部屋のエアコンが壊れたのだ。修理を依頼するも、型が古すぎて直せない。新しいのを買い替えることになったが、供給が追いつかないのか取り付けがかなり先。幸先悪すぎてAは泣きたかった。
熱中症になっては一大事だから、と長年納屋に眠っていたボロ扇風機でどうにか暑さを凌いでいる。
でもいくら灼熱の太陽が隠れた夜とは言え、暑いものは暑い。セミの鳴き声が聞こえないだけマシではあるが、嫌に纏わりつく汗とむわっと噎せ返る湿度がAを余計に苛立たせていた。お陰様で問題集を解く余裕すら無くなっている。
我慢の限界だ! とAは静まり返った夜にも関わらず荒々しく立ち上がる。椅子が派手に倒れて音が鳴り響くも、構っている余裕はない。Aは部屋に籠った気持ち悪い熱気を外へ追いやろうと、カーテンに隠れている目の前の窓を開けることにした。
カーテンレールが壊れそうな勢いでカーテンを開ければ、すぐにお目当ての窓が顔を覗かせる。暗い住宅地を見せる無機質なそれには、隈が酷い上に大変荒れてやつれたAの顔が写し出されていた。その醜さにAは派手に顔を歪ませて盛大に舌打ちをする。
苛立ちを隠そうともせず、殴る勢いでロックを解除しようとすれば、Aは異変に気付いた。
窓に写っている自分の背景が、自分の部屋ではないのだ。
思わず振り返る。しかしいつもの見慣れた部屋が広がっているだけだ。
もう一度窓と向きなおすも、どう見てもそこに部屋はなく、学校の見慣れた教室が写し出されていた。
Aは一度己の目を擦る。右目を手の甲で拭う姿が映るも、背景は変わらない。
ついに幻覚を見るくらいには疲れたのか、とAは己自身に自嘲した。でも今のAには大人しく寝るという選択肢はない。──寝る余裕があるくらいなら、勉強して成績を上げる。Aの意思は固すぎた。
ここでふとAはあることに気づいた。窓に反射する情けない己は朧げに透けているが、背景の教室は嫌にハッキリしている。そして何より、笑顔で友達と談笑している自分が映っていた。まるで今の自分を嘲笑っているように、それはもう楽しそうに談笑していた。何を話しているのかはわからないが、Aはその光景に耐えられなかった。恐怖よりも圧倒的に怒りが勝っていた。
Aは忌々しい窓を今すぐにも割ってやろうと拳を振りかざす。さっさとこの揶揄ってくる映像を消し飛ばしたかった。
だがその拳は寸で止まる。
何故なら、瞬きの合間に映像が切り替わったのだ。
和気あいあいと胃もたれのする教室から、また見覚えのある光景だった。
古民家とも言える懐かしい雰囲気を纏ったそれは祖父母の家だった。
縁側で、自分ではない自分がスイカに齧り付いていた。何とも美味しそうである。耳元でしゃくっと耳心地の良い音が聞こえてきた気がした。その情景に、夕飯どころか食事そのものすらろくに取っていないAの腹がくぅと鳴る。
これは自分の過去を映し出しているのだろうか──。
どこか懐かしく、切ない気持ちに襲われるA。窓に映る、半透明な本当の自分が今にも泣きそうなくしゃくしゃで不細工な顔にAは更に泣きたくなった。
急に映し出された摩訶不思議な蜃気楼を、今度こそ消し去ろうとロック解除を試みる。でもやはり瞬きをした一瞬でまた映像が切り替わった。
今度は海水浴。水着に着替えた自分が楽しそうに浜辺で遊んでいた。ここでようやくAは過去の映像を見させられているわけではないと気づく。切り捨てたはずの友達とはしゃいでいるのだ。Aの記憶にこんな輝いたものは無い。
ではこの映像は何なのか、そして誰が映し出しているのか。Aにはてんでわからなかった。でも何となく予想はできた。これは、もしかしたら全てを捨てず明るく過ごしていたら経験していたかもしれない映像ではないのだろうか。何でこんなのをわざわざ自分に、窓を通して見せてくるのだろうか。この窓は自分を馬鹿にしているのだろうか。Aはもう、窓に映っているifの自分と違って、何でも悲観的に捉えることしかできなくなっていた。
だがここまで来ると次は何が映し出されるのか逆に気になってくる。皮肉にも、ここまで勉強漬けだったAにとっては例え不気味で不可解な現象でも、いい息抜きになっているようだった。Aはこれまでの経緯を踏まえて、ゆっくりと目を閉じてゆっくりと開く。
案の定、窓の映像が変わっている。次は毎年行われている近所の夏祭りだった。窓の中の偽Aは、この間近くの商業施設で見かけた可愛らしい浴衣を着てりんご飴を持っていた。誰かと訪れているのか、時々後ろを振り返りながら楽しそうに屋台を駆けて行く。自分もあんな輝かしい笑顔をできるのかと、微かに驚きが黒くやつれた顔に混ぜ込まれていた。
次々と流れては映し出されるあり得たかもしれない夏に、Aの怒りは完全に萎えていた。謎の映像を消すつもりが、自分のやる気が消えていた。握り込まれていた拳はいつの間にか緩み、顔色の悪い疲れ切った無表情がのべーっと不気味に映り込んでいる。
窓に映るAが人混みからどんどん離れていく。しかしあのAは自らの意思で離れているらしく、笑顔が絶えない。そしてAは窓のAがどこに行こうとしているのか見当がついた。花火がよく見える近くの丘だ。呪いにかかる前はAもよくそこで花火を見ていたのだ。
窓のAがそこへ向かっているということは、この後窓に花火が映るのかもしれない。理由のわからない蜃気楼だけど、綺麗な花火が見られたらちょっとした息抜きになっていいかもしれない。これで少し心が潤ったら、勉強が捗るかもしれない。Aの心は映し出されるかもわからない花火に弾み始めていた。
窓の輝くAが馴染みの丘に座り込む。もし窓のAが己であるのならば、恐らくそろそろ花火が打ちあがるのだろう。Aも内心腰を据えた。窓にはまだ不気味なAが映っている。むしろこっちの本物Aが怪異に見えてきた。
今か今かとワクワクを隠しきれていない偽Aの横顔。自分の顔なのに、Aは羨ましくなってくる。嫉妬の炎は鎮火されているが、心の中で別の何かがくすぶっていた。
Aの指が、窓の光り輝くAへと伸ばされる。その笑顔が欲しいという訳ではないが、忘れてしまったそれに触れたいという思いが潜在意識内で芽生えたのかもしれない。
人差指の先に、生温くて硬いガラスが伝わる。当然だった。人肌が伝わる訳がない。ガラスの滑らかな材質が酷く現実を押し付けてくる。
「(まあそうよね、何してるんだろ私……)」
えも言えない虚しさに指を引っ込む。──いや引っ込もうとした。
突然、笑顔の横顔を見せつけていた偽Aが真顔で本物Aへと振り向いた。笑顔は消えていて、感情が一切読めなくなっている。
予想外の出来事に、Aは一瞬狼狽えて指を引っ込みそびれた。
窓の偽Aはそれを見逃さなかった。りんご飴を持っていない方の手をこちらへ伸ばしてくる。ガラスに映る二次元なのだからこちらに影響はないはず。だというのに出て来ないはずの腕が窓からぬぅっと生えてきた。
ありえない状況にAはようやく恐怖を覚える。やつれた気味悪い顔が恐怖に染まっているところが、笑いものにするように窓へ映されていた。
迷いなく真っ直ぐ伸びてくる腕に、Aは逃げようとする。でも足が震えて言うことを聞かない。
やっとの思いで足を一歩後退させる。──だが遅かった。
映像から生まれ出てきた腕に、引っ込みそびれた手首を鷲掴みにされる。そしてそのまま想像もつかない力で引っ張られた。このまま行けば窓に衝突して割れて、大怪我だ。
だけど、予想していた激しい衝撃は襲ってこない。それどころかAの姿は窓の中へと吸い込まれ、瞬く間にその姿はあっけなく消えた。窓の映像もいつの間にか消えていた。
筆記具が虚しく転がり落ちる。
窓に、誰でもない黒い人影が不気味に笑っているのを見た人はいない。
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