記憶を無くした幽霊ちゃん

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 もう幾度目かわからない光が世界を照らし、雄鳥が朝旦を語る。  お兄さんの隈はここ数日で一層濃くなっていた。そしていつもの出勤時とは違う姿に私は疑問を覚えるも、今日もお兄さんに憑いていく。もう日課になってしまった。  いつもと違う電車にいつもと違う道、いつもと違う土地。もちろん、目前に立っていた建物もいつものビルではなく、お寺だった。  フラフラと千鳥足なお兄さんがお寺の敷地内へ踏み込めば、何かを察した僧侶がサッと近寄って来る。お兄さんが一言二言言葉を交わせば、僧侶は中へと案内した。その際、僧侶はチラッとこちらを見た気がしたが、特に何も反応が無いので気のせいだと思うことにした。 「何があったのか詳しく聞いてもよろしいでしょうか? 」  中へ案内されて少し落ち着いてから僧侶が早速質問を投げ掛けてくる。お兄さんが少しでも渇きを潤そうと、出されたお茶に口付けた。 「はい……。数日前……大体一週間くらいでしょうか、家で持ち帰った仕事を消化していたら突然ラップ音が鳴り響いたんです。最初は家鳴りかとも思ったんですが、あまりにもリズミカルに鳴り響くものだから恐怖を覚えて……洗面台に置いていた生活品も全て落ちていて……」  声を震わせながら少しずつ話をするお兄さん。声の震えが全身に行きわたっているのか、手元の湯呑も小刻みに震えていて中身のお茶がゆらゆらと波打っている。  そんな様子のおかしいお兄さんの話を、僧侶は静かに耳を傾けていた。 「それからなんです……会社のトイレに駆け込めば急に激しくドアを叩かれて……血の手形がドアにも予備のトイレットペーパーにもべったりついていて……。別の日では帰り道気配を感じるなと振り向いたら、あらぬ方向に曲がった血まみれの足が見えて……。他にも買い物中に血に濡れた野菜がいつの間にか籠に入っていたりと……とにかく連日怪異現象に悩まされているんです! 」  これだけじゃないんです! まだまだあります! と叫んでお兄さんは対面の僧侶に噛みつきそうになる。  僧侶と一緒に、静かにお兄さんの話に耳を傾けていた私だったが、彼の話に聞き覚えがすごくあった。むしろすごく身に覚えがあった。……あれ、これ今まで私が善意でやってきたことじゃね?  荒ぶるお兄さんを優しい手つきでどーどーと落ち着かせた僧侶は再び私へと目線を送る。……あ、やっぱりこの人、私の事見えているわ。 「……スーツ姿の女性に、身に覚えはないですか? 」 「……」  ここまで無言を貫き通していた僧侶がようやくその口を開く。僧侶の質問に対して今度はお兄さんが無言になるが、そんなことなんか気にせずまるで私のターンだと言わんばかりに僧侶の口が回った。 「かなり血まみれですね。何かに轢かれた感じです」  静かにぺらぺらと私の特徴をあげていく僧侶に対して、お兄さんはギリィっと噛みしめながら苦しそうに俯く。だがすぐに顎の力を緩めた。 「……あります」  空気に溶けていくような声量で切りだせば、お兄さんはぽつりぽつりと語りだした。  ──それはある夜。いつものように残業が長引いて終電間際の電車で帰ろうとホームで並んでいたとお兄さんは言う。 「毎日こう、残業が続くと疲労もマックスになりまして……俺は並びながらもうつらうつらとしていたんです。でも前に並んでいた女性も同じようでした」 「……その女性はスーツを? 」  私の内側でパチッと何かが弾かれる。 「はい。お互いに『ここで寝てしまっては帰れない』って感じに意識を飛ばさないよう必死でした。神はそんな俺たちを起こそうとしたんでしょうか。運悪く、俺の後ろを泥酔したおじさんが歩いたんです。相当千鳥足だったんでしょうね。そのおじさん、派手にぶつかったんです。こちらは疲労困憊で立っているのもやっとな状態でしたからバランスを崩すなんていとも簡単でした……。それがいけなかったんです。俺が倒れたらドミノ倒しのように前の女性も倒れてしまって……」  お兄さんの話に耳を傾けているとずっとバチバチと()()が私の中で弾き続け、ついにはパァンと大きな爆発が起きた。そしてそれと同時に走馬灯のように当時の映像が流れ込んできた。  ──私も、連日残業が続いていた。こんな日が一日でも早く終わればいいのに、異世界転生してのんびり過ごしたいと思いながら終電を待っていた。恐らく、今のお兄さん並みに虚ろな目で人間以下の何かになっていたと思う。……今とそう変わらないな?  すると突然、ドスッと大きな衝撃が背中に走った。終わりのない事務作業に運動なんて碌にしてこなかった私はいとも簡単にバランスを崩して、大きな浮遊感を覚えた。そしてまた全身に大きな衝撃が走った。流石にここまで痛みを覚えれば目が覚めるというもの。何が起きたのかと状況把握しようと辺りを見回すと、私はホームの下──線路の上に落ちたことに気づく。もうその時点でパニックを起こすというのに、更に不運が続いたのだ。電車が、スピードを落とさずにやってきたのだ。時間的にも、あの駅に止まらない電車だった。あまりにも短い時間での出来事に私は何もできず、動けず──。体に三度目の激しい衝撃が走って、記憶ががらんどうへと落ちていった。  私はついに全ての記憶を思い出す。でも、思い出さない方がよかったのかもしれない。何故なら、私の中でどす黒いなんて生易しい表現は当てはまらないほどのドロドロしたものが一気に攻め込んできて、自分を保てない。怖さよりも先に激しい憎悪が蝕む。憎悪に乗っ取られた体は勝手に口を開いた。 「許さない許さない許さない赦さない許さない許さないゆるさない許さないゆるさないゆるさない赦さないゆるさないゆるさないユルサナイゆるさないユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナ」  ドロドロと形容し難い感情が言葉となって口から吐き出される。しかし減る様子はなく、むしろ延々と憎悪は作り出されている感じだった。止めたくとも止められず、言うことの聞かない体に私は髪をかき乱す。幽霊……いや、怨霊である今、少しでも感情を爆発させれば周囲のものはラップ音ないしポルターガイスト現象となって暴れ出す。部屋は三十二ビートのラップ音を刻み、ありとあらゆるものが部屋を飛び回る。お兄さんは今までの中で一番激しい怪異現象に恐ろしくなって泣き始めるも、僧侶は静かにお茶を飲みながら器用に飛んでくるものをかわしていた。  私をホームへと突き落したお兄さんへの憤怒も強さを増しているが、それ以外にも異世界転生をさせてくれなかった神にも激しい怒りを覚えていて、私の中でのドロドロした負のものが更に生産され続けている。怨霊となった今でもそんなことを考えている自分がもっと嫌になって、またドロドロしたものが作り出される。完全に負のものを作り続ける生産工場と成り下がっていた。口から吐き出される「ゆるさない」は何に対してぶつけているのかもうわからない。 「でもそれ、あなたは悪くないですよね? 」  己の口から吐き出される呪詛しか聞こえない中、僧侶の優しい声が澄み渡る。憎悪生産工場ラインは緊急停止した。  僧侶はお兄さんに話しかけているはずなのに、まるで私に語り掛けているようだった。私の憎悪が思ったよりも弱かったのか、それとも僧侶の方が一枚上手だったのか。彼の一声のおかげで私は少し冷静さを取り戻すことができ、自分で起こしていた怪奇現象がピタリと止まった。壷だか大皿だかがパリンと割れた気がするけど、気にしない。  でもお兄さんはそうではなかったみたい。 「でも突き落したことには変われません……! 」  膝に置いていた手をこれでもかと強く握り、その声を震わせていた。だけど僧侶は相変わらず落ち着きを払っている。 「ですが、それはあなたの意思でですか? 違いますよね? 」 「そう、ですけど……」 「あなたにとり憑いている女性も、あなたは悪くないと知っています。ですから彼女は今の今まで怨霊に成り下がらなかったのです」  そうなのか……。私はてっきりお兄さんが犯人だと心の奥底で思いこんでいた。だから記憶を取り戻したと同時に、憎くて憎くて苦しい想いが一気に爆発したのだ。でも確かに、お兄さんの話を聞けば悪いのはその泥酔した男だ。  何で私は今まで憎悪に蝕まれなかったのか。それは記憶が落ちていたから。  ──では何故私は全て忘れていたのか? はっきりとした答えはわからない。幽霊となる際に何かしらのバグが発生してシステムに異常が起きていたのか、はたまた神様の粋な計らいだったのか……。わからないけれどただ言えることは、そんなことしなくていいから異世界転生させてほしかった! 「全ては不運が招いてしまったことです。あなたは悪くない」  ですから自分をそう責めないでください、と僧侶は穏和に語り掛ける。 「いや俺というよりあのクソ酔っ払い……」 「それと、あなたのその罪悪感が彼女をこの世に引き留めています」 「そう、なんですか……? 」  そうだったのか……。 「はい、そうです。ですので彼女を成仏させたいのなら、謝罪と感謝の言葉を送ってください」 「謝罪はともかく……感謝? 」 「ええ、感謝です。今までの出来事、彼女なりに助けていたみたいですよ? 」 「あれで?! 」  吃驚仰天なんて四字熟語がぴったりな反応を返してくれるお兄さん。あれでとか酷いな! よかれと思ってやっていたんですう! 「あとそうですね。彼女は異世界転生できなくて怒ってますね」 「それは……俺には無理ですね……」  それに関しては私もそう思う。  だが、お兄さんは何か思うところがあるらしく、しばらく無言で思慮する。  そして意を決したのか、お兄さんはゆっくりと手を合わせた。僧侶は静かに見守っている。 「えっと……名前も知らない幽霊さん」 「あ、心の中で唱えるだけで大丈夫ですよ」 「あっはい」  お兄さんは頬を赤くするも、手を合わせたまま静かに目を閉じる。そしてすぐに心を通して念じるにしては優しすぎる言葉が私の中へ中へと降り注がれた。  次々と送り込まれる数々の優しい言葉に、私の中で無限に作られていたヘドロよりもどす黒い感情が徐々に浄化されていく。恵みの雨とはこういう感じなのだろうか。私の内側が段々と潤っていき、その清らかな心地よさに私は自然と涙を一筋垂らしていた。もちろんラップ音は発生しない。ラップ音、空気を読んでくれてありがとう。  私の内側が清らかな愛で満たされると、急に星とはまた違った黄金色の光がキラキラと私の周りで輝き始めた。ああ、私ようやく成仏できるんだな、と直感で察した。  今度は愛で満たされた私はまた口が自然と開く。しかしそこから出てくるのは憎悪にまみれたドロドロしたものではなく、愛に溢れたキラキラと澄んだ言葉だった。 「お兄さん、怖がらせてごめんなさい。一瞬でも恨んでごめんなさい。でも、お兄さんのおかげで私の記憶が戻りました。お兄さんがいてくれたから怨霊に成り下がらずにすみました。ありがとうございます」  これでようやく成仏できます、と言い終わる頃には私の意識はまたがらんどうへと消えていった。同じがらんどうでも、今度は白くて眩くて暖かいがらんどうへ──。 「……無事、成仏できましたでしょうか? 」 「ええ、とても安らかな顔でした」 「そうですか……異世界転生、できたかなぁ」 「どうでしょう。転生トラックに轢かれたわけじゃないので」 「なにそれ」 ー記憶を無くした幽霊ちゃん・完ー
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